最初は富士山

1955年(昭和30年8月)

瑞牆山より富士山

(瑞牆山より)

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小学校の同窓会で山中湖キャンプへ

 僕が初めて登った本格的な山は富士山である。昭和30年8月、中学一年の時であった。小学校の担任だったT先生が夏休みに小学校の同級生を山中湖キャンプに誘ってくれたのだ。10名ほど参加することになった。
 キャンプの道具など何も持っていなかったが、母が親戚からリュックサックや飯ごうなどを借りてきてくれた。ところがリュックサックは鳥打ち用のもので、後ろに獲物の鳥を入れるための網が付いていた。その網に入れた飯ごうが丸見えになり、ちょっと恥ずかしかった。
 中央線に乗り、河口湖からバスで山中湖のキャンプ場に向かった。バスは砂利道をモウモウと土煙を上げて走り、湖畔のキャンプ場についた。バンガローを借りて自炊したが、初めての飯ごう炊さんは楽しかった。
 静かな湖の朝、桟橋の回りを小さな魚が群れていた。岸辺の小石に微かなさざ波が寄せていた。日中はボートに乗ったり、泳いだりして遊んだ。

富士山に向かう

 初めから富士登山の計画があったのかどうか記憶にないが、昼過ぎにキャンプ場からバスに乗って富士登山に向かった。山中湖から見る富士山は大きく、その天辺に登るということが信じられなかった。
 終点でバスを下りた時、すでに夕暮れが迫っていた。ほとんどの登山者が売店で杖を買っていた。どの登山道だったのかはっきりしないが、暗い林の中を歩き始めた。前後に人は沢山いたが、日が落ちて真っ暗な森の中を歩くのは怖かった。道を覆っていた大木がだんだんと低くなり、やがて星が見えてくるとほっとした。暗い森を抜けると、もう怖いものは何もなかった。途端に元気が出てきた。
 いつの間にか丸坊主の斜面を登るようになっていた。だんだん傾斜もきつくなってきて、つづら折りの道が始まった。夜中の12時頃、みんなくたびれてきたので、大休止することになった。道の傍の大きな岩のかげに座って、昼間、キャンプ場で作っておいた握り飯を食べた。それから横になって仮眠した。岩の間に仰向けに寝ころんだ。手足を伸ばすと全身の力がすーっと抜けて気持がよかった。驚くほど近くに星があった。手を伸ばせばすくい取れるような気がした。少し寒かったが、しばらくうとうとした。地面の上でも眠れるということを初めて体験した。
 1時間ほど休んでから出発した。何度も何度もつづら折りを折り返しているうちに、みんなばらばらになってきた。懐中電灯の列が稲妻形に続いていたが、真夜中のことだから、ちょっと離れるともう誰だか見分けがつかなくなってしまう。僕はみんなより大分先にきてしまって心細くなってきたので、道端でみんなを待つことにした。しかし、いつまで待っても仲間が登ってこないので、みんなにおいてけぼりを食ったのかなと不安になりだした頃、ようやくみんながやってきたのでほっとした。O君が大分疲れているようなので、後ろから押したりして励ましながら登った。
 8合目辺りで東の空が白んできた。ご来光はできるだけ高い所で見たかったので自然に足が早くなった。しかし、9合目を過ぎた辺りで、とうとう日が昇り始めた。その瞬間、周りの人々もみな足を止めてご来光に見入っていた。青い地平を割って真っ赤な太陽が浮かんできた。オレンジの光が四方に広がり、東の空を赤く染めた。ふと中天を見上げると、まだ深く澄んだ濃紺の空に星が瞬いていた。人々は顔を輝かせてこの荘厳な夜明けを眺めていた。太陽が地平を離れるのを見届けてから、僕らは再び頂上を目指した。
 頂上が近くなると、疲労のせいか高山病のせいか、道端にうずくまって青い顔をしている人が何人かいた。僕はO君と先頭を歩いていた。後の仲間はずっと遅れていたが、明るくなっていたので不安はなかった。左右の稜線がだんだん狭まってきた。僕は元気が出てきて、O君の手を引きながら休まず登り続けた。ついに浅間神社の鳥居をくぐり、そこで仲間を待ち、最後はみんな一緒に頂上に立った。

頂上は紫に煙っていた

 僕らは頂上の一角に腰を下ろした。スポーツ万能で運動会ではいつもリレーの選手をしていたW君が青い顔をしてぐったりしていた。お医者さんの登山グループが通りかかり、W君を診てくれた。看護婦さんが銀色のケースからアンプルと注射器を取り出し、W君の腕に注射してくれた。僕はこんな山の上まで注射器を持ってくる用意のよさにびっくりした。注射が効いたのか、しばらくするとW君も元気を取り戻した。
 頂上からの眺望はまったく素晴らしいものだった。僕らは昨日まで遊んでいた山中湖を見つけて大喜びをした。紫の空気を通して、遙か下に富士五湖が並んでいた。伊豆半島と駿河湾を分ける海岸線が綺麗な弧を描いて眼下に広がっていた。まるで天国から地上をみているようだった。
 頂上は寒かった。真夏なのに、しかも朝日がさんさんと射しているのに震えるほど寒かった。僕は十分な防寒衣料を持っていかなかったので、小刻みに震えながら握り飯を食べた。T先生がコンビーフの缶詰をクルクルと開けてみんなに分けてくれた。
「銀座スタイルで富士山に登ったのは君が最初じゃないかなあ」
 T先生が感心したように言った。銀座スタイルとは誉めすぎだが、僕がおよそ登山とは不似合いな格好をしていたのは事実だった。黒い学生ズボンに白いワイシャツ、それに黒い短靴を履いていた。なぜ革靴を履いて行ったのかよく覚えていないが、運動靴が大分くたびれていたのかもしれない。当時の我が家の経済状態を考えれば、自分の遊びのために靴や衣類を買ってくれなどとはとても親に言い出せなかった。
 下りはザクザクと岩屑の中を滑るように降りた。短靴はまったく具合が悪かった。くるぶしまで岩屑に埋まってしまうので、石ころが容赦なく靴の中に入り込む。度々靴を脱いで石を出さなければならなかった。そのうち、左足のつま先の靴底がパカパカとはがれてきた。ようやく岩屑の道が終わり、小さな木も生えてきて、土の上を歩けるようになった。僕ははがれた靴底を押さえるようにして、ピョコタンピョコタン歩いた。途中の売店でわらじを売っていたので、靴の上からわらじを履き、ようやくまともに歩けるようになった。
 富士山は水がない山である。頂上では「コップ1杯20円」だった水が、高度が下がるにつれ「腹一杯20円」になり、麓に近い売店では「水筒一杯20円」などとなっていた。水が有料で、価格が高度に比例しているのが面白かった。
 さすがに足取りが重くなり、惰性で足を右、左と出しているうち、ようやく馬返しに着いた。そこからはもうバスに乗るだけだった。河口湖駅前の食堂でT先生がかき氷をご馳走してくれた。土埃で真っ黒になった顔を洗い、さっぱりしてから食べたかき氷の美味さは忘れられない。
 この登山で、案外僕は山に強いのではないかという自信を持った。小学校の徒競走ではいつもペケだったが、山ではリレーの選手だったW君より強かった。僕は痩せていてひ弱に見られるが、山登りは頑張りが第一なのかも知れないと思った。
 この最初の富士登山が、僕が山好きになる直接の契機だったことは間違いない。もし、富士山に登っていなければ、大学でワンゲルに入っていたかどうか分からない。山に連れて行ってくれたT先生には今さらながら感謝している。

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