初めての北アルプス、水晶、鷲羽、槍ヶ岳

1961年10月

遥か槍ヶ岳
水晶小屋より鷲羽岳と遥か槍ヶ岳を望む

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雨の高瀬川

10月3日(火) 新宿 →
10月4日(水) 信濃大町 7:05 → 七倉 8:05 → 9:40 濁小屋 → 14:50 2208M → 16:20 烏帽子小屋 → 16:30 テントサイト
 僕が念願の北アルプス裏銀座縦走に出発したのは昭和36年10月3日だった。Tリーダー以下12名は新宿22時35分発の準急第二穂高に乗った。 翌朝、信濃大町に降り立った時、空はどんよりと曇っていた。初めての北アルプスに緊張気味の僕は、何となく重苦しい気分に襲われていた。  7時5分、ほぼ満員になったバスは走り出した。小一時間谷間を走ったバスは七倉についた。旅館があったが、僕らの隊はすぐに歩き出した。間もなく森林鉄道の軌道上を歩くようになったが、枕木が歩幅に合わないので歩きにくかった。僕はこの山行の前に、飯田橋の双葉で注文の登山靴を新調していた。格好だけは一人前のアルピニストになりつつあったが、谷間を流れる高瀬川の耳を聾する瀬音に僕の心臓はびくびくしていた。「七人の侍」の盗賊たちの巣窟に向かっているような気分だった。いつの間にか雨がポツポツ降り出した。濁小屋を過ぎて濁沢に入ると、谷間が開け沢の音も弱まってきたのでほっとした。
 濁沢の道はダムの工事中で分かりにくかったが、上級生が道を捜して、ケルンがあるところで左手の斜面に取りついた。途端に樹林帯の中の急登が始まった。名にし負うブナ立尾根だった。息を抜く所もない急な登りで、おまけに雨ときているから、辛い登りだった。夜行明けで睡眠不足の体がどこまでもつか心配だった。
 午後になると雨が本降りになってきた。ビニールの雨具を着けるとうっとうしさが倍加する。いつの間にかガスに包まれていた。霧の中を黙々と歩き、午後4時すぎに烏帽子小屋の前に出た。小屋に泊まれるかと思ったら、小屋番がいたので、さらに10分ほど歩いた所にあるキャンプ指定地にテントを張ることになった。午後4時半になっていた。
 雨の中のテント泊は侘びしいが、テントを張ってもぐり込むとほっとする。ラジウス(石油コンロの商品名、ワンゲルで使っていたのは国産のマナスルだったが)の火がついてゴーゴーと音を立て始めると、何となく気分が明るくなる。
 ようやく炊けた飯はひどいものだった。高度が高いので沸騰点が低く、米がよく炊けていなかった。芯が残っているうえ(ワンゲルではガンタと言っていた)、米をとがなかったので糠の味が残っていた。アルマイトの椀に盛られた飯を喉に押し込むのに苦労した。

水晶小屋が消えていた 

10月5日(木) 烏帽子小屋テントサイト 7:00 → 8:15 三ツ岳 → 10:35 野口五郎岳 → 12:25 東沢乗越 → 14:00 水晶小屋跡
 朝起きたら依然として風雨が強かった。昨日の残り飯で作ったオヤジ(ワンゲル用語でオジヤのこと)を腹に押し込んで、7時出発。いよいよ裏銀座の縦走が始まった。稜線に出ると強い風が吹きつけてきた。もはや風を遮る樹林はない。森林限界を超えた稜線上はハイ松が地を這っているだけである。
 三ツ岳付近の幅広い尾根を雨に打たれて黙々と歩く。風に吹かれて濡れた手先が冷たい。
 野口五郎岳は大きな山だった。水はけのよい砂礫の道は歩きやすかった。五郎池が右下に見えた。2924mの山頂は風雨強く、ガスで何も見えないのだから頂上を極めた感激はなかった。
 東沢乗越を過ぎ、赤岳の登りにかかると、同じ1年のO君が遅れだした。かなり痩せた尾根で、風に吹かれてフラフラ歩いているのでちょっと心配だった。
 午後2時、水晶小屋があるべき所に着いた。だが、どこを捜しても小屋はない。8月に来た時は確かに小屋があったのだが、とリーダーはしきりに首を傾げていた。土台の石組みは残っていたので、その後の台風で小屋が吹き飛ばされたのだろうということになった。結局、O君がバテているので三俣蓮華小屋までは無理と見て、小屋の跡にテントを張ることにした。風がビュービュー吹いているのでテントを張るのが大変だった。
 水もないので、スープとパンだけの淋しい夕食だった。
 シュラフにもぐりこんでからも、小屋も吹き飛ばされるほど風の強い所なので、ペラペラの夏用テントが破れないか心配だった。突風が来ると、テントの風上側がビューンと内側に膨らみ、シュラフに貼りついた。貼りついた所から雨水が滲みてくる。テントの両端に寝た者は支柱が倒されないように手で支えなければならなかった。僕は中ほどに寝ていたが、真っ暗なテントの中で突風が襲うたびに胸をドキドキさせていた。

蒼空に屹立する水晶岳、どっしり構えた鷲羽岳

10月6日(金) 水晶小屋跡 水晶岳往復 7:05 → 8:25 鷲羽岳 8:35 → 9:40 三俣蓮華小屋
 朝、起きると空に星が瞬いていた。
 パンと紅茶で手早く朝食を摂ると、サブザックで水晶岳往復に出発した。雲一つないコバルトブルーの空を背景に黒い山並みが朝日を浴びて色づき始めていた。僕らは自分たちの長い影と競争するように飛ばした。空身の足取りの何と軽いことか。水晶岳は海抜2978mの黒く引き締まった山だった。縦走路から外れているおかげで、俗塵から逃れ孤高を楽しんでいるような静謐な山頂だった。黒部の谷を挟んで薬師岳が大きく両翼を広げていた。間近に赤牛岳がのんびりと寝そべっている。昨夜の雨でものみなすべて汚れを洗い流したように澄みきっていた。僕らは感動で胸を膨らませながら、しばしこの素晴らしい時空を占有していた。
 深い満足感に包まれ、帰り道はトコトコと水晶を捜しながら歩いた。この山は一般的には黒岳と言われるようだが、僕にとっては断然水晶岳である。
 1時間で水晶岳を往復すると、キスリングを背負って縦走を再開した。いくつかピークを登り下りして、鷲羽岳の登りに差しかかった。どっしりとした大きな山が眼前に立ちはだかっていた。かなり急な登りだったが、登山者を意固地に阻むようなところはなかった。むしろ、「さあ頑張って登ってきなさい」と誘っているような登りだった。僕らは大いに登高欲をそそられ、斜面に取りついた。今日はみな元気で、着実に高度を上げていった。遂に鷲羽岳山頂に達すると、鷲羽池がひっそりと佇んでいるのが見えた。眼下に三俣蓮華小屋が俯瞰できた。ところが残念なことに、今朝あれほど澄み渡っていた空がいつの間にか灰色の雲に覆われてきて、四周の展望を阻害していた。小休止しただけで先を急がざるをえなかった。
 鞍部にある小屋に向かって、急斜面を右に左に折り返しながら、駆け下りた。途中、9時になった時、リーダーは気象係に天気図を書くように命じた。僕ら1年生はしめたとばかり臨時のタルミを楽しんだ。「うつりょう島、南西の風、風力3・・・」などというラジオの気象通報をぼんやりと聞きながら寝そべっていた。上空に雲がかかり、日が射さなくなっていた。リーダーは天気図を検討した結果、低気圧が接近しているので天気悪化は必定と判断し、今日は三俣蓮華小屋泊まりと決定した。僕は何はともあれ目先が楽になるのは大歓迎なのでシメシメと思った。うれしそうな顔をすると上級生にどやされそうなので、表面は残念そうな顔を繕っていた。
 三俣蓮華小屋まで来てみると、小屋番もいないので、さっそく使わせて頂くことにした。まだ9時40分だった。さっそく昼食の支度にかかった。小屋の傍を水が流れ、マキもあったので、久しぶりにまともな飯が食えた。昼食の後は、小屋に置いてあった実話雑誌の類を読みあさった。
 午後になると音もなく(当たり前だが)霧が押し寄せてきて、鷲羽岳も見えなくなってしまった。小屋は霧の海に沈んだ。
 夕方になって雨が降り出した。ゴロゴロと雷も鳴り出した。暗い小屋の中がピカッピカッと青白く浮かび上がる。屋根を打つ激しい雨音と地面を震動させる雷鳴を聞きながら、こんな時、テントだったらと思うとぞっとする。かなり傷んだ小屋だったが、何はともあれ、天井から雨が滴ることもないし、地面から水が上がってくることもない。僕らにとっては天国だった。
鷲羽岳 水晶岳
三俣小屋より鷲羽岳 三俣小屋より奧に水晶岳

槍ヶ岳山頂にブロッケンの妖怪を見る 

10月7日(土) 三俣蓮華小屋 8:55 → 9:35 蓮華への分岐 → 10:35 双六小屋 11:30 → 12:00 樅沢岳 → 12:45 硫黄乗越 → 14:10 2683M → 14:35 千丈沢乗越 → 15:50 槍ヶ岳肩の小屋 槍ヶ岳山頂往復
 3時半に起床すると、依然として強い雨が降っていた。小屋の中で食事を作り、朝食を済ませた。
 少し様子を見ていたが、幾分雨足が弱くなってきたので、9時前に出発した。昨日からの激しい雨で三俣蓮華岳の頂上から幾筋もの小川が流れ出していた。ハイ松の中につけられた道が沢になっている。山頂に降った雨は、北側に降れば黒部川となり、東側に偏れば高瀬川から犀川、信濃川となり、西に落ちれば最後は神通川となる。同じ雲から落ちた水滴が1mの違いで別の川になる。分水嶺は面白い。
 三俣蓮華岳への分岐を過ぎる頃から雨が小降りになってきた。雨に打たれるハイ松の風情もそれなりにある。淡々と続く縦走路を快調に飛ばす。ビニールの雨具がうっとうしかったが、気温が低いので何とか我慢できた。
 ポコッとした双六岳の頂上を捲くと、双六小屋への下りになった。双六小屋は大きくて立派な小屋で、登山者が沢山たむろしていた。双六池の回りにテントも見えた。ここで早めの昼食をとった。
 元気を取り戻して、樅沢岳の登りにかかった。相変わらずガスに包まれていたが、雨はほとんど上がっていたので、次の休憩で雨具を脱いだ。シャツだけになると少し肌寒かったが、気分がしゃきっとした。これでバリバリ歩けそうな気がした。硫黄乗越、2674m峰、2683m峰と着実に高度を上げて、千丈沢乗越を過ぎる頃には完全に雨も上がり、谷間の方から少しずつ視界が開けてきた。大きなスプーンでえぐり取ったような千丈沢が眼下に広がっていた。北鎌尾根の上部はまだガスの中だったが、中腹を紅葉で彩られた圏谷は、人間を引き込んでしまうような一種凄絶な美しさを持っていた。あの「風雪のビバーク」の松涛明さんが友の辺に命を捨てたのはどの辺であろうか。僕はしばし厳粛な気持になって、カールの淵を歩いていた。
 いよいよ槍ヶ岳への急登に取りかかった。さすがに手強い。上部はガスっていて何も見えないが、一歩一歩前の者に遅れないように足を運ぶ。急なザレ場になった。上に運んだ足に体重を移すと、ずるずると登った分の半分くらい落ちてしまう。エイッとばかり、しゃにむに登ると、「石を落とすな!」と後ろから怒鳴られた。突然流れるガスに隙間ができて、青い空が見えた。次の瞬間、真上に濃いグレーの岩峰がそそり立っていた。
「小槍だ!」  後ろの方で上級生が叫んだ。僕らは足を止め、不安定な足場をしっかりさせてから、思いきり首を上に向けた。白く流れる雲とイタリアン・ブルーの空を背景に、岩峰が天を突いていた。瞬間、小槍がゆらっと倒れかかってくるように見えたので、僕は慌てて目の前の斜面に手をついた。小槍の背後を流れる雲が錯覚を引き起こしたようだ。ちらっと振り返ると、岩峰に囲まれた急斜面に蟻のように貼り付いて上を見ている仲間の姿があった。今や小槍の背後に槍ヶ岳本峰も見えてきた。
 この時の小槍の出現ほど感激したことは滅多にない。黒い岩峰に囲まれた白い砂礫の急斜面、雨上がりの清澄な空、純白の雲、まさにアルペン的風貌だった。僕らは元気百倍してザレ場を登りつめた。肩の小屋が見えてくると、ますますピッチが上がった。3時50分に肩の小屋に着いた。さすがに人が多かった。
 リーダーが小屋の主と交渉して、物置小屋に泊めてもらうことになった。今日も小屋泊まりとは豪勢だ。
 それから空身で槍ヶ岳に登った。急な岩稜だったが、鎖などもあり、僕らは喜々としてよじ登った。最後の岩をよじるとひょっこり頂上に出た。遠くから見ると針のように尖っている槍の先端はちょっとした広さだった。数名の先客がいた。みな静かに暮れなずむ山々を見回していた。上空はすっかり晴れ上がり、西方には笠ヶ岳がピラミダルなシルエットを刻み、遙か遠くに「長鯨のように」と例えられる白山が見えた。南に目を転ずれば、穂高が戦艦のようにどっしりと構えていた。その圧倒的な迫力に息を飲んだ。東には常念岳が雲の中に見え隠れしていた。北方はまだ雲の中にあった。
「あっ、ブロッケンの妖怪だ!」
誰かが叫んだ。僕はびくっとしてみなの視線を追った。背後の谷を埋めた霧の上に、三角形の影と、その頂点を丸い虹のような輪が囲んでいた。自分の影に後光が差しているような感じだった。夕日に顔を染め、僕らは飽きずに四周の荘厳な眺めに見入っていた。

徳本峠から見た穂高は絶景だった

10月8日(日) 肩の小屋 槍ヶ岳往復 9:20 → 9:40 殺生小屋 → 11:15 槍沢小屋 → 12:30 一ノ俣 → 横尾 → 徳沢園 → 徳本峠 → 22:30 島々
 
 翌朝もう一度槍ヶ岳に登った。今日は快晴で風もなく、まったく爽快である。360度の眺望をほしいままにした。こんな時は本当に山に来た喜びを感じる。また来ることを誓って、潔く山頂に別れを告げた。
 槍穂の縦走はできなかったが、それは次の楽しみにすればよい。僕らは軽くなったキスリングをひょいと担ぎ、槍沢の急斜面に飛び込んだ。何と気持のよい沢だろう。ぐんぐんと回りの尾根がせり上がって行く。いつの間にかちょろちょろと水の流れが始まっていた。槍沢の源流だ。いつの間にか沢の水は岩の上をほとばしる流れになっていた。僕らは槍沢の水と競争するように走り下った。裏銀の縦走を終えて、いっぱしの山男になったような高揚した気分がピッチを早めた。
 一ノ俣で昼食を取った。ここで徳本越えをする者と、上高地に下る者に別れることになった。僕はまだ十分元気があったので、徳本越えを希望した。結局、Tリーダー以下6名が徳本に向かうことになった。上高地組に見送られ、徳本越えチームは勇躍出発した。島々で松本行きの最終電車に間に合うように初めから駆けるようなピッチで走り出した。横尾、徳沢園、白沢出合と順調にピッチを消化した。徳沢園の緑の草原は気に入った。明るい樹林、梓川の清流、林の中の小さな流れにはイワナの影が走る。梓川沿いの歩道はまことに気持がよい。
 白沢の手前で左に折れ、徳本峠への登りにかかった。トップの2年生は登りにもかかわらず駆けるような勢いだ。僕は体を前に倒すようにして必死についていった。1ピッチで徳本峠についた時、つるべ落としの秋の日が暮れかけていた。徳本峠から振り返る穂高の稜線は素晴らしかった。茜色の空にシルエットになった前穂から奥穂の鋭い岩稜は心を揺さぶるような神々しさだった。上高地に車が入るようになって、ほとんど通る人もいなくなった峠に佇んで、古の岳人に思いを馳せた。島々から峠を登って、初めて穂高を目にした時の感動はどのようなものであったろうか。
徳本峠
徳本峠より穂高岳を望む

 ゆっくりはしていられない。穂高に別れを告げ、一路峠を下り始めた。いわな留小屋を過ぎる頃にはとっぷりと日が暮れていた。長い長い島々谷南沢の下りだった。懐中電灯の灯りでは無闇に飛ばすことはできない。沢の音を間近に聞きながら、細い道を慎重にたどった。島々谷本流に合流したと思われる地点で、沢に下りて流れの方向を確かめ、再び歩き出した。時間がどんどんたってゆく。ようやく谷が開け、砂利道に出た。重い足を引きずるようにしてペースを上げた。ブーンという不気味な音を出している発電所の傍を通ったが、人の気配はない。なかなか人家の明かりが出てこない。しかしどんな道にも終わりがある。ようやく島々の街の明かりがぼんやりと闇に滲み出てきた。寝静まったような街の中を急ぎ、遂に松本電鉄の島々駅に着いた。しかし、すでに最終電車は出てしまっていた。10時半だった。
 駅前の店はもう閉まっていて、一杯のソバにもありつけなかった。仕方がないので、残っていたパンをかじり、水道の水を飲んで、空き腹をなだめた。それから真っ暗な待合室にシュラフをひろげて寝た。
 この日歩いた距離は水平距離でも30kmを越える。3180mの槍ヶ岳山頂から、1550mの梓川まで下り、そこから2135mの徳本峠を越えて、800mの島々まで下りた。累計高度差はおよそ3550mだった。僕が一番長く歩いた一日だった。
 翌朝の始発電車で松本に向かい、松本で駅弁を買った。その弁当が美味かったことは言うまでもない。

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