『とうさま、こわい  


 いつも微笑を浮かべて絶やすことのなかった父は、振り返ることなくただ前方を睨み据えて歩みを薦める。
 子供の足ではついて行くのが精一杯・・・という速度を超えていた。
 一生懸命に前へ前へと足を出すが、父の進む速度はそれ以上に速く、足の動きは間に合わない。
 何度も両足が絡んでバランスを崩しながら、半ば引きずられるようにしてついて行くのだが、それもやがて限界が訪れる。
 足が何かにつまずいた瞬間、身体のバランスは大きく崩れる。その勢いは捕まれていた手ですら支えられないほどだった。父の大きな手に包まれていた自分の手は、転んだ瞬間つるりとすべり抜けてしまう。
 そうなるともう身体を支えるものはない。
 自然の摂理に従うように前のめりに、勢いを殺すことなく身体は倒れる。
 ずざっと砂埃を巻き上げて、転ぶ。
 全身が痛い。
 膝や掌、顔も擦り剥いただろう。
 あっちこっちから、チリチリとした痛みが襲ってくる。
 どれもこれもかすり傷だ。すぐに消えて跡形もなく無くなると判っていても痛いことには変わりなく、掌と膝を大きく擦り剥き血が滲み出てくる。血を見るなり大きな両目に見る見るうちに涙が溢れ、頬を大粒の雫が流れ伝う。
 一度、二度、大きくひゃっくりを繰り返して、ごしごしと拳で目元をぬぐうと、手を払いながら周囲に視線を巡らせる。
 いつもなら、転んでもすぐに父親が抱え起こしてくれて、膝や着物に付いた泥を笑いながら払い落としてくれたのに、なぜ今日はすぐに抱き起こしてくれる手が伸びてくれないのだろうか。
 頭を撫でながら、『大丈夫だ。すぐに痛くなくなる』そういってくれたのに、なぜ今はその温かな手が伸びて来ないんだろうか。


『とうさま・・・?』


 そこに父の姿はない。
 不安になって父の姿を探す。
 転ぶまでその姿は目の前にあった。
 なのに、なぜ今は傍にないのか。
 せわしなく首が右に、左に向き、視線は遠くを見て定まる。
 父は振り返ることなく、どんどん離れていく。
 その傍らにいた千鶴が今は離れていることに気がつくことなく。


『とうさま!!』


 己から離れていく父に向かって、千鶴は声を張り上げて呼びかける。
 だが、その背中が立ち止まることもなければ、振り返ることもない。


『とうさま、待って!!』


 千鶴は痛みを忘れて慌てて立ち上がり、前をどんどん進んでいく父親の後を追いかけるために走り出す。
 何度も躓き、何度もバランスを崩しながら、ただひたすら父を追いかけるが、追いつくどころかその背中はどんどん小さくなってゆく。


『とうさま! ちづるをおいていかないで!!』


 少女らしい高い声で何度も父を呼ぶが、父の元には千鶴の声が届かないのか。
 それとも、もう立ち止まる余裕など残されていないのか。


『とうさま・・・・とうさまっ、とうさま!!」


 張り裂けんばかりに叫んでも父はその歩みを止めてくれない。
 それどころか、どんどんその姿は小さくなり、闇に飲まれるように消えてゆく。


『まって、ちづるはここよ! とうさま、どこへゆくの!?』


 起きあがって走り出すが、周囲はほんの僅か先も見えないほど濃度をました闇に隠され、その姿を見つけ出すことはできなかった。


『・・・・とうさま・・・どこ・・・・?』


 嗚咽混じりの声で父を呼びながら、ひたすら闇の中を歩いてゆく。
 凍てつくような冷たい風が身も心も凍らせるかのように吹きすさぶ。


『とうさま・・・さむい・・・とうさま・・・どこ?』


 両腕で己の身体を抱きしめるようにしながら、あてどもなく闇の中を父を求めて歩き続ける。
 どれほど歩いても歩いても、周囲に変化はなく、ただ、口から漏れる吐息が白くたなびく。
 ここはどこなんだろう?
 父はどこへいってしまったのだろう?
 なぜ、自分はこんな所を歩いて居るんだろう。


『・・・とうさま、いかないで  


 どんなに呼んでも父の声は返ってこない。
 たった一人残され、千鶴は無我夢中で父の後を追うように走り出すが、どんなに走っても走っても視界の先に父の姿をとらえることは出来ない。
 不安に押しつぶされそうになりながら、息が切れるのも構わず走り続けていると、何かにぶつかりその場に尻餅をついてしまう。
「とうさま!?」
 痛いと感じる前に、父にやっと追いつけたのかと思い顔を上げるが、そこに立ちつくしていたのは見知らぬ男三人。


『・・・・・・・・・だれ?』


 白い髪。赤い瞳が闇の中ぼんやりと浮かび上がる。
 誰。という言葉は再度口を出ることはなかった。
 身体が固まってしまったかのように、ぴくりとも動かず目の前に立ちつくす三人を見上げる以外出来なかった。
 この人達は誰なのだとか。
 どこから来たのだとか。
 いったいなんのためにここにいるのかとか。
 疑問は浮かぶのだがその疑問を相手にぶつけることはできなかった。
 ただ、漠然と・・・おぞましい者を感じ、逃げなければという文字が脳裏に浮かぶが、身体はぴくりとも言うことを聞かない。
 この世のものであって、この世の者でないような赤い双眸が三対。千鶴へと視線を定めると、その口元が不気味に歪む。
 笑っていたのかもしれない。
 だが、千鶴の耳に届くことはなかった。
 身体の奥からこみ上げてくる吐き気に意識が眩む。
 反射的に口元を抑えようとして、手を持ち上げるとその掌に何かがべっとりとくっついていることにようやく気がつく。


『・・・・・・な、なに・・・なにこれ・・・・・・・』


 掌をべっとりと汚すものは、人の身体から溢れたばかりの血。
 温もりをまだ微かに残すそれが、まるで塗りたくられたかのように掌にこびりついていた。
 驚きのあまり、思わず背後へとずり下がるが、びちゃ・・・と液体が塗れる音に驚いて周囲を見渡せば、血だまりの上に自分は座り込んでいた。
 驚きのあまり声すらでない。
 いったいなぜ、自分は血だまりの中座り込んでいるのだろうか。


『いひひひひひひ』


 不気味な笑い声が響く。
 獲物を捕らえたと言わんばかり、怪しげに光る赤い三対の双眸が、千鶴へまっすぐ定められ、血に濡れた刀を振りかざす。







 

















「とうさま!!」





















 千鶴は目をぎゅっと閉じたまま、掠れた声で父を呼ぶ。
 己のその声に、はっと我に返り、千鶴は固く閉ざしていた瞼を勢いよく開けた。
 最初に視界に映り混んだのは、父の姿でもなく、怪しい三人組の男でもない。見慣れない天井が薄闇の中ぼんやりと見える。
「・・・・・・・・・・・・・ここは・・・・・」
 ゆっくりと首を巡らせて周囲を見渡せば、5畳ほどのこぢんまりとした室内。必要最低限の家具が置かれている以外他は寂しいほど何もない部屋が、障子越しに差し込んでくる月明かりによって照らされ、明かり一つ無い部屋でも物の輪郭を浮き上がらせていた。
 見覚えのある部屋・・・では、あるが、なじんだ部屋ではない。
 空気も冷たく凍てつき、どこかなじんだ物とは違う事を肌が感じていた。
 自分はどこにいるんだろう・・・・
 ぼんやりと身を起こすと、視界に入るのは小さくまとめられた己の荷物と、枕元にきちんと畳まれた袴と着物。


「京へ・・・・・・・・・父様を捜しにきたんだっけ  


 袴を見て思い出す。
 今自分がどこへ居るのかを。
 江戸から京へ旅をするのに、女の身一人では何かとさわりが出てくるだろうと思い、男装をして旅立ったのが三週間ほどまえの事。男の足でも二週間かかる旅路をさらに数日費やして京の都にたどり着き、どうやって父を捜そうか途方に暮れていた夜・・・自分はここへつれてこられたのだ。
 京都の治安を守るため、幕府の命を受け、会津藩の庇護を受ける新選組の屯所・八木邸へ。
 江戸へ居たときからその名だけは風の噂に聞いていた。
 人斬り集団・・・無頼者達の集団。とも。
 耳に聞こえる噂は評判の良いものではなく、血なまぐさい・・・近寄りたくはない類の噂ばかり。
 京へ行くと決意したとき、彼らには関わり合いたくないものだと思ったにもかかわらず・・・・よりにもよって、京へたどり着いたその日の内に、彼らと関わり合いになるとは思いにもよらなかった。
 それも、見てはならないものを見てしまったことにより、彼らと関わり合いを持つことになろうとは・・・
 あの、白い髪に赤い目をした異形の姿をした人達・・・彼らはいったい何だったんだろう。
 追いはぎのような浪人達を殺した三人の隊士達・・・ダンダラ模様が入った浅黄色の羽織を着ていたのだから、新選組の隊士に間違いないだろう。
 浪人達を斬り殺すだけなら彼らの役目の一貫と考えることはできた・・・だが、息絶えてなお執拗に刃を振り下ろしていたあの三人は、狂気に支配され明らかに常軌を逸しているように感じた。
 自分を見下ろした三対の赤い瞳は、自分を人としてみておらず、まるで獲物を捕らえたかのような・・・いやな目をしていた。
 殺される。
 そう思ったとき、閃いた剣先・・・・






 千鶴はあの夜を思いだし身震いをする。






 この京の都は人が斬り殺されるのが当たり前のように感じさせる。
 初めてこの地に足を踏み入れたとき、寒々しいと感じた。
 ただ、よそ者を・・・田舎者を拒絶しているのかと思ったのだが、見知らぬ者を怖れているのだろうか。
 いつ、その刃が己に向かうか判らないが為に  
 その刃はいつ、自分へと振り下ろされるかも判らない。
 千鶴は両手で己の身を抱きしめる。
 当座の安全は確保されたからと言って、このまま大丈夫という保証はないのだ。
 ただ、今は新選組に保護をされているだけ・・・・父親の行方を捜すのを協力するために。
 もし、父親の名を出さなければ、きっと自分は問答無用で斬り殺され、今頃どこぞへ棄てられていたかもしれない・・・物言わぬ骸となり、無縁仏として埋葬されるか、雨風に晒され朽ちていくだけだっただろう。
 そう考えると冷たい汗が、後から後から流れてゆく。
 ほんの数日間、ここに滞在して、彼らがけして悪い人達ではないことは判った。
 だが、それでも彼らは迷いなく殺すだろう。
 たとえ、父の行方が掴めずとも、自分の存在が彼らにとって障りが起きるようなことがあれば・・・なんの躊躇もなく。


『君って運がないね』


 そういいながら、あの人は笑みを浮かべたまま刃を振り下ろすだろう。
 あの夜も、それ以降も幾度となく『殺しちゃいましょうよ』と何の躊躇いもなく、未だに言い続けるただ一人の人・・・一番組隊長沖田 総司。
 彼だけではない他の誰もが、必要ならば殺す。
 他の人達は殺さねばならないときは、なんの躊躇いもなく刃を振りかざすだろう。だが、それでも若干躊躇いを伺わせたりもしたが、彼だけは最初から最後まで態度が変わらない。


「とんでもないところにお世話になちゃったなぁ・・・・」


 大きなため息が知らず内にでる。
 心強いと思うには不安の方がまだ大きかった。
 当然だ。
 いきなり目の前で人を殺され、さらにそれを目撃した自分を殺そうとした男達に連れてこられ、問答無用に口止めの為だけに殺されようとしたのだから・・・いくら、その後こちらの事情と新選組側の事情が噛み合ったからと言って、安心できるはずがない。
 何か、状況が少しでも変われば殺される可能性は十分にあるのだ。
 それだけではない。
 新撰組は当然男所帯で、女っ気など欠片と言って良いほどないため、色々と気をつけねばならないことがあり、女である千鶴には悩みの種でもあった。
 自分は土方預かりの小姓として新撰組に滞在することになり、周囲のごく一部の幹部をのぞいて、女で有ることをしられていないため、女物を着用するわけにはいかず、男装で日々を過ごしている。
 それは構わない。
 世間知らずと言われるが、女一人で男の中で生活するというのは外聞も良くないが、平隊士達がどんな不埒な真似にでるか判らない。
 自分の身を守る為にも、男で通すことは必要だった。
 千鶴はこの夜何度目になるか判らないため息をつく。
 ここへたどり着いてまだ数日だが、あまり眠れた夜がない。
 夜中に夢を見て目を覚ます日々が続いていた。
 父と連絡が取れなくなって二ヶ月近くが経とうとしていた。
 あのまま江戸に残っていれば、なんらかの連絡が父からあっただろうか・・・もしかしたら、行き違いになってしまった可能性も十分にある。
 念のため置き手紙を残してきたが、手紙には京の松本の所に世話になる予定だと書き残しておいてはいるが、その松本も不在で世話になっているのは新選組の屯所・・・その事をせめて、書き記したいと思うのだが・・・
 上手くいくとは思っても居なかったが、こうも予想外の事が立て続けに起こるとは思わず、何をどう考えてこれからどうすればいいのか判らなくなる。
 だから、あんな夢を視るのだろうか・・・・


 父と歩いていて、はぐれる夢を・・・・・・・・


 ここへ来るきっかけとなった、あの夜の夢。
 生まれて初めて人が殺される夢。
 吐き気がこみ上げるほどの血の臭い。
 月明かりがあったとはいえ、夜間であったことだけがせめてもの救いだ。
 陽の光の下であの惨殺された浪士達の死体をまともにみるのは、正視に耐えられなかっただろう。
 あの場で、新選組の幹部三人としばし話をすることができたが、今思えばよくまともに会話が出来たなと思う。
 あの血だまりの中で。
 いくら、父の治療を手伝い血の臭いには多少は慣れているとはいえ・・・
 立て続けに起きた事に、感覚が麻痺してしまったのだろうか。


 怖い・・・
 いつか、人の死が当たり前になってしまう日が来てしまうのではないかと思うと・・・
 死にゆく者の目を間近に見ても、何も感じなくなる日が来るのではないかと思うと・・・・


 ふるりと千鶴は身を震わせる。
 別に自分は新選組の隊士ではないため、彼らのように市中見回りに出ることもなければ、浪士達と斬り合うこともない。
 この八木邸に滞在しているかぎり血なまぐさいこととは無縁の生活をおくれるはずだが・・・・
 いつまでも、血なまぐさい世界とは無縁で居られるとは、いくら千鶴でも思えなかった。
 いつの日か・・自らは望まなくても、来るのではないか・・・
 彼らのいる世界に立ち入る日が・・・人ごとではなく、己の身にも数多の血が降り注がれるのではないか・・・


 そう思うと怖かった。
 

 江戸の頃の当たり前の日常が、夢幻のごとく・・・砂上の楼閣のように崩れ、血なまぐさい・・・血で血を洗うような日常が当たり前になってしまう日が来るのではないかと思うと。


「とうさま・・・どこにいるの」


 夢の中の幼かった自分のように、小さな掠れた声で呟くが、それに返ってくる答はない。
 今は、ただ新選組の探査力を信じて待つしかないのだ。
 千鶴は単衣の上に丹前を羽織ると、布団から抜け出しそっと障子を開ける。
 このまま部屋に籠もっていても、気がどんどん沈むだけだ。
 せめて、外の空気に当たってこの不安を少しでもぬぐい去りたかった。
 身に突き刺さるような凍てついた空気に身体は反射的に震える。
 吐き出す呼気は白く棚引く、闇の中消えてゆく。
 江戸の冬も寒いが、京の冬は骨の芯から凍えるほど寒かった。
 素足で板の間を歩くと、瞬く間に感覚が無くなってくるが、千鶴は構うことなく縁側へと足を薦め、夜空を見上げる。
 今夜は朧月だったのか・・・薄雲越しに月が滲むように見えた。
 夜気に身体が冷えようとも気にすることなく、千鶴はしばし空を眺めていたが、不意にどこからか水音が聞こえ千鶴は息を潜める。
 部屋から用もなく出るなと言われていた・・・夜間部屋からは出るなと厳命されていた。
 万が一部屋から一歩でも外に出るときは、身なりには十分に注意しろと。
 だが、寝起きの千鶴の今の姿はどう考えても「女」の身なりだ。
 単衣姿は寝間着として男も女もないが、一枚の衣ではその体格を誤魔化しきることはできない。いくら上から丹前を羽織っているとはいえ、気軽に人前に出られる姿ではない。
 気がつかれないうちに、自室に戻ろうと身を翻しかけるが、再び聞こえた水音に千鶴の足は止まる。
 

 こんな夜更けに、なぜ中庭から水をまくような音が聞こえるのだろうか?


 よけいな事に首をつっこむと、今度こそ斬り殺されることになるかもしれない。
 だが、端的に聞こえてくる水音に違和感を隠しきれず、千鶴は恐る恐る、誰かが会話をしている様子だったら聞かないうちに部屋に戻ればいいだけだと己を納得させて、音の聞こえる方へと静かに歩みを薦めていくと、中庭の井戸を使って斎藤が水を浴びている姿が、月明かりの中浮かび上がるように見えた。


「さ、斎藤さん!? こんな夜更けになに水垢離なんてされているんですか!?」


 吐く息が白く棚引く中、斎藤は顔を蒼白にしつつ井戸の氷のように冷え切った水を単衣の上から被っていた。
 そのあまりの姿に、思わず我を忘れて叫んでしまう。


「血を流しているだけだ」
「血を流してって・・・・湯殿を使えばいいじゃないですか」


 夜回り組が返り血を流せるようにと湯を使えるようにされているはずだ。
 その事は、千鶴も知っている。
 千鶴が湯を使うのは、皆があらかた自室に下がり、夜回り組が返ってくるまでの間だにこっそりと使用させてもらっているからだ。


「隊士達が使っている」
「一緒に入らないんですか・・・?」
「今日は返り血を被った者が多かった。全員が一時に入れるほど湯殿は広くはない」


 けして狭いわけではないが、それでも10人の人間が入れるほど広くはなかった。
 なにより、それだけの人間が返り血を流せば、あっという間に湯は使い物にならなくなる。
 平隊士達は一番最初に組長である斎藤に湯を使って貰おうとしていたが、斎藤は平隊士達に湯を譲り、自分は井戸の水でてっとりばやく洗い流している  ということなのだろう。
 訥々と語られる斎藤の言葉を聞いていた千鶴は、呆れれば良いのか、さすが組長と思えばいいのか、思わず判断に迷ってしまう。
「ですけれど、こんな寒い夜の水なんて浴びていたら風邪をひいてしまいますよ」
 千鶴は慌てて部屋に駆け戻ると、大きな布を斎藤の肩に羽織らせる。
「俺はそんな柔な鍛え方はしていない」
「そう言う問題じゃありません!!」
 思いにもよらない千鶴の鋭い声に、思わず斎藤は口を噤む。
「京の冬が江戸とは比べものにならないほど冷えるのは、私よりご存じですよね!?
 そんな京の・・・それも冬の井戸水を被るなんて、自殺行為でしかないですよ!
 どんな若く健康で体力のある人でも、冷水をいきなり浴びたら、心の臓が驚いて止まってしまうことだってあるんですからね!!」
 千鶴はあまりにも己自身に無頓着な斎藤に呆れ、その肩にかけた布でほどけた髪をわしゃわしゃと手荒く拭いていく。
「それは、綱道氏の教えか?」
 斎藤は千鶴の手を止めようと手を伸ばしかけるが、千鶴は「じっとしていて下さい!」と一喝して手を止めることをしない。
「はい、父様が以前言っていたことです。
 冬場になると毎年、水垢離をして亡くなられる方がいたので・・・・・
 逆に凍てつく中、湯の中にいきなり入るのも入るのも、心の臓には良くないことだと言ってました。
 特にお年寄りはそれで亡くなられる方もいらっしゃいます」
「俺は、まだ年寄りと言われるような年ではないが・・・・」
「ですから! 水垢離で亡くなられる方は、若くても、体力があっても、健康でもぽくっといっちゃうことがあるっていっているんです!
 体力自慢の方ほど油断大敵です!」
 千鶴の言葉に体力自慢は、自分ではなく新八だ・・・と思うのだが、これ以上よけいな事を斎藤は言うことはなかった。
 代わりに・・・


「雪村、髪ぐらい自分でぬぐえる」
「は・・・・え・・・・・・?」


 千鶴の手がぴたっと止まる。
 あまりの状況にびっくりして思わず手を伸ばしてしまったが・・・・
 事もあろう事か、斎藤の頭に布をかぶせて、わしゃわしゃ力の加減をすることもなく、その髪をぬぐっていたことにようやく気がつく。


「あ・・・・・・・・す・・・・・・・すみませんでした!!!」


 あまりのことに、真っ赤になりながら手を引くと、斎藤は微かに苦笑を浮かべる。


「綱道氏の教え、忘れず胸にとどめておこう」


 よけいな事を言ったと我に返った今なら思うのだが、斎藤の言葉に千鶴はわたわたと無闇に振り回していた手を下ろし、所在なげに立ちつくす。
 この場から離れようにも、タイミングが見つからず、離れることができなかった。


「お前はもう休め。なぜ、こんな時間にここへ来たのかは聞かないでおく」


 それは、部屋をやたらと・・・特に夜間は部屋から出るなと厳命されているにもかかわらず、出てきたことを見逃してくれるという意味なのか。
 それとも、眠れない夜が続いていることを判っていて、あえて聞かないでいてくれるのか・・・
 微かに浮かんでいた苦笑は消え、いつもの無表情に戻ってしまった顔を見ても、千鶴には判らない。


「え・・・・と、斎藤さん。身体冷えていらっしゃるのでお茶を・・・と思うんですが、ダメですか?」


 判らない・・・が、このまま部屋へ戻るのは少しためらった。
 どさくさ紛れに触れた肌は恐ろしいほど冷えていた。
 本当は湯殿で身体を芯から温めて欲しい所だが、湯は使い物にならなくなっており、改めてわかす頃には夜が明けてしまうだろう。
 なら、せめて熱いお茶でも飲んで身体から暖まって欲しかった。
 

「お前は何を人の話を聞いている。
 土方さんから、夜間は部屋から出るなと言われているだろう」
「そうですけど・・・でも、この時間帯誰も台所にはいらっしゃいませんし・・・・それに、せめて熱いお茶でも飲んで、冷えた身体を温めてください。
 風邪でも引いて任務に支障が出てしまうほうが大変ですよね?」


 斎藤はそんな事は構わなくて言いと続けようと思ったが、ため息を一つついて「馳走になる」と告げると、千鶴は弾けるような笑みを浮かべて、身を翻していく。
 斎藤は千鶴の姿が完全に見えなくなると、濡れて肌に張り付いていた衣を脱いで、縁側に置いておいた乾いた衣へと袖を通す。
「総司、いつまでそこに潜んでいるつもりだ?」
 身なりを整えながら斎藤が、どこへと視線を向けることなく告げると、音一つたてることなく総司が姿を現す。
「やっぱり、一君には気がつかれていたか」
 笑みを浮かべたまま総司は斎藤から、千鶴が消えた方へと視線を向ける。
「あの子って本当懲りないというか、迂闊というか・・・うっかり、またよけいな者を見聞きしちゃったら、問答無用で殺されるって事判っているのかな?」
 笑顔を浮かべてはいるものの、その口から漏れる言葉は容赦の欠片もない。
 もし、ここで見た者が斎藤の水垢離ではなく【見てはならない者】だったら、沖田はなんの躊躇いを見せることもなく、その刀で千鶴を切り捨てていただろう。
 いま、この足下に広がるのは井戸の水ではなく、千鶴の身体から流れ出る血潮だったはずだ。
 この新選組には屯所内においても・・・いや、屯所内にこそ【見聞きしてはならない者】があることを、今だ彼女は知らない。
 生き続けるために知ってはならないものが在ることを、知らない。
「判ってはいるだろう」
「でも、好奇心のほうが勝っちゃうって?
 よけいな好奇心は身を滅ぼすだけなのにね」
 沖田の言うとおり、よけいな好奇心は確かに身を滅ぼすだけだ。
 まして、不安に苛まれ夜もろくに眠れない日々が続くなら、よけいに近寄らなければいいのに。と、沖田は呆れを隠しきれず呟く。
 沖田だけではない。
 彼女のことを知る誰もが、今の彼女が不安に苛まれていることに気がつている。
 彼女の境遇を考えれば当然だ。
 逆に言えば、よく耐えていると斎藤ですら思う。
 蘭方医の娘なら不自由なく過ごしていただろう。
 その娘が、男の身なりをして、男だけのむさ苦しく、血と死の匂いが立ちこめる屯所での軟禁生活を文句なく甘んじて受け入れているのだ。
 だが、それでもまだ15の少女だ。
 不安に苛まれ、押しつぶされかけてもおかしくはない。
 まして、あの夜初めて人が殺されるところを目の当たりにして、取り乱さなかっただけそうとう肝が据わっているのだろう。
 井上や近藤など一部の人間は彼女のその気丈さを純粋に褒めていた。
 その点は、斎藤や土方ですら認めている点だった。


「まぁ、僕は彼女が何をしっても構わないけどね。その時は斬れば良いだけだし。
 あ、戻ってきたみたいだね。あんなに足音を立てたら寝ている皆がおきちゃうじゃないかね」


 慌てているのか、パタパタとした軽い足音が響いてくる。
 その音に斎藤は呆れたようにため息を零し、沖田は意地の悪い笑みを浮かべる。


「僕はもう寝るよ。後は一君に任せた。
 斬る用事がないなら、いてもしかたないしね」


 沖田が姿を消すのと同時に、千鶴が湯飲みを二つ携えて姿を現した。
 一つだけではなく、二つあると言うことは、彼女も茶を飲むつもりなのだろう。


「雪村、静かに歩け。皆が起きる」


 斎藤の静かな注意に、千鶴は「あ」と息をのむと、周囲にせわしなく目を向ける。
 起こしてしまったのか、寝ているのか、千鶴には判断が付かず、斎藤へと伺うように視線を向ける。
 斎藤は、ため息を一つ零すだけで、千鶴の伺うような視線には何一つ答えない。
 おそらく、何人かはあの足音で目を覚ました者はいるだろう。
 だが、様子をうかがいに来る者はいない。
 ここに斎藤が居ることを知っている以上、わざわざ暖かい布団からはい出て、寒い外へ様子をうかがう必要はないと判断したのだろう。


「寝静まっている」


 斎藤が一言答えると、千鶴は安堵したようにため息を零し、お盆を斎藤へと差し出す。
 斎藤は湯飲みの一つを無言で受け取る。


「お前もそれを飲んだら、休め」


 その一言に、千鶴は嬉しそうに顔を綻ばせ、暖かい湯飲みを両手で抱えるようにして、しばしの間だ二人で縁側に座って、おぼろ月夜を眺める。
 こんな寒い夜に何を好きこのんで縁側でお茶をすすって居るんだろうと思わなくもないが、今はその寒さがなぜか気にならなかった。
 無言で、ただ月を眺めながら茶をすすっているだけなのに、掌から伝わる温もりが、じんわりと心の凝りさえもほどいてくれるような気がしてならなかった。




 その次の夜から、千鶴は夢に苛まれることがなくなり、斎藤が夜回りをした日には、湯気をくゆらせる湯が、桶に用意されるようになったのだった。








 




 

 





 ☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆


 ひっさしぶりの更新です〜
 書きかけの話は、他にいくつかあったりするんですが(^^;ゞ
 なかなか書き終わりません。


 そんな久しぶりの更新は斎藤×千鶴前提で(笑)
 新選組預かりの身となって数日ぐらい経たとある夜の一幕〜
 普通に考えると、あっさりとあの展開を受け入れられるわけもなければ、人が目の前で死んだのを平然と受け止められるわけないと思うのよねん。
 あの場は何か感覚が麻痺したというか、現実的に実感できなくて、意外と平然としていても、こう後からじわじわ〜〜〜とあっても、おかしくないかなーと思いつつ、微妙にじわじわ〜〜〜としきれてないかなーと。
 まだ、新選組について数日じゃ、彼らとも打ち解け合ってないだろうし。
 女の身で男の中での生活も色々とストレスたまるだろうし。
 まして15才やそこらじゃ、ストレスを上手く処理できるはずないし!


 ってなことで書いてみた話でした(笑)
 最初は沖田×千鶴前提にしようと思ったのだけれど、沖田さんが水垢離するなんて想像できなかったので、一君にしてみました(笑)







2009/02/16
Sincerely yours,Tenca