冷たい土の中に、七年。
温もりも知らず、安らぎも知らず、七年土の中で過ごして、一週間の陽の下での生を精一杯生きる。
その時まで、ゆっくりと、眠りについて……目覚めの時を待つ。
暗い、暗い、じめじめとした冷たい世界に囲まれて、その時を待つ。もうじき…もうじき、出られる。
出られるのだこの暗い世界から、眩しいばかりに明るい世界へ。月日は満ち、時が満ち足りれば、
由に羽ばたける世界へ、飛び立てる。
もう、我慢する必要はないのだ。
身動きが取れない、重い世界。自由のない、暗い世界。何も見えず何も聞こえない、無明の世界。
だけど、こぎい出れば、光が燦々と注がれるのだ。
ゆっくりとそれは動き出した。
何かに向かって、手を動かし足を動かす。
だが、それはふいに止まってしまった。
手が何か固い物にぶつかって出れないのだ。出たいのに出れない。もう、時は満ちているのに。もう、充分この世界で過ごしたのに、
漸く解放される時が来たのに。
出たいのに。
自由になりたいのに。
息苦しい冷たい世界から飛び出したいのに。
光を浴びたいのに。
出られない。どうして、なぜ。
指先に血が滲み、爪が折れ、皮膚がはげようともあがく。出るために、この世界から飛び立つために。
時間がもう、残されていないのに!! 夏が終わってしまう!!
仲間は、もう皆陽の下へ飛び出して行っているのに。
皆がいるうちにでないと、自分は独りぼっちになってしまう。こんな暗いところで生きてきた意味がなくなってしまう。
出して、ここから、出して!!!!!!!!
ここから、出たい!!!!!!!
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麻衣は飛び跳ねるような勢いで身を起こす。
辺りを見渡すとうっすらと明るくなり始めていた。どうやら夜が明け始めた時間帯のようだ。寝ている間にじっとりとした汗をかいたようで、パジャマ替わりに来ていたTシャツが肌にまとわりついて、気持ち悪い。シャワーを浴びたいなと思ったが、ここではそうはいかない。
どこにいるのかを思い出したとたん、深く胸の奥に凝る物を吐き出すようにため息を零す。
麻衣は、一昨日からナル達と共に調査へ訪れていた。
長年農業をしている森川夫妻からの依頼だった。今年の八月に入った最初の夜から、床板を誰かが叩くような音が、絶えずするというのだ。それは、地面の中から聞こえてくるようなくぐもった音だという。犬か猫でも迷い込んでいるのかと思い、床板を外して様子を見たのだが、そこには何もなかった。動物の死骸もなければ、何かがいたような気配もない。
それでも、毎晩地中から音が聞こえ、やがてそれは呻き声のようなものに変わっていくというのだ。そして、毎晩夫妻が揃ってみる夢。
どこか、暗くじめじめとした狭いところに丸まっている自分が、どこかへ這い出ようとしているのに、何かに邪魔されて出れない。時間がないという焦燥感と、出たいという想いに、気が狂いそうになったとき、いつも目が覚める。
毎晩、同時に。
何かがあるのではないだろうか。気味が悪く思った夫妻は知人にこのことを相談したところ、SPRのことを教えられ、扉を開けたという次第だった。
はじめはナルは興味を持っていなかったのだが、たまたま後から遊びに来た真砂子が、夫妻を見た瞬間眉をひそめ、袖で口元を隠したことに気が付いたナルは、とりあえず調査を受けるかどうか見当すると言って、二人を帰したのだった。
真砂子は、二人からおびただしいほどの腐った土壌のような匂いがすると言っているだけで、霊の姿を感知したわけではなかったが、ナルはこの仕事を受けることに決めたらしい。麻衣に連絡を入れるように伝え、そして、数日後SPRの主要メンバー四人のみで、この地に訪れていた。
腕にはめたままにしていた腕時計に視線を落とす。
午前五時少し前。
話に聞いていた夢と同じ物を見たのだと思う。
とにかく一度着替えて、このことをナル達に話しに行こう…そう思っておきかけた麻衣は、危うく悲鳴を上げるかと思った。床に掌をついたとき、指先から鋭い痛みが走り抜けていったのだ。
「……爪が」
麻衣は呆然と自分の指を見る。
元々そんなに伸びている方ではない爪が、見事に折れている。中には、ほんの少し出ている白い部分のみが折れている物もあれば、爪が完全にはがれて血を流している物まである。
「なん……で――――」
認識したとたん襲い来るのは、間断なく訴え続ける鈍い痛み。まるで何かをひっかき続け、爪が折れようとも、剥がれようとも掻き続けたかのようだ。
「麻衣、起きているのか?」
ふすまが音もなく開けられ、聞き慣れたテノールが静かな空気を震わせる。その声にも気が付かないのか、麻衣は両手を見続けていた。不審に思ったナルが視線を両手に移すと、微かに眉をしかめる。
「何をしていたんだ、お前は」
その場に膝を突いて麻衣の腕を掴み、傷の具合を確かめる。十本中血が出るような折れ方をしている爪は五本だ。右に三本、左に二本。血が滲みで指を染めている。
「起きたら…こうなっていたの」
とりあえず、麻衣をベースにまで連れていくと、救急箱を取り出し、消毒薬を吹き付ける。しみるのだろう、痛みを堪えるように顔をしかめ、傷口から視線をそらせる。
「夢は?」
「見た。森川さん達と同じ、夢だと思う」
消毒をすませ、血をガーゼで綺麗にぬぐい取ると、保護のためにガーゼを当てテーピングする。
「森川さん達が話していた夢と同じ。暗いじめじめとした何かを、一生懸命にかき分けて、前に進もうとする夢だったよ。
時間がないって、夏が終わってしまうって、すごく焦っていた」
白いガーゼで覆われた指を見ながら、麻衣は呟く。
「あれ…たぶん、土の中。だと思う」
ジメジメとした空間に全てを包み込まれていた。息苦しくて、ひどく重圧感があるところ。だが、手を足を動かせば、何かがポロポロと崩れていくような感じだ。前に進もうと腕を力一杯に動かすと、冷たい何かが顔に当たって落ちていく。
そして、むせ返るような土壌の臭い。
バンを下りたとき感じた匂いと同じだ。むせ返るような緑と、土の臭い。それと同じ匂いが、充満していた。
「随分曖昧だな」
救急箱を片づけながら言われた言葉に、麻衣は軽く頬を膨らませる。
「しょうがないでしょ。土の中に潜ったコトなんてないし、真っ暗で何も見えない夢なんだもん」
こんなコトを言うと、一度土の中に潜ってみろと言われるかもしれない…思わずそう思ってしまったのは、
ナルなら言いかねないと思ったからだ。
「リンさんは?」
ナルと一緒にベースにいるはずのリンの姿がないことに、麻衣は漸く気が付き問いかける。
「森川夫妻の所だ」
二人とも悲鳴を上げて目が覚めたらしく、リンが二人の様子を見るために、二人の寝室へと
行っているらしい。とにかく話を聞かせにリンを行かせ場合によっては、一時期この家から退却して貰うことも、視野に入れている。
「谷山さん?その指は」
ふすまを開けて戻ってきたリンは麻衣の手元を見るなり、驚いたように目を見開く。それも当然だろう、
細い指は先ほどまで何ともなかったはずなのだから。
「おそらく夢とシンクロしたのだろう」
ナルも麻衣も既に怪我の原因に関しては、およその見当が付いていた。特異すぎる夢が見せた追体験。だが、サイコメトリーをしたというわけでもないのに、見た内容そのままに肉体に反射させたことなど、今までの調査ではない。
「谷山さんには危険ではないですか?」
気を付ければ済む物ではなかった。コントロールできるようになっているとはいえ、それはサイコメトリーに関する能力であり、「夢」に対する制御はなかなか難しい。無闇に見ることはなくなったとはいえ、今でも時々意志に関することなく見続ける。
ナルも危険性を考えているのだろう。難しい顔をして、麻衣の指を見下ろしている。
「あのね、そんなに危険はないと思うんだ」
麻衣は指をナル達の視界から隠すように、腕を引っ込めると口を開いた。
「根拠は?」
「ただ、ここから出たいとしか思ってないんだよ?
出たいのに、何かが邪魔をしていて出れないの。
害意はないよ。それだけはハッキリと言える。望んでいるのは夏の間に出なければいけないの」
あがいて、あがいて、どうしても間に合わせなければいけないのだ。
もうじき夏が終わってしまう。それでは遅い。
仲間がいるうちに、外に出なければ、生きてきた意味がなくなってしまう。
「生きてきた意味? 生きているのか?」
「判らないよ…ただ、そう思っているだけかもしれないし」
ナルとリンは深く溜息をつく。
全く持って原因が分からない。
「あ…聞こえる」
カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ
カリ カリ カリ カリ カリ
地面を掻くような音が微かに、聞こえてくる。それは、時々思い出したように聞こえてくる音だった。昼も夜も関係なく、時々聞こえてくる音。
音源の判らない、なんの音かも判らない音。
小さな音なのだが耳障りには思う。ナル達も一通りこの音の基となる物がないか捜したが、目に付くところには何も見つけられなかった。
悪戯の可能性も考え、仕掛けなども捜したがその可能性も見いだせなかったのだ。
「ナル」
リンに呼ばれ振り返ると、サーモグラフィーの色が一つドンドン変わっていく。今まで何度となく聞いていたが、目に見えて判る現象は今回が初めてだ。
「これは…風呂場か?」
7年程前に建てたばかりという新しい風呂場の温度が急激に下がっていっていた。周りの温度は27度あるというのにそこだけが10℃近く下がっている。とうとう15度を下回った。これでは今の季節の服装では、寒さを感じる温度だ。
カメラについているマイクは、引っ掻く音を拾っている。
聞き逃してしまいそうな小さな音だ。それは、浴室という場所で反響し、音源がどこから来ているのか惑わせる。
「ナル……」
麻衣はモニターを凝視する。
そこから目が離せなかった。
カリカリと掻いている手がある。
あがいて、もがいて、出たがっている手。
そう、それは間違いなく手だ。
人の手が床を自分の上に覆い被さっている床を掻いているのが、薄く透けて見える。
「私、起きているよね?」
ナル達は見えていないのだろう、映像の方にはあまり視線を向けていなかったが、麻衣の譫言のような言葉に視線をモニターに向ける。
「何かが見えるのか?」
「手――手が見える。床がうっすらと透けてその下の土を必死になって掻いている手が」
「手が? リン見えるか?」
リンは髪を掻き上げて青眼の方でモニターを見ようとするが、麻衣が言うようなものは見えない。
「いえ、私には見えません」
リンやナルにはやはり見ていないのだろ。だが、それは苦しみもがくように、土を掻いている。必死になってまるで這い出ようとしているようだ。
麻衣は目をぎゅっと瞑る。思い出すのは、鼻をツンと突くようなかび臭い土壌の匂いと、ジメジメとした嫌な感触。それが肌を包み込み、逃れることを拒むかのように身体を覆い尽くす。あの中にもしも閉じこめられているならば、助けて上げたい。
「私、お風呂場行ってみる」
麻衣はベースを出ようとするが、ナルによって腕を掴まれ止められる。まだ何が起こるのか判らないのだ。無闇な行動に出るのは危険が大きすぎる。
麻衣が見ている物はおそらく霊だろう。その霊が人に害を及ぼす物か、どうか判らないのに、近寄ることを許すわけにはいかない。
「安原さんの調査待ちだな」
麻衣の言葉を信用するならば、言えることは一つ。
あの地の下に何かがある。
おそらく人…それも生きては居まい。
それは、30分ほど続きやがてパタリ、と唐突に途絶えた。
別行動を取っていた安原が戻ってきたのは、朝早く六時になるかならないかという頃だった。麻衣の淹れた紅茶で喉を潤し一息つくと、調査内容を報告する。
「この土地は古くから森川家の所有だったようで、その間一度も他人名義になったことはないです。この地は良くも悪くも特にこれと言って事件はないのですが、ただ一つ七年ほど前に森川夫妻の孫の一樹君が行方不明になっていますね。未だに一樹君の行方は掴めていません。
当時一樹君は八歳になったばかりで、両親とともに父方の田舎であるここへ遊びに来ていたそうなんですが、滞在して3日目の夕方に突然姿を消しています。
裏庭で遊んでいるのを、森川氏が見たのが最後でそれ以降行方が判らないままです。警察当局は誘拐されたとの見解で、公開捜査に出ていますが、未だに行方が判らないまま、七年経っています」
「それ以外の事件は?」
「戦後すぐまで遡ってみましたが、ないですね。せいぜい、痴話喧嘩のあげく骨を折ったとか、こそ泥を捕まえる際に腕をすりむいたとか、その程度の事件です」
ナルは難しい顔で安原からの調査報告書を読んでいた。だが、やがて何か思い浮かんだのか、ふと確認するかのように疑問を口にした。
「あの、浴室比較的に新しいがいつ建てた物だと言っていた?」
古くからあるがままの姿を保っている日本家屋でありながら、あの風呂場だけが近代的だった。トイレなぞ未だに庭先の離れにあり、くみ取り式を使っているというのに、お風呂は追い炊き機能付きの、システムバスだ。
「確か…6年か7年前に立て替えたって言っていたかな」
五右衛門風呂だと言っていたが、体力的に釜で湧かすのが辛くなってきたため、立て替えたと森川夫人が言っていた。
「五右衛門風呂?」
「昔懐かしいお風呂。薪でお湯を沸かすの。
江戸時代義賊の五右衛門という盗賊が最後お縄になったとき、釜ゆでの刑にされてね、煮えたぎった油の入っている釜に入れて、処刑されたって言う話があって、それと似た形をしているお風呂を、五右衛門風呂って言ったの」
麻衣の説明にナルは気のない返事を返すだけで、疑問が解消されて興味はなくなったのだろう。それ以上聞いてくることはなかった。だが、何か気になるのか顎に指を当てて考え込んでいるようだ。
「関係ないかもしれないですけれど、谷山さん指どうかしたんですか?」
麻衣の両手の指に巻き付けられているガーゼに視線を落として問う。麻衣は困ったような顔で指を眺めながら、夢の話をする。
「シンクロですか。今までなかったのに、こういうコトってあるんですか」
危険じゃないんですか?と安原はナル似問いかけるが、ナルは肩をすくめるだけだ。
「芸が増えるのはけっこうだが、もっと役に立つ物を覚えてもらいたいがな」
ナルの辛らつな言葉に、麻衣の握り拳を作った手がフルフルと震える。
「私は犬か猿か!!」
まぁまぁと安原は苦笑を浮かべながら麻衣をなだめ、リンは呆れたような溜息をもらす。心配なら心配と素直に言えばいい物を、この年下の上司はそう言うことを素直に見せようとはけしてしない。
「麻衣、とにかくお前は夢を見ようとは思うな。やっかいなことになりかねない。トラブルはごめんだからな」
その台詞に、更に呆れたような溜息が二つと、うなり声が一つ上がったことは言うまでもない。
本当に素直ではない御仁だ。イヤ、素直になられたらなられたで、気味が悪いのだが。
「原さんに連絡を――撮影で今、日本にいないんでしたね」
真砂子は一昨日からアメリカの方に撮影に行っていていないため、仕事の協力を頼むことはできなかったのだ。
「滝川さんかブラウンさん、松崎さんに連絡をいれますか?」
安原は念のためを思い、いつもの協力者の名をあげたが、麻衣は害意を感じられないと言い、この現象が心霊現象なのか、それとも他の原因があるのか判らないため、もうしばらく様子を見ることになった。
朝食を食べた後、ナルは森川夫妻から更に話を聞き、安原は近所の人達の話を聞きに出掛けた後、麻衣とリンは二人でベースに残っていた。リンがパソコンでデーターの入力をしているため、定期的なリズムでキーを叩く音意外なにも聞こえない。
麻衣は他にすることがなく、欠伸が口を出る。
「少し、休んでいても良いですよ?」
おそらく夢を見ていたため、身体が…というより脳が休んでいないのだろう。追体験をするほど深く同調していたのだ、身体も下手をすれば休んでいないのかもしれない。そう思い、リンは言ったのだが麻衣は緩く首を振る。
「居眠りしていたら、また怒られちゃう。
お茶、淹れてきますね」
のびをゆっくりとして立ち上がると、麻衣は軽快な足取りでキッチンへと向かう。廊下を曲がりキッチンへと向かっているとふいに、足を止める。
カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ カリ
カリ カリ カリ カリ カリ
また、あの音が聞こえてきた。
やはりお風呂場から聞こえてくる。何かを引っ掻くような音だ。
いきなりガラス戸が開き森川夫人が真っ青な顔で出てきた。まるで鬼か何かを見たかのような顔だ。
「森川さん?どうしたんですか?」
麻衣が問いかけると、飛び上がらんばかりに身体を震わせて、森川夫人が振り返る。
「……お、おふ、おふろばに――――」
膝がガクガク震え、舌を噛みそうな状態で、森川夫人は腕を伸ばしお風呂場を指さす。
麻衣は今だ音が聞こえるお風呂場に、視線を向ける。
そこには朝モニター越しで見たと同じように、床板がすけ黒い湿った土をかきむしる、手が見えた。
――出たい
声が聞こえてくる。悲しい悲しい声が。
――終わってしまう
――死にたくない。地上に出ないまま、死にたくはない
焦燥する声。掻いて掻いて、上の物をどかそうと、必死にあがく声。
麻衣は知らずうちに足を一歩踏み出してしまう。
声に誘われるかのように、ふらついた危うい足取り。
手を伸ばせば、その腕を引き上げられそうな気がして、脱衣所に足を踏み入れる。
既に立っているだけで汗が滲み出そうな程気温が上昇しているはずなのに、そこだけはヒンヤリとした空気に覆われている。
そのままお風呂場に足を踏み入れ、出ようとあがく腕に手を伸ばした瞬間、麻衣の身体が膝から崩れ落ちる。
墜落するような、感覚が身体を包み込む。
けたましいほどの蝉が鳴いていた。
耳を塞ぎたくなるほどの、大音量。短い命を時代へ継ぐために、力続く限り泣き続けている。夏になれば日本のどこにでも見られる、光景だ。それは、自然溢れるところへいけば、顕著になる。あっちらこちらにある蝉の抜け殻。もしくは、生を終えた蝉の死骸。
「ねぇ、これなに?」
小さな子供がそれを指さして、男に問いかける。
「蝉の幼虫だ」
今まさに、残りの命を燃やすために、暗い地中から這い出てきた蝉だった。
「これから、大人になるために、土の中から出てきたんだ」
「大人になるために?」
「蝉は7年間土の中で生活して、夏になると這い出て一週間地上で精一杯生きる」
「一週間過ぎたら?」
「蝉は一週間しか生きられない。
一週間、力一杯生きて子孫を残すために、何も食べずに泣き続ける」
「死んじゃうの? 一週間で蝉は死んじゃうの?」
子供は男にに悲しそうな目で問いかける。
「そうだ、蝉は自分たちの子供を残すためだけに、地上に出るんだ。地上に出たら一週間しか生きられない」
「お嫁さんを捜しに出てくるだけなの?見つけたら死んじゃうの?可哀想だね」
「そうだな―――」
「僕、蝉取らないよ? お嫁さん見つけられなかったら可哀想だもん」
子供の呟きに男は無言で見下ろした。
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「七年前? ああ、森川さんと頃に孫が遊びに来て、そのまま行方知らずになったんだ。…もう七年経つのか」
安原は畑で農業をしていた、老人に声をかけ七年前のことを聞いてみた。
「あの時色々と噂があってね」
「噂ですか? あ、このキュウリおいしいですね」
お茶請け替わりに出されたキュウリを美味しそうに頬張る安原を見て、老人は気分が良くなったのか、目を嬉しそうに細め、更にトマトやらも進める。
「一樹君は実は森川んとこのボンの子じゃないって言う話しさ。顔かたちが似てねーんだ。おらはあったことねーから、しらんけれどうちのかーちゃんが言っていた。
なんでも、ボンの嫁さんが浮気相手と作ったが気じゃないかって、一時期大変でなぁ〜。孫を誘拐したのも、その浮気相手じゃないかって一時期、噂になったもんだ」
ガハハハハハッと豪快に笑いながら老人は「あくまでも噂じゃがの」と言って笑い飛ばす。
「なんだ、若いの。刑事さんかい?」
今頃聞いてくるのもどうかと思うのだが、安原はニッコリと笑うと堂々と「少年探偵団員です」とのたまった。老人は目を点にするが、何が面白いのか更に豪快に笑って、安原の背中を何度も叩くとキュウリやら、トマトを進める。
「そーか、そーか、暑い中ご苦労やなぁ〜〜〜!!」
探偵ではないが、探偵と同じようなもんなのにな…信じていない。この人は。さすがの安原も苦笑を漏らしながら、更に幾つか聞きたいことを聞き終えると、礼を述べてその場を後にした。
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「どこまで行くの?」
男の子はいい加減歩き疲れたのだろう、その場にしゃがみ込んで先を歩いていた男を見上げる。
「疲れたのか?」
「うん、もう疲れたよ…お腹空いたし」
どのぐらい歩いたのか、男の子には知るすべはなかったが、空腹感を訴えていたし喉も渇いていた。
「そうか…なら、休むか」
男の子言葉に、男の子は明るい笑顔を浮かべて、力一杯に頷き返すのだが、
すぐに目を大きく見開く。自分の手を繋いでいた男の手が急に、喉を締め上げてきたのだ。
「――――っっ!?」
見開いた両眼から、涙があふれ出し、苦しそうに酸素を求めて口をパクパクするが、声すら出せず、男の子は男の手を引き離そうと喉を閉める腕に爪を立てるが、大人の力に叶うわけがなく、やがて力を失った細い腕は、重力に従って下へ落ちていく。
最後に呟いた言葉が、胸に刺さる。
麻衣は涙をポロポロ流しながら、その光景を見ていた。見ることしかできなかった。
そう、これは過去――過ぎてしまった遠い昔。戻すことも、やり直すこともない、終わってしまったこと。
やる切れ無さが胸を支配する。
なぜ、どうしてこの人が???
男の子が最後に言いかけた言葉。音になることなく消えてしまった、唇だけが紡いだ言葉。
「オトウサン」
そう呟いていた。男の子を手に掛けたのは、彼の父親。
なぜ、どうして…どうして我が子を?
涙が溢れる。無条件で愛し慈しむべき存在を、なぜ自らの手に掛けたのか、判らなくて。
「和利!! あんたっっっっ!!!!」
年老いた女の声が空気をするどく切り裂いた。老婆が息を切らして走り寄ると、男の足下に倒れている男の子に気が付き、悲鳴を漏らし駆ける。
「何てバカなことを!!」
知っている顔だった。今回の依頼人森川氏夫人である。今より幾分若いが判る。
「あんな女のために」
忌々しい表情で、森川夫人は足下に横たわる孫を見下ろしていた。それは、愛すべき孫を見る視線ではない。
「母さん、疲れたんだ。もう、どうなってもいい――」
本当に疲れたような顔で男は呟く。が、森川夫人は「バカおっしゃい!!」と鋭い声を上げ、我が子の顔をひっぱたたく。
「あんな女のために、お前が全てをなくす必要なんてないんだよ。
あたしに任せなさい。悪いことにはならないから。お前はあたしの言うとおりにしなさい」
森川夫人に指示されるがままに、男は温もりのある我が子の身体を抱き上げた。人目に付かないように山を通り、裏庭にたどり着くと家の裏の軟らかい土を、二人係りで大きな穴を掘っていく。充分な深さを掘り進めるとその穴へ、男の子の身体を横たえると身体の上に土を駆けていく。
―――『待って!!!!』
麻衣は思わず声をかけてしまう。無駄だと判っているのに、例えここで声をあらげようと、駆け寄ろうとしても何もできないと言うことが判っているのに、それでも駆け寄ろうとし、声をあらげる。
男の子はまだ死んではいなかった。
息が微かに残っていたのだ。その証拠に、微かに指先が動いていた。
麻衣は男の子と目が合う。
うっすらと開いた目が、自分を見上げる。
――僕、蝉になるの?
父と祖母に砂をかけられながら、ぼんやりと掠れた意識の中でそう思う。
先ほど聞いた話が甦る。
蝉は、土の中で成長し7年経つと地上へ出て、子孫を残して死んでいく。
重く冷たい土を駆けられながら、自分は蝉なんだ…だから、土の中に戻されるんだね。
どさり…どさり…土を駆けられて、口の中にも土が入り、視界も土で覆われ何も見えなくなっていく。のしかかってくる重い土に呼吸ができなくなって、息苦しさを覚えるけれど、何も見えなくて何も聞こえなくて怖いけれど、男の子はゆっくりと瞼を閉ざす。
このまま、7年間過ごせば外に出られるんだね?
意識が徐々に闇に包まれていく。
麻衣は、どうしようもなくて、ただそれを見下ろすことしかできなかった。
「麻衣?」
耳朶をくすぐる低い声に、麻衣の瞼が微かに痙攣しゆっくりと開く。滲んだ視界に映るのは、無表情に自分を見下ろしているナルの顔。白い指が伸びてきて目尻に触れると、溢れていた涙をそっと救う。
ゆっくりと身体を起こすと、そこは先と同じ風呂場だった。ただ違うのはナルの腕に抱きかかえられていると言うことだ。タイルの冷たさではなく、人の温もりを感じる。その温もりに、優しく自身を包み込む腕に、更に麻衣は涙を流す。
守られるべき腕にあの子は、殺されてしまったのだ。
最も、信頼していた人物に――
麻衣はすがるようになるに抱きつき、その胸に顔をうづくめる。ナルは細かく震える麻衣の身体を抱きしめながらも、静かに問いかけた。確信を持って。
「何を見た?」
ナルの問いに麻衣は微かに身体を震わせたが、小さな声で呟く。
「ここの下に、男の子がいる―――森川さんの、孫の一樹君が」
麻衣の呟きは、廊下でへたり込んでいた森川夫人にも聞こえたのだろう、蛙を踏みつぶしたような声が喉から漏れた後、震える指で麻衣を指さす。
「な…なんであんたがそれを!!!!!」
自分でばらしたも同じコトだった。その場にいた森川氏が驚きを隠せない顔で、妻を見下ろしている。
夫人が止めるのも聞かず、ナル達は森川氏の許しを得てお風呂場を業者に解体させていた。
騒音をたてて風呂場が壊されていく。1時間ほどで殆どの物が壊され、むき出しの土が出てきた。そして、誰かの息を呑む声が聞こえた。
ぼっこりと盛り上がった土から、空を望むように伸ばされた腕が、土から出ていた。白骨化された細い腕。
麻衣はゆっくりと近づいて、その白骨化した小さな手を握りしめる。
「もう…出れるよ」
小さな、小さな囁き。誰も何も言えない静かな時間。
幾人かが自分の目をこする。白骨化しているはずの手が、柔らかな肉付きの良い腕に見えたのだ。
それがゆっくりと動いて、土をかき分ける。そして、少年がそこから這い出てきた。全身泥まみれの、少年が。
彼は辺りを不思議そうに見渡し、空を見上げ太陽を見ると眩しそうに目を細める。
『おねーちゃんが、僕のお嫁さんになってくれる人?』
少年は麻衣を見て問いかけるが、麻衣は悲しそうな顔をしてゆっくりと首を振る。
「ごめんね。おねーちゃん、一樹君のお嫁さんになれないの」
『そうなの?おねーちゃん。美人だから、お嫁さんにしたいのにな』
すねたように唇を尖らせて言う一樹に、麻衣は「ごめんね」と謝る。
「一樹君、お嫁さん欲しい?」
『欲しいよ。その為に出てきたんだもん。
時間がないんだ。僕は一週間しか地上では生きられないんだよ? もうすぐ、寿命なんだ。
出てくるのにすっごくじかんがかかっちゃったから』
「そっか…一樹君、明るい光が見えない?」
『光―――? あれかな? すごく眩しいんだけど、柔らかくて暖かな光が見えるよ?』
「その光かな。その光の向こうに、一樹君のお嫁さんになってくれる人が、きっといるよ」
『おねーちゃんより美人?』
「うん、おねーちゃんより美人で、可愛い子がきっといっぱいいるよ」
『なら、行く。バイバイ――おねーちゃん』
少年の姿はどんどんかすみ、やがて辺りの空気にまじあわるように消えていった。
最後の最後まで自身に起きたことを判らなかいまま・・・自分は蝉だと信じて・・・逝ってしまった。
それで良かったのかもしれない。
父と思っている人間に、殺されたなんて可哀想すぎる。
せめて、安らかなる眠りにつけるように・・・
「何、じゃぁ、その子自分が死んだって最後まで思ってなかったてこと?」
調査を終えオフィスに戻ってきた麻衣は、今日もいつものように遊びに来たイレギュラーズにお茶を淹れ、
先日の調査のことを話した。
今日はリパブリック・オブ・ティーの水だしマンゴティー。仄かに薫るマンゴの馨とセイロンの紅茶が、シフォンケーキと良く合う。メープルシフォンも同じリパブリック・オブ・ティーの物だ。これは綾子の本日の差し入れなのだが。
「うん、一樹君は自分のことを蝉だと思っていたみたい。
だから、7年たった今年になって出ようとしていたの」
「ああ…蝉は、七年土の中で過ごして、地上で一週間だっけ?」
室内にいても聞こえる蝉の声に、耳を澄ませながら思い出すように綾子は呟く。この年になれば、蝉なんて煩わしいだけで、そんなこと思い出しもしなかったが、一樹という少年にとっては切実な問題だった。
七年間魂は朽ちた身体に止まり続け、ジッとその時を待っていた。
やがて時が満ち出ようとしたが、出ることは叶わなかった。埋められたときにはなかった物が、遮っていたために。死んでいたことを自覚していれば、物理的な物に捕らわれることがなかったため、なんの障害にもならなかったであろうものは、生きていると思いこんでいるため、障害になった。
出たい、出たいとあがき、苦しんだ証拠のように、土から這い出ていた骸骨とかした腕。
「で、その子を殺した二人は?」
「証拠が何もないから…立件は難しいみたい」
罪を認めてもらいたいと思う。刑に服する服さないは別として、せめて、自分たちが手に掛けてしまったこの冥福を祈って欲しいと。
「その子が自分の子じゃないという疑心暗鬼から、招いたんでしょ?」
事実は分からない。
もしかしたら、浮気相手の子供かもしれないし、自分の子供かもしれなかった。だが、既に確かめるすべはなく、必要性もない。もう、いないのだから。
「麻衣、お茶」
この日もいつものように所長室のドアが開いて、ナルがおきまり文句を言う。綾子にはチラリと視線を向けもしないで、
扉を閉めて引っ込んでしまう。相も変わらずここの所長は元気印のムスメしか、視界に入っていないようだ。
「はぁ〜い」
そのお元気印のムスメは、閉ざされたドアに向かって呑気に返事をすると、軽快な足取りで給湯室へ行き、ナルのお気に入りの紅茶の準備をする。
鳴きやんだと思ったら、また別の種類の蝉の鳴き声に耳を傾け、麻衣は祈る。
あの時――
「終わりました、所長」
涙を腕で拭い、深呼吸した麻衣はゆっくりと振り返ってナルに告げた。
「撤収だ」
その一言で調査は終わる。
静まり返っていた蝉たちが、鳴くことを思い出したかのように鳴き出した。
まるで、最後まで死んでいたことを知らないまま旅立っていた、男の子のことを哀れむかのように。その最後を見守るかのように。
ナルの指が伸び、麻衣の涙を拭った後、ポンポンッと頭を軽く叩かれる。励ますかのように。
麻衣は微笑を浮かべ、太陽を見上げる。
せめて祈るは、安らかなる眠り。
そして、
光の向こうで素敵なお嫁さんを捜してね―――