一事が万事


ぼくが「こうはありたくないなぁ」と思う言葉…それは「一事が万事」。ファンをやっていれば,確かに「こりゃ解せないなぁ」とか「…何だ,この憤りは…」なんてことはいくらだってありますよね。けれど,たいていの場合,物事には反対側の面っていうのがあるもんです。

同じ出来事について,自分は喜んでいるとき,他には同じ出来事に怒り狂っているひとがいるかも知れない…いや,たいていの場合はいるんです。逆の場合も。サイトをやっているからには,自分以外の方に読んでいただいていて,多かれ少なかれ,書いている内容を知って欲しくて物を書いている,というのが前提です。その場合,「喜び」を書くのと「怒り」や「憤り」などを書くのとでは,後者の方が圧倒的に難しいんじゃないか,とぼくは考えています。そのままぶつけただけじゃ,マイナスの感情は感情のままであって,理解にはつながらないんじゃないでしょうか。だから,ぼくの場合は,へこんだときほどテキストが長くなってしまいます。後ろ向きな見解を書く時ほど,使うエネルギーは増えてしまうものなのです。

例えば。ある出来事について,「○○が××なので,ぼくはこれについてはナシの方向です。」という文章のうち,「○○が××なので」にあたる部分がなかったり,つながりが見えにくかったりして,いきなり「あり得ねぇ」とか「ふざけるな!!」とかだけ書いてあるテキストがあったとしましょう。書かれた方の意図が,単に感情の発散であったとしたら,それはそれでよいのでしょう。自分も「ナシ」だと思っていれば,理由などはどうでもよい場合もあるでしょう。けれど,自分がその出来事を「アリ」だと思っている場合,この文章では,「ナシ」な理由は知る由もありません。うがった読み方をすれば,「このひとは,いちゃもんをつけたい,というポリシーが最初にあって,出来事は後付けなのかなぁ」と受け取ることもできます。同じ「ナシ」なことを書くにしても,大きな違いがあるんだとぼくは思います。

…少なくとも,ぼくは書き捨てで「ナシ」だとは言いたくありませんし,書き捨てることが「モノをはっきり言う」ことだとは思いたくありません。「書き捨て」を避けるのと,「オンライン・オフラインでの交友関係の悪化を恐れて,後ろ向きな意見を伏せる」というのとは違う,とぼくは信じます。「そんなの同じじゃん!」と思われる方は,「ナシ」=書き捨て,と思われているんじゃありませんか?

2003.10.04:日記から(原文まま)