それは、ある日の事。夫である鳴瀧(なるたき)が帝より拝命した仕事により、宇治へと発って早三日の月日が流れていた。依りまし体質であり、見鬼でもある自分を連れて行くが今回は日が悪いと言う事で、京の屋敷に式神の秋初月(あきはづき)と留守番である。
「秋初、鳴瀧はいつ戻ってくるのかな?」
 七月の異名をもつ秋初は長い黒髪を異国風に結い上げ、光沢のある
白地に薄縹で花の模様をされている衣を纏っていた。その色合いは尾花の襲色だが、今まで見た事もない衣に、麻衣は何度見ても見飽きる事はない。
 秋初曰く唐の衣装らしい。
 身体のラインを強調したその衣は、自分にはとうてい着れる者ではないが、秋初が纏うと天女の如く美しく思えた。
「明日か・・・明後日には戻られるかと思いますよ」
 美しく整った顔に、夫を恋い慕う主をほほえましく思い、自然と笑みが刻まれる。
「明日か明後日かぁ・・・んじゃ、着替えの用意とか初めて置いてもいい頃合いかな」
「そうですわね。空気の湿り具合もほどよいですし、香を焚くにはほどよい頃合いかと存じますわ。
 姫様、どのような香をお焚きになられます?」
 女房を呼ぶ事もなく、秋初が変わりにどんどん準備を施していく。
 鳴瀧は曾祖父同様十二の式神を配下に起き、それぞれに月の名を付けていた。その中の一人、七月の異名・文月と呼ばれていた式神を、麻衣の元へと常に置くようになっていた。麻衣が七の月生まれであり、縁が深いからという理由でだ。
 鳴瀧から好きなように名を付けるように言われ、麻衣が彼女に与えた名は「秋初月」これもやはり七月の異名だ。意味合いが変わらないなら、名付ける必要などないのかもしれないが、新しい名を与える事によって絆がより深まるからと、鳴瀧は麻衣にその名を呼ぶように言い含めたのだった。
 むろん、あくまでも秋初月の主は鳴瀧には違いないのだが、主が大切に思っている姫を、むろん守護する事に否の声は当人である秋初月を初め、他の式神達も異論を唱える事はなかった。
「あのね、この前榊殿に香を頂いたの」
 麻衣は小箱を引っ張り出してくると、蓋をカパッと開け懐紙に包まれていた丸薬のような物を、秋初に見せる。
「不思議な馨でね、今までに聞いた事のないような馨なの。
 でも、榊殿が下さったものだから変な香ではないと思うし、とっても良い香りだと私は思うのだけど・・・この香がどうかしたの?」
 フワリと丸薬から立ち上る馨は、まだ火にくべてもないというのに柔らかな馨を放っている。花園のいるかのような馨に、心穏やかになりふわふわと心地よい気分にさえなってくる。
 だが、秋初はこの香の馨を嗅いだ瞬間、考え込むかのように目を伏せた事を、麻衣は見逃してはいなかった。
「この香、榊殿から頂いたものなのですか? それとも、お使いの方でしょうか?」
「榊殿自身だよ。だから、問題のある香ではないと思うんだけれど・・・」
 鳴瀧は陰陽師という役職柄、色々な人間の裏側を謀らずとも見知ってしまっている。そのため、時折り、知られたくはない秘密を知られてしまった貴族の誰かが、亡き者にしようと毒を潜ませたり、刺客を向けたりすることがたまにある。
 そのため、麻衣に護衛をかねて四六時中離れないように式神を一つ付けているのだ。
「まさかと思うけれど・・・毒、とか?」
 榊は鳴瀧の右腕的存在であり、彼を裏切るような人物には思えないのだが、この世の中に絶対という言葉はないということを、麻衣は知っていた。
「そう言った類の物ではないので、ご安心下さいませ・・・・ただ・・・・・・・・・・・・・・・」
「ただ?」
 言い淀んでしまっている秋初を麻衣は不思議そうに見上げる。
 秋初はしばし、純粋な眼差しで見上げてくる主の顔に、言葉を言いよどみ迷いに迷ったあげく、さらにしばしの間考え込み・・・「・まぁ、はないわよねぇ・・・・は」と口の中で呟く。
「いえ、何でもありませんわ。
 わたくしが深く考えすぎているだけかも知れませんし。この香は御身にはありませんので、心配はご無用ですわ」
 にっこりと笑顔で保証され、麻衣は安堵のため息を漏らし、その香で鳴瀧の衣に焚きしめ始めた。
 「害」という言葉が強調されていた事だけは、最後まで気が付かなかった麻衣である。




















 さて、鳴瀧が宇治から戻ったのは、翌日の陽がくれた頃合いの事だった。
 夕方から曇り始め、雨がパラパラと降り出した頃に戻ってきたため
、髪も衣も水分を含んではいたが、ぐっしょりと濡れるほどではなかった。だが、むろんそのままで居れば風邪を引くため、麻衣は慌てて女房達に白湯と火桶の用意をさせ、自分は鳴瀧の髪を乾いた布で丁寧に拭き、着替えを手伝う。
 その間も、香を部屋の片隅で焚いていた。
 榊から貰った香の数はたくさんあったわけではないため、いっぺんに使うのはもったいないと思ったのだが、衣に焚きしめている間思いのほか良い香りが漂ったため、空焚きにも使用したのだ。
 疲れた鳴瀧の身体もこの香が少しでも癒してくれるかもしれない。
 そう思ったのだ。
 実際にこの香が辺りに漂い始めてから、ふわふわと夢心地な気分に浸れ、鳴瀧が帰ってきた時には一瞬夢の事かと思ったぐらいである。
「麻衣、この香は?」
 嗅ぎ慣れない香の馨に鳴瀧もむろんすぐに気が付いた。
 自分が使う香とも、麻衣が愛用している香とも違う甘い香りが微香を擽る。
 その香が胸中に満たされる事に、表現しがたい酩酊感が生まれてくる事に気が付き、鳴瀧は無意識のうちに袖で顔を隠す。
「榊殿から頂いたの。とっても良い香りでしょう?」
 とろん・・・・とした目つきでそういう麻衣に、鳴瀧は呆れたようなため息を漏らした。
「良い香りって・・・お前はコレが何かを判っていて使ったのか?」
「・・・・・・・・何かって?」
 全くわかてていない様子の麻衣に、鳴瀧は首を振ると、何も居ないところに視線を向ける。
「秋初、なぜ止めなかった」
 呼ばれた秋初は姿を見せる事はなく、声だけで主に応じる。
「姫様がたいそうお気に召していらっしゃいましたので・・・・御身に害のある物でもございませんし」
「害がないからといって、使用して良い物ではないだろう」
 しばし、考え込んだ後至極真面目に声が返る。
「主様も、喜ばれるかと思いましたので、お止めした方がよろしかったでしょうか?」
 思いにもよらない式神からの答えに、一瞬鳴瀧が返事に窮すると、その袖を麻衣が縋るように掴む。
「秋初を叱らないで」
 眉間に皺を寄せつつ、眉尻がすっかりと下がって麻衣は鳴瀧の裾をくいっとひっぱる。
「鳴瀧、この香キライだった?
 疲れている時はこういう馨の方が良いかと思ったのだけれど、鳴瀧にはこの馨は合わない?」
 夢見心地だった顔はいつの間にか、目尻に涙が浮かび、一気に気分が下降しているのが見て取れた。以下に感情の起伏が激しい麻衣とて、このぐらいの事でここまで落ち込みはしない。
「そう言った意味で言ったんじゃない・・・」
「じゃぁ、どういう意味なの?」
 まったく、榊も厄介な物を麻衣に渡すものだ・・・・と独り言を呟きながら、白くふっくらとした頬を優しく包み込むように触れると、そっと顔を近寄らせ、啄むようにその唇に口づける。
「なるたき?」
 微かな紙蝋の明かりでも判るほど間近にある鳴瀧の顔に、麻衣はさっと顔を赤らめる。
 その頬に掠めるように口づけ、耳朶をそっと口に含むと、耳朶を含んだまま囁きかける。
「この香は、古く中国から伝わってきた物で、閨に焚きしめる香だ」
 囁きと共に吐息が擽り、麻衣の肩がぴくりと揺れるが、鳴瀧は腕に抱き込んだまま放さない。
「閨に焚きしめる香・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って・・・・・・・・・・・・・・・・」
 最後まで言わなくても鳴瀧の言いたい事が伝わったのだろう。
 先ほどとは別の意味で麻衣の頬が赤らんでくる。
「女人が男を惑わす時に使用したと言われ、甘蜜香と呼ばれている。
 この香は男の思考能力を衰えさせ、欲を呼び覚まし刺激するものだ。
 毒物ではないため身体に害があるものではないが・・・・・・・・・・・・・・・・・
 正直に言えば、お前は焚きすぎている」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・ど・・・・どいういう意味かな?」
「押さえが効かないという意味だ」
 怖々と聞いてきた質問を、鳴瀧はすっぱりと両断する。
「もしくは、自分からは男を誘う事の出来ない姫君が、この香の力を借りて男を手に入れるという手段も聞いたことがあったな・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・知らない、知らない知らない!! 私はナンにも知らない!!!!」
 そんな意味があったなんて毛頭知らなかった麻衣は、頭を激しく振って否定する。
 自分は別にそんな意味合いで香を焚いたワケではなかった。
 どうりで、秋初が言葉を濁したわけだ。だが、こんな効果が有るような香なら、あの時言ってくれればどんなに香りを気に入ったとしても、使う事なんてしなかったのに!
「ああ・・・言い忘れていたが、本来この香は女人には聞かず、男限定の香だと言われている。
 焚いた本人が惑わされては、意味がないからな・・・・・・・・・・・・・・・・だが」
 鳴瀧の唇がきゅっと耳朶を噛み、暖かな吐息がうなじを掠める。そのたびに腰の奥から甘いうずきが、背筋を駆け上り、麻衣はしがみつくように鳴瀧の衣をぎゅっと握りしめる。
 本人さえ知らず内に熱を帯びていくと息を鳴瀧も間近に感じ、笑みを浮かべると帯に手が伸ばし、固く結ばれている腰ひもを一気にひっぱる。ひもとかれると同時に、身体を締め付けていた衣が緩み、前身頃が瞬く間に弛んでいく。
「女人に香の効果が出た時は、その女人もまた男に抱かれたがっている時・・・・・・・・・・・・・・。
 麻衣、お前に香の効果は出ているのか?」
 喉の奥で笑みをこぼしながら問いかけてくる鳴瀧に麻衣は応えられる余地はなかった。
 知らなかった事実を次々と聞かされ、もう頭はいっぱいいっぱいのパニック寸前である。
 自分に香の効果が出ているのか、出ていないのか、そんな事さえ判断出来ない。
 鳴瀧の指が触れるところが、唇が掠めていく箇所が、熱を孕み全身を苛んでいく。その熱と甘い香に思考が溶かされてゆき、この香の意味あいなどどうでも良くなってくる。そもそも、ここのところ忙しかったため、鳴瀧とこうして一時を過ごすのは久しぶりの事であり、鳴瀧に問いかけられている時に「違う」とは言えなかった。
 求めているか求めていないか、聞かれれば確かに求めているとしか言えない。
 だが、そんな事はけして自分の口から言う事など出来ず、ぎゅっと唇を噛みしめてわき上がる物を堪えていると、耳元で彼が笑う声が聞こえ、閉じていた瞼をゆっくりと開くと、鳴瀧は有らぬ方へと視線を向けていた。
 自分を見ていない双眸に寂しさがわき上がり、腕を伸ばしてその首にしがみつく。
 麻衣のいきなりの行動に鳴瀧は一瞬驚くが、有らぬ所に視線を定めたまま口を開いた。
「朧月(ろうげつ)、榊に明日からしばらく物忌みで休む事を伝えておけ」
 その命に返る声はなかったが、その返事とばかりにゆらりと御簾が風邪もないのに揺れ動き、何事もなかったように元の位置に戻る。
「物・・・・忌み?」
 鳴瀧が物忌みにあたることを、今まで榊に直前まで言わなかった事はないため、思いついたかのように口にされた言葉に、麻衣は軽く首を傾げる。
「せっかく榊が寄越した善意を無駄にする事もないだろう・・・
 どうせ、この香は僕が宇治に発つ前日にでも、榊からもらったのだろう?」
 まさしく、鳴瀧の言うとおりだった。
 宇治に発つ前から忙しく動き回っていたのは、鳴瀧ではなくその部下の榊もだ。そのため、榊は鳴瀧がどれだけ忙しかったか熟知していた。
『麻衣殿、宇治から帰られた時はさすがの鳴瀧殿もさぞかし疲労が蓄積されていると思いますので、お迎えの時はこの香を焚きしめてあげて下さい。
 鎮静効果の優れた物で、疲れた身体を癒す効果があるんですよ』
 爽やかな笑顔と共にそう言われ、麻衣が疑うわけがなかった。
「榊殿の嘘つきぃぃぃいぃぃぃ」
 鎮静効果が有るどころか逆効果ではないか。
 榊から貰ったときのことを鳴瀧に話すと鳴瀧は、笑みをこぼす。
「別の意味での鎮静効果はあるだろう」
 いったいそれはどういう意味なのか、麻衣には判るような気がしたがあえて口にすることはなかった。
「甘い匂いきらいだが・・・・・・・・・・」
 鳴瀧は呟きながら、はだけた胸元に口づける。
 背筋をはいのぼる甘い痺れに、麻衣は息を呑んでしまう。
「・・・・・・・その匂いをお前が纏っているのは、悪くないな」
 小さな果実のような唇に口づけ、ヒンヤリとした肌に触れていけば触れていくほど、鼻先を掠める香りが強くなっていくように感じるのは、体温の上昇によってだろうか。
 甘い果実をむさぼるように、鳴瀧は自分にしがみつく華奢な身体にのめりこんでゆく。
 潤んだ視線が自分を見つめる事に、甘やかな吐息が肌を掠める事に、柔らかな肢体が身体に絡みつく事に、深く底のない蜜の中に覚えれていく事を自覚しながら、鳴瀧は白い肌にのめり込み、赤く甘やかな花を咲かせる事に夢中になっていく。





 

 








☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
お色気ネタ第二弾でしたー♪
そんでもって、久しぶりの平安モノでございます。どのぐらい久しぶりかというと・・・・・1年半ぐらい?うーわーその間ずっとGHしか書いていなかったんだぁぁぁぁぁぁぁぁ。
平安ネタもオリジナル化しようかとも思った事もありましたが、諦めてGHの平安バージョンでまいります♪
名前やら設定はまるっきり同じって言うワケじゃないんですが、まぁGHを元にした方が皆さん楽しんで頂けるかなーと。
こっちも、またupしたいなーと思いつつ、今度はどんな話がup出来るかナゾです(笑)





                                   2004/05/07
                              Sincerely yours,tenca