降り始めは霧雨のような雨だった。
細かな雫が風に乗って煽られるため傘を差していても意味をなさない。
肌が冷えていき、髪が水気を含み始めるまでそう時間はかからなかった。
夏も過ぎ晩秋も近づいたこの時期は雨に濡れると、瞬く間に悴んでいく。
アパートに戻ったら湯船にお湯を張ってのんびりと浸かろう。
そう思いながら家路を急ぐ。
時刻はすでに0時を過ぎ、改札を出た直後にはそれなりにあった人の姿も少し歩けば方々に散り、通りを歩く姿は自分以外ない。
霧雨のため雨音はほとんど無いが、濡れた地面を歩く自分の足音がいつもより大きく聞こえる。
女性なら不安を抱くかも知れないが、男である安原は特に畏怖を覚えることなく、歩き慣れている道を急いで歩いて行く。
角を曲がり大通りから細い路地へ入ってから、さらにもう一度路地を曲がると視界の先に女性がぼんやりと立ちつくしているのが見えた。
顔は傘が影になっていて判らないが、ぼんやりと電灯に照らされて立ちつくしている姿を見た瞬間、さすがの安原でもギョッとした。
時間も時間であり場所も場所である。まして霧雨とはいえ雨が降っている中でだ。
女性が一人で何もせず立ちつくしているというのは一種異様な物がある。
なんらかの訳ありなんだろう・・・とは思うが、無意識のうちに視線が様子を探るように向かってしまう。
顔は傘で見えないが秋物のトレンチコートが視界に入る。
夜陰に溶け込んでしまいそうなほど濃い色のコートは霧雨を含んでいるのかぐっしょりと濡れているようにも見えた。
まるで、傘をしばらく差していなかったように濡れているな。
いったいこの雨の中どれほど立ちつくしているのだろうか。
秋とは言えもう晩秋に近く冬と呼ぶのも秒読み段階。雨は身にしみるほど冷たくなっている。
この中に立ちつくしていて風邪でも引かなければいいけれど。
多少は気になりはするが、だからといって声を掛けるほどでもない。
具合が悪いというのなら話は変わるが、雨の降る真夜中に立ちつくしている女性に声を掛けるほど、安原はお人好しでもなければ酔狂でもなかった。
傘越しじっと見られているような気もするが、男が一人で歩いて近寄ってきたのだ。多少は警戒されるのも仕方ない。安原はそのまま歩く速度を落とすと事なく、女性の前を足早に通り過ぎていく。
妙に緊張していたのか女性の前を通り過ぎてしばらくすると、思わず安堵のため息をもらしてしまう。
何緊張をして居るんだか。
思わず苦笑を漏らしてしまう。滝川当たりに知られたらいいようにからかわれるんだろうなと思いながら、家路を急ぐために少しだけ歩く速度を速めた。
アパートと駅の間はおよそ15分足らず。
特に何の代わり映えのない風景。
周囲の民家は明かりがポツポツ灯っている物の、すっかりと寝静まっている家々もあり、地域全体がすでにひっそりと静けさに包まれていた。
ヒタヒタヒタ・・・スニーカーの靴底ではヒールのように高らかな音は立てないが、それでも水たまりを弾き音を立てる。
出来るだけ足音を立てないように意識しながら歩いていた安原は、ふと意識が後方へ向く。
かつん・・・かつん・・・・
足音が少しずつ後ろから近づいてくる音が聞こえたのだ。
女性のヒールの音だろう。
寝静まり始めた住宅街に、ヒールの音は存在を大きく主張するかのように響き渡る。
かつん・・・ぴちゃ・・・かつん・・・ぴちゃ・・・・・・・・・
歩くたびに水を弾く音。
ゆっくりとした歩み。
自分が歩く速度の方が早い。
ヒタヒタヒタとスニーカーが水を弾いて歩く音に半テンポ送れて届くヒールの音。
足音の感覚を考えれば、距離は開いていくはずだった。
にもかかわらず距離が開くどころかどんどん近づいてくる。
なぜ、近づいてくるんだ?
安原の眉が微かに寄せられる。
当然だ。
速度とは絶対の方式だ。
例えば20mを10秒かけて歩く人間が7秒で歩く人間に追いつけるはずがない。
40m歩けば20秒と14秒。7秒の差が生まれる。80m歩けば40秒と28秒・・・12秒の差。
その間は歩けば歩くほど広がっていくものだ。
背後を見て確認したわけではない。
だが、足音が歩く速度と考えるならば、自分に近づいて来るはずがない。
歩く速度を無視して音が近づいてくることなど・・・普通は、ありえない。
嫌な汗が背筋を流れる。
妙な予感。
自分にはそう言った類の物は全く見えない。
今までの調査先でも見ることはほとんどない。
だが、皆無とは言えない。
誰にでも見えるほど現象が強く表れる事はたびたびあった。
その時には霊媒師である真砂子以外もその姿を見、聞いている者はいる。
関わりの無かった頃とは比べものにならないぐらいに、接触してきた。
今までの調査では霊障と呼ばれるような物に患わされた事は一度たりともない。
だが、絶対無いとは言い切れないとも言われていることを思い出す。
『根本的にお前さんには霊能力ないから、まぁそう年中警戒する必要もないだろうけどよ、いつ不意にチャンネルが合うか判らんからんのがこの世界だからなぁ。
俺のように頭打った弾みで視えていたものが視えなくなる事がある。逆に視えなかったヤツが視えるようになって晩年霊能者として活動する人間もいるぐらいだ。
可能性が皆無とはいえんだろうし。
念のためお前さんも護符はきちんともっておけ』
普段から携帯するために護符を入れたお守り袋をくれたとき滝川が言っていた言葉を思い出す。
頻度はけして高くはないが、それでも関わりの無かった頃に比べて、年間を通して霊と接する機会は比べものにならないほど増えている。
霊能力の有無に限らず、霊に接する機会が増えてくると、何らかの弾みでチャンネルが合ってしまうことがないわけではない。というのが滝川や松崎と言った霊能力者達の言であった。
実際に晩年になって見えるようになったと言ってテレビで活躍している霊能者がいることは安原も知っている。
必ずしも真砂子や滝川達のように生まれ持った能力のみではないということだ。
一番身近な例が麻衣ではないか。
思春期という年代ではあったが、彼女はSPRと関わるようになってから能力に目覚めた。
もしも、SPRに関わることがなければ、少しだけカンがいいというだけで終わったかもしれない。逆に最悪な形で開花したという可能性もあったのだが・・・
そう言うことを鑑みてみれば安原が霊を視ることは一生無い。とは誰も断言できないことだ。
安原自身とて頭から否定できない。
ただの気のせい・・・女性が早歩きで歩いているだけと思いこもうとしても、無理が在ることが判ってしまう。
自分には判断も下すだけの能力はない。
だが、けして長いとは言わないがそれでも、プロに揉まれて少なくはない現場を経験してきた。
危険な目にもあってきたカンが楽観しするのは危険だと告げる。
麻衣のような本能的なカンというよりも、この緊張感を覚えている。
現場で、遭遇したときと・・・緊張感を帯びたときと同じ空気だと言うことを。
安原はさりげない仕草でバッグの中から滝川から貰った護符を取り出すと、右手でぎゅっと握りこむ。
すると、それまで徐々に近づきつつあった足音がピタリ。と止まった。
それ以上音は聞こえない。
霧雨が降っているせいか、人の気配すら感じられない。
ただ、歩みを止めることのない自分の足音だけが聞こえる。
ぎゅっと護符を握りしめたまま、速度を変えず歩き続ける。
振り返りたい衝動を抑え、彼女の存在など気が付いていないふりをしながら。
この場合好奇心に負けて振り返った方が、本当の負けになる。
汗が額から流れ落ち目の中に入るが、瞬きを数度繰り返すことで誤魔化す。
そのまま5m・・・・10m・・・歩いても足音が追いかけてくることは無かった。
15m程歩いて、角を曲がるときちらりと横目で背後を見る。
全身は見えない。
ただ、見えるのは濃い色のトレンチコートを着た女の姿。
先ほど見かけて前を通り過ぎたはずの女と同じ姿・・・・
嫌な汗が背中を流れる。
鼓動が強く脈打つ。
唾液を思わず音を立てて飲み干しながら、角を曲がりきり視線を前に向けたとたん安原の足が止まりかける。
背後にいるはずの姿が、目の前に立ちつくしていた。
安原はぎゅっと傘を前向きに倒し、護符を強く握りしめて、足を動かし続ける。
女の姿など見えていないかのように。
これは、冗談抜きでまずい状況かもしれない・・・・・・・・・・・・・
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