ナルの意識が戻ったのは思ったよりも遅く、翌日の夜になってからだった。
 最初に医者から説明されていたよりも一日ほど長く眠っていたため、何か問題があるのではないかと担当医に何度も聞きに行ってしまったほどだ。
 不安を隠しきれない様子の麻衣に医者は、面倒がらず何度も根気よく説明をする。
 普段から薬を飲んだりしていないため、投薬した薬が効きすぎてしまったようだと。
 看護師にも思わず苦笑をされながらも「自然と目を覚ましますから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と繰り返し言われるほどだったが、それでも、医者がどんなに大丈夫だと太鼓判を押してくれても、不安はつきない。
 人はいつでも唐突に、命を終わらす事があることを麻衣は知っているからだ。
 幾ら大丈夫だと言われても、ナルが意識を取り戻すまでどうしても安心することができず、まだ幼い千鶴には申し訳ないと思ったのだが、結局は一度もマンションに戻ることもなく、再び夜を迎えることになってしまった。
 彼女を休ませてあげないといけないと理性では判っていても、ナルの傍から離れることがどうしても出来ず、少女が自分は気にしなくて言いという言葉に甘えて、責任から目を反らし続けた。
 マンションの寝室で眠るナルをみてもこれほど不安に苛まれることはない。
 病院の消毒薬の臭いが染みついた空気が、静寂の中に潜む微かなざわめきが、心にさざ波を立て、過去を嫌でも意識させる。
 冷たい骸と化してしまった母の姿とナルの姿が重なり、不安が潰えることがない。
 理性ではなにも心配する必要はないと判っているのに・・・・
 感情がどうしても全てを支配する。


 怒られる・・・だろうな。


 判っていてもただ、ひたすら待つことしか出来なかった。
 その双眸はゆっくりと開く時を。












 陽がすっかりと沈み空が黄昏から濃紺に変わり始めた頃になって瞼が数度痙攣する。
 目覚めの兆候だ。
 息を呑んで見つめているとゆっくりと瞼が開く。
 ぼんやりとした視線が辺りを伺うようにゆっくりと彷徨う。
 一瞬、自分がどこにいるのか判らなさそうに眉をひそめていたが、直ぐ傍で自分をじっと見つめていた麻衣の姿を見るなりに思考がクリーンになったのか、凡庸としていた双眸にはっきりと強い意志が宿り、状況をおそらく把握できたのだろう。
「依頼人はどうした?」
 開口一番の言葉に、思わず脱力をしてしまいベッドに突っ伏したとしても誰も何も言うまい。それどころか気の毒そうに肩を叩かれ励まされるかもしれない・・・そのぐらいに、ナルらしくそして心配しがいがない第一声だった。
 だいたい普通ならば、「ここは?」とか「心配をかけた」という言葉が一番最初に出るべきじゃないのか?とつっこみたいぐらいである。
 だが、さすが、仕事の鬼・・・いや、中毒者だ。意識を取り戻すなり思考はすぐに仕事のことである。 
「リンさんと、安原さんが引き継いでくれているから心配はないよ。
 機材は昨日のウチに撤収済みで、今後のことをどうするかはリンさんが   ナル?」
 麻衣からの報告を遮ることはなかったが、ナルは呆れかえったようにため息を漏らす。
 なぜ今の報告で呆れたようなため息がでるのだろうか?
「なぜ、お前がここにいる?」
「何でって、ナルがPKを使って倒れたから・・・」
 質問の意図が判らず首を傾げる麻衣に、ナルは考えていることを伺わせない視線を麻衣に向ける。
「なぜ、仕事を放棄した」
「放棄って・・・だって、ナルが!」
 麻衣は全てを言い切らないうちに、ナルの視線に圧倒され言葉を飲み込んでしまう。
「どんな理由があろうとも、お前は自分の意志で現場を離れた。それには違いない。
 まして、あの状況下の依頼人を放置しておく程の状態だったのか? 確かに僕は、PKを使って意識を無くした。その後どんな状態になったかは判らない。
 だが、たとえ心肺停止をしていたとしても、救急車が来ればあとは救急隊員に任せられるはずだ。
 そんな状態になった人間に対して、お前が何かできたのか? ただ傍に居てオロオロするだけだろう。下手をすれば、処置をする人間の邪魔になっていたかもしれない。
 付き添いが必要だったというならば、それこそリンや安原さんに連絡を取って、搬送先に行って貰えば良かっただけの話で、お前が現場を離れる必要などなかったはずだ。
 あの状況下で、依頼人を放置したと言うことは、仕事を途中で放り投げた事と変わらない。
 あの場合優先すべきことはなんだ?
 人命を第一に考えるのならば救急隊員に引き継ぐまでの話だろう。それ以降優先しなければならないのは依頼人達の安全じゃないのか?
 何が起きたのか判っていない依頼人達を放置してまで、何も出来ないお前が付きそう必要があったというのか?
 お前は何を考えて仕事をしている。
 どんな心構えで仕事をしているんだ。
 ただ、僕と一緒にいるために仕事をしているというならば、考えを改めろ。いずれ取り返しの付かないミスをするのがオチだ。
 そもそも、そんな不純な動機で仕事をし続ける人間を雇うほど僕は甘くない。
 改めることが出来ないなら、お前はこの仕事を続けるべきではない」
 麻衣は唇をぎゅっと噛みしめて、ナルの言葉を聞いていた。
 ナルの言うことの方がプロ意識としては正しい。
 確かにナルはPKを使って、意識を無くし倒れたが、以前とは違い脈も呼吸も弱いながらもあった。一分一秒の余談も許さないという状況でもなく、直ぐに救急車も来て救急病院に運ばれていった。
 その時点で麻衣にはすでにすることがなく、テリトリーは医者になり、ただ麻衣は処置が終わるのを廊下で息を呑んで待っていただけだった。
 その後も同様だ。
 不安定ながらも医者に命に別状はないと診断されたのだ。例えその時点まで付き添っていたとしても、問題ないと診断を受けたのだからどんなに遅くても、その場ですぐに引き返すべきだったのだろう。
 本来ならば、名取家の人々の元から離れるべきではないのは判っていた。
 そう、ナルに言われるまでもない。
 理性では判っているのだ。
 だが、ナルが意識を無くして倒れた瞬間、全身を巡る血が一瞬のうちに凍り付いたかような錯覚に陥った。
 あまりにも弱々しい脈に、今にも止まりそうな呼吸に、このまま止まってしまうことが怖かった。
 紙よりも白い・・・青ざめた顔が、まるで命を吹きこまれるのを忘れたビスクドールのような存在に思え、このまま、ナルが自分の前から消えてしまったらどうしようという感情だけで何も他は考えられなくなっていた。
 彼らの愚かな行いが、自分の最も大切な人を奪っていくのかと思うと、頭の中が真っ白になって、ナルのことだけが思考回路を埋め尽くし、五感という五感全てが、ナルのことだけを察していた。
 彼らのことを考える余裕など、一ミクロンたりともなかった。
 だが、それはプロとして失格だとナルは言う。
「私はただ・・・・・」
「僕のことが心配だったと?」
 言葉を濁してしまった麻衣の言葉尻を察し、続けたナルに麻衣はコクリと頷き返す。
「僕の心配をするなというのがお前の場合無理だろう。
 だが、全てのことを放り出してまで優先しなければならないことだったか?」
 判らない。
 あの時のことは、頭が真っ白になっていて何も判らない、思い出そうとしても思い出せるのは、あの時彼らに対して抱いた怒りだけだ。
 今でも思い出すだけで吐き気がするほど憎らしくさえ感じる。
 麻衣は、何も言える言葉を見つけられず、ただ俯いてぎゅっと唇を噛みしめ続ける。
 拳を強く握りしめながら。
 何も言わず、俯いている麻衣にナルは軽くため息をつく。
「とにかく、もう僕に付き添う必要はもうない。
 すぐにリンの指示に従って仕事に戻れ」
 突き放されるような声に、麻衣は弾けるように顔を上げると縋るような眼差しをナルに向ける。
「だけど、ナルまだ本調子じゃないでしょ?」
 麻衣がなぜそこまで不安に感じるのかナルには判ってはいたが、だからといってそれをくみ取るほどナルは甘くはなかった。
「麻衣、まだ判らないのか?
 お前が優先すべき事は僕の看病をすることか? それとも仕事か?」
 ナルはあくまでも仕事を第一優先と考える。
 自分達は学術的調査を目的として、仕事を請け負っているが、現場は常に危険が孕んでいるものだ。
 感情よりも理性を動かし、常に冷静に考えて行動しなければ、自分ばかりではなく周りにいるものにも迷惑をかけ、命にも関わる事態を起こしかねない。
 短くはない経験で、それはよく判っている。
 それでも、自分はナルほど割り切った考え方はできない。
 大切な人が傷つけられば憤る。
 誰かが悲しい思いをしていたら、一緒に哀しくなる。
 笑いたい時は笑い、泣きたい時は思いっきり泣く。
 コントロールしたいとおもっても、感情をセーブしきれなくいことの方が多い。
「私はナルみたいに割り切れないよ!
 いやだったの! だって、下手をしたら心臓が止まっていたかもしれないんだよ? もしかしたら、途中で容態が急変していて、二度とナルに会えなくなるかもしれないと思ったら怖くて・・・・・ずっと傍にいることがそんなにいけないことだって言うの?」
 ナルは答えないが、麻衣は涙目でナルを睨み付ける。
 付き添っていたことを感謝して欲しいとは思わない。
 それは、自分がしたくてしたことだ。
 ありがたく思ってもらえるなんて毛頭思ってもいない。
 意識が戻ればすぐに、仕事に戻れ、五月蠅い、邪魔だと言うだろうとは思っていた。
 それでも、こんな風に切り捨てられるとは思わなかった。
 優しい言葉が欲しいわけでもない・・・
 こうなることは判っていた。
 それでも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それは、あくまでも自己都合だな。それが仕事を放棄する理由になるのか?」
 激高するのがばからしく感じるほど、ナルは淡々としていた。
「わたしは・・・わたしは、ナルみたいに全てを割り切って考えられないよ!
 仕事だって大切だけど、いい加減な気持ちでなんてやってないけど、だけど、仕事だけを第一に考える事なんて出来ない!!」
「考え方の相違だな。これ以上それについて交わしても平行線なだけだ。
 ご託はいいから仕事に戻れ。
 僕の意識はもう戻った。なら、心配はもうないだろう」
 怒りのあまりに身体が震えることなど、人生の中で実際にはそんなにないだろう。
 だが、麻衣はこの時本当に怒りで身体を小刻みに震わせていた。
 握りしめた拳で、目尻に浮かんでいた涙を乱暴に拭うと、近くに置いていた鞄を手にひっつかむ。
「見舞いにだって来てやんないから!」
 子供の意地のような言葉を投げつける麻衣に対し、ナルは相変わらずの態度で「必要ない」と切り捨てる。
 わなわなと小刻みに震えながら病室を飛び出していこうとしたのだが、千鶴が麻衣の手を咄嗟に掴んで引き留められ飛び出す機会を外す。
「おねーさん待って!」
 彼女が今までここにいることに気が付いていなかったのだろう。
 微かにナルが瞠目する。
 千鶴はナルを見ると、自分が全て悪いんだと言って勢いよく頭を下げた。
「麻衣おねーさんを悪く言わないで下さい。
 悪いのは全部あたしなんですから、あたしが原因なんですから、おねーさんを叱らないで下さい! お願いします!!」
「その前に一つ聞きたい」
 さらに不機嫌な声に、麻衣は思わず反射的に肩をすくめる。
 できれば、このまま何も聞かなかったことにして病室を飛び出していきたいのだが、それが出来れば苦労はない。
「なぜ、彼女がここに居るんだ?」
 仕事場から離れたことは直ぐに話したのだが、部屋の片隅にいた少女のことを話すことをすっかりと失念していたのだ。
 麻衣は、あのままあの場に残しておくことが出来なかったことを、慌ててナルに告げる。
 一番最初に話すべきだったのだが、すっかりと忘れてしまっていたことをナルはまた嫌みで応酬してくるだろうか。
 一通り説明を終えて、ナルの反応を伺うべく、チラリ・・・と視線を向けてみれば・・・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不機嫌絶好調?


 支離滅裂な単語が脳裏に浮かぶ。 
 罵詈雑言・・・とまではいかなくても、皮肉の一つや二つや四つや五つ、出る覚悟をしたからこそ逆に無言のままの方が痛い。
「で?」
「なにが?」
 説明を終えてしばらくしたあと、ナルはさらに促すように言葉を続けるが、麻衣にはナルがさらに何を聞きたいのかが判らない。
「千鶴ちゃんをどうするつもりなんだ?」
「どうって・・・」
「何も考えなしにつれてきたのか?
 千鶴ちゃんはまだ、未成年だ。いくら保護者が承諾をしたからといってお前が面倒見切れるのか?」
「だけど、あのまま置いておくこと出来なかったんだもん」
 彼女を連れてくることは確かに迷った。
 あの時はナルのことで頭がいっぱいになっており、他のことを冷静に考えるゆとりなどなかったのだ。
 だが、それでも少女をあの場に一人残すことには抵抗を抱いた。
 顔を合わせてまだ一週間かそこらしか経っていない自分しか、縋る相手はいないと言わんばかりの視線を向けられて、放ってはおけなかったのだ。
「ご両親が落ち着くまで、離れていた方がいいと思ったの。
 あのまま、傍にいたらどんどん感情的になって、傷つけあいになっちゃいそうな気がして・・・ご両親に何も異常なことではないってこと判ってもらえるように、これから何度でも説明する。
 だって、実の親子じゃなくても今まで親子として一緒に生活してきたんだもん。きっと、判ってくれると思う」
 ナルは何も言わない。
 麻衣は『親子』という言葉に無条件で『絆』という物が存在すると思っている。
 その『絆』が実はどんなに細いもので、頼りないものかと言うことを知らない。
 親子とは言っても他人よりも薄い繋がりもあるのだ。
 まして、戸籍上の親子であって実際は違うと言うならばさらに頼りないものになるだろう。
 ささいなきっかけで簡単に崩れてしまう砂上の楼閣のように脆い関係なのだが、麻衣に言葉で説明したとしても、納得するとは思えなかった。
 そういった希薄な関係は麻衣の中には存在しないのだから、簡単には納得することはないだろう。
 現実を知るまでは。
「それで気が済むなら好きにすればいい。
 だが、必ずしもお前の望む結果になるとも限らない。
 最悪の場合は、名取親子は完全に決裂する可能性もある。
 それでもお前はやってみると言うのか?」
 さすがに少しは不安があるのだろうか。脅すようなナルの言葉に、麻衣はいつものごとく威勢良く返せなかった。
 自分の行動が一つの家庭を壊す可能性があると言われて、平然と動けるほど麻衣は無神経ではない。
 反応を伺うように千鶴へと視線を向ける。
「このままでも、断絶は変わらないから・・・・少しでも可能性があるなら、おねーさんにお願いします」
 幼い少女に肩を押されると、麻衣は力強く頷き返して、出来る限りのことをやってみると言い切ったのだった。



















第七話へ続く