御岳、朝起きたら池の中

1961年10月

御岳 中央アルプス
開田高原より御岳を望む 御岳山頂より中央アルプスを望む

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列車にザックを置き忘れ

10月14日(土) 東京 23:00 → 
10月15日(日) 6:25 岐阜 → 9:32 下呂 → 12:30 大林 → 15:20 観音ダワ → 17:46 上田俣出合付近
 10月中旬、ワンゲルの秋合宿で御岳に登った。各隊に別れて御岳や乗鞍に登り、最後に開田高原に集中する方式で、僕は御岳岳の湯コースに属していた。
 一行30名は、東京駅に集合し、23:00発の夜行列車に乗り込んだ。翌朝、岐阜で高山線に乗り換えた。車窓には、木曽川、飛騨川、益田川と常に川の流れがあった。中山七里に差しかかると、山深い感じの谷間となり、「ああ、また山に来ることができた」という喜びが湧いてくる。
 下呂駅に着き窓からザックを運び出した。停車時間が短いので戦場のような騒ぎである。ようやく運び出し、各自が自分のザックを担ぎ始めると、上級生のFさんのザックがなかった。列車はもう走り出していた。結局Fさんは高山までザックを取りに行くことになった。ウスい連中が揃っているワンゲルではよくあることだった。僕たちは近くの公園で早めの昼食を取りながらFさんを待つた。
 11時にFさんが戻って来たので出発した。益田川を渡り、沢沿いの道に入った。段々畑が続き、赤い実をつけた柿の木がいかにも山里の秋らしかった。ヒノキ林を登って、大林という村を過ぎると、いつの間にか畑も消えて、しっとりとした山道になった。高度を増すにつれて黄色く色づいたモミジが現れてきた。観音ダワという峠を越えると、さっと涼しい風が吹いてきた。
 峠を下り始めると鬱蒼としたヒノキ林となり、林用軌道が現れた。上田俣と下呂俣の出合で橋を渡り、河原にテントを張ったのは6時近くになっていた。すぐに暗くなったが、流木が沢山あったので炊事は順調だった。
登山開始
下呂駅より登山開始

名もない峠を越えるのもワンゲル流

10月16日(月) 泊地 5:45 → 6:30 鹿山筋谷 → 7:30 若栃谷出合 → 8:30 落合 → 12:30 倉ケ平
 霧の立ちこめる鹿山筋谷を下流に向かった。大洞川と合流し、流域の部落を次々に通過して、濁河川との合流点落合に着いた。高山線の飛騨小坂から落合までは6km、歩いても1時間ちょっとである。わざわざ遠回りして、峠を一つ越えてくるのもワンゲルらしい。
 落合から濁河川に沿って御岳への長い登りとなった。右岸に物凄い絶壁、ガン立てが見える。紅葉を散りばめた絶壁の遙か下に、急流が白いしぶきを上げていた。素晴らしい渓谷美だ。原八丁に御岳1合目の標識があった。樅や白樺に囲まれた明るいススキの原が続く。原が尽きる辺りが追分で、ここから小坂登山道へ入った。2合目近くに倉ヶ平苗畑があり、ヒノキの苗がびっしりと植えられていた。そこでキャンプすることになったが、国有林の中なので営林署の許可を貰うのが一騒動だった。
中央アルプス
炊事当番(大鍋と飯ごうで食事の支度)

御岳山麓の森林は美しい

10月17日(火) 泊地 4:40 → 5:50 三合目 → 7:40 4合目 → 10:50 5合目 → 12:55 6合目 → 13:30 岳ノ湯
 今日は2時起き。懐中電灯を頼りに飯の支度をする。4時40分、まだ暗いうちに歩き出す。御岳の山裾をほぼ等高線に沿って林道が続く。3合目を過ぎると、道路は行き止まりになって、その先は工事中だった。少し戻ると細い登山道が山側についていた。鬱蒼とした闊葉樹林帯の山道になった。次第に霧が払われてきて、コバルトブルーの空を背景に、ダケカンバの白い幹と、黄色い葉がくっきりと浮かび上がってきた。これほど美しい森林を歩くのは初めてだった。
 4ピッチで石楠花沢についた。座り心地のよい岩の上に腰を下ろし、楓の紅葉を眺めながらの昼食は最高だった。
 倒木が増えてきた。まだ裂け目も生々しい伊勢湾台風による倒木である。大きな木に道を塞がれると越えるのが大変だ。下を潜ったり、上を乗り越えたり、ヤブを漕いで回り道をした。何本も折り重なるように倒れていると、ようやく乗り越えても、その先の道を探し出すのに一苦労だった。
 ようやく倒木帯を脱し、沢を渡った6合目で2回目の昼飯をとった。沢は温泉の成分が混じっているのか濁っていた。
 この沢に沿ってしばらく登ると、バス道に出た。継子岳から摩利支天山に続く御岳の山頂部が見えてきた。大きくてどっしりとしている。あの山に登るのだと思うと、俄然元気が出てきた。コメツガの林を抜け、濁河御温泉を通り過ぎ、湯ノ谷の滝を見ながら吊り橋を渡ると岳の湯だった。かまども水もある格好のテントサイトがあった。付近の紅葉は今が盛りで、赤、黄の原色が織りなす美しさは譬えようもなかった。
 夕食後、暗闇の中で無人の温泉にはいった。何とも幸せな気分だった。

御岳頂上は霧の中

10月18日(水) 泊地 5:20 → 5:40 7合目 → 7:25 8合目 → 8:50 飛騨山頂 → 9:50 三の池 → 11:05 二の池 → 11:20 御岳(剣ヶ峰)頂上 12:35 → 13:40 三の池
 今日は御岳に登る日だ。張り切って出発。1ピッチ行った所で薪を拾ってザックの上に括りつけた。頂上付近には薪がない。ぐんと重くなったザックに喘ぎながら一歩一歩登って行くと、だんだん木の丈が低くなってきた。8合目のお助け清水を横目に睨み、ハイ松の間を登るようになると、摩利支天が覆い被さるように迫ってきた。赤茶色の山肌にざらざらの溶岩の道がつづら折の模様を刻んでいる。1年の2名が遅れ始めた。他人の不調を喜ぶのは卑小な精神だが、誰かが先にバテると余裕が出てくるのは事実である。吸い込まれるような濃紺の空、山腹を彩る紅葉、広闊な緑の裾野、何と大らかな山だろう。冷たい風が汗ばんだ顔に心地よい。
 8時50分、遂に飛騨頂上についた。左手の高みに小屋があり、右下に小さな五の池があった。池の畔で昼食。日が照っているのに、じっとしていると寒くなってくる。さすがに3000m近い高所である。ヤッケを出して羽織る。砂礫とハイ松と青い空。池の面のさざ波がキラキラと輝いている。向かいには中央アルプス、南アルプスの長大な稜線が朝靄の上に紫のシルエットを浮かべていた。
 昼食後、摩利支天の裾を回ると、大きな窪地の中に三の池が見えた。青くてきれいな池だった。池に下り立つと、風が遮られ幾分暖かく感じた。三の池小屋は潰れていて使えないので、池の傍にテントを張った。
 設営がすむと、御岳の最高峰である剣ヶ峰に向かった。サブザックは軽く、足取りも軽い。急でガラガラとした悪場を100mほど登ると、その向こうにサイの河原が広がっていた。大小のケルンが林立する異様な景観だ。この時、忍び寄るように白いガスが近づいてきて、たちまちベールのような霧に包み込まれてしまった。ぬっと現れるケルンが妖怪のように見えてくる。サイの河原の奥に二の池があった。霧に覆われたコバルトブルーの水面は神秘的だった。ここから剣ヶ峰への尾根に取りつき、最後の急斜面をつめ、神社の狭い階段を駆け登ると、御岳本社奥宮にある山頂に出た。
 3064mの頂上は霧に包まれ、まったく眺望はない。御岳に登ったという満足感だけを胸に三の池のキャンプサイトに戻った。雨がパラパラ降りだしていた。早めに夕食を済ませ、暗くなるとシュラフに潜り込んだ。

目が覚めたら池の中に寝ていた!

10月19日(木) 泊地 8:00 → 9:00 7合目小屋 → 14:10 恩田原
 夜半、風雨が強くなってきた。ポールがきしみ、テントがバタバタ鳴っている。明け方近く、妙に冷たい感覚にビクッと目が覚めた。手探りで確かめるとシュラフが水に濡れていた。慌てて飛び起き、懐中電灯をつけると、テントの中を水が流れていた。みんなごそごそ起きだした。とても寝ていられないので、シュラフを丸め、その上に腰を下ろして夜明けを待った。ぼんやりテントの内が見えてくる頃には5cmほど浸水していた。外に出て見て驚いた。テントは池の中にあったのだ。昨夜は平らな砂地で寝心地がよいと喜んでいたのだが、窪地の一番低い所だったので雨が降れば池になるのは当然だった。
 激しい風雨だったが、すぐに下山することになった。僕もこんな所でびしょ濡れのまま停滞する気にはなれなかった。テントを撤収し、濁った水の中から手探りで食器や軍手を探し出し、ザックに荷物をぶち込んだ。水を吸ったシュラフは鉛のように重くなっていた。急いでパンをかじると、倍も重くなったザックを背負って三の池を後にした。視界は20mもない。横殴りに叩きつける雨風に足元をふらつかせながら、開田口登山道の岩だらけの急斜面を必死に駆け下りた。やがて低木帯に入り、1時間もすると喬木に囲まれた7合目の避難小屋に辿りついた。あばら屋のような小屋だったが、何ともありがたい小屋だった。かまどがあったので、薪を燃やし、飯を作った。暖かいミソ汁を飲んでようやく人心地がついた。それから薪を盛大に燃やし、濡れたものを乾かした。シュラフを火に近づけると、勢いよく湯気が出てきた。黒く濡れた部分が少しずつ消えてゆく。今夜は乾いたシュラフに寝られそうだ。シャツからも湯気が出ていた。
 すっかり元気を回復し、集中地に向かった。いつの間にか薄日も漏れてきた。2時間半ノンストップで飛ばし、次第に鮮やかになる紅葉に目を奪われながら、開田高原恩田原のキャンプサイトに着いた。

その頃の開田高原

 恩田原付近は戦時中に開拓した村だが、雑穀しか育たないので農家の生活は苦しく、ほとんどの家がいまだにランプ生活を送っていた。朽ち果てた廃屋は開拓の夢破れた人々のものであろうか。御岳を仰ぎ見る美しい開田高原は、日本のチベットともいわれる未開の地でもあった。僕らの大集団は村の採草地にテントを張らして貰ったが、村の人々は本当に親切だった。僕らはその厚意に感謝するとともに、開田高原の美しさが世に知られ、村の発展につながることを願わずにはいられなかった。
 後年、筆者は不動産銀行名古屋支店に勤務したが、支店のビルの屋上から御岳が見えた。筆者は晴れた日の昼休みには好んで屋上に昇り、遙かな御岳を飽きずに眺めたものである。ある年、支店の仲間と春まだ浅い開田高原に遊んだことがある。快晴に恵まれ、真っ白に雪を被った御岳が眩しかった。広闊な高原は瑞々しい新緑に溢れていたが、農家に人影はなく、早春の冷たい風が微かに吹いているだけだった。

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