憧れの月山春スキー
1962年6月
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姥ケ岳、後方は朝日連峰 |
格好良く滑ってテレビ出演
6月7日(木) 上野 23:30
6月8日(金) → 6:16 山形 6:43 → 7:32 羽前高松 → 8:10 間沢 → バス 志津 9:00 → 10:45 金山平 → 12:00 姥沢つた小屋
月山、鳥海山は春スキーのメッカである。その年スキーを始めたばかりの僕は、ワンゲルで月山行きの企画が発表されるとすぐに飛びついた。山にも登れ、スキーもできる一石二鳥の山行だった。6月7日の夜、上野駅に集まったのはリーダー以下4名で、合宿と違って少人数の気楽なパーティーだった。
翌朝、山形で左沢線に乗り換え、さらに私鉄とバスを乗り継ぎ、登山口の志津に着いた。さっそく荷物を担いで歩き始めた。ザックにスキーを括り付けると30Kgの重さになる。小さな水芭蕉が咲いている五色沼を半周し、「清水コース」の指導標に従い山道に入る。いつしか雪道になっていた。一杯清水の小屋を過ぎて1時間ほど汗を流すと、開けた尾根に飛び出した。金山平である。泥と落葉で汚れているが十分スキーができる積雪だった。尾根をさらに1時間登ると、右下の沢沿いに姥沢小屋が見えてきた。手前にあるつた小屋のおばさんに頼んで、裏庭にテントを張らせてもらった。
昼食の後、さっそくスキーを取り出し、姥沢小屋の上の斜面で練習を始めた。すると、NHKのテレビ・カメラマンと称する男が近づいてきて、「サクランボの里のなんとか」という番組のために、滑っているところを撮影させてくれといってきた。格好良く滑っていたのが目に留まったのだろうと勝手に解釈し、快く協力を申し出た。もっとも選ばれたのは僕らだけではなく、近くで滑っていた数人のグループと一緒だった。それからカメラマン氏の注文に従って何度か滑り直した。僕らは部の連中に自慢の種ができたと鼻高々だった。だが、後日テレビで放映されたのは1カットだけで、豆粒のような集団が滑ってきて、あっという間にカメラの前を通り過ぎてしまい、自分の姿さえ見分けることができなかった。当時はビデオもない時代だったので、僕の記念すべきテレビ初出演は一瞬のうちに消え去ってしまった。
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姥沢小屋の前でスキー練習 |
月山に登り、姥ヶ岳を大滑降
6月9日(土) つた小屋 7:20 → 8:30 金姥と紫燈森鞍部 → 9:25 月山 10:00 → 11:20 姥ケ岳 → 12:05 つた小屋
サブザックに昼食、雨具を詰め、スキーを担いで月山に向かった。どんよりとした雲に覆われ、姥沢を登っているうちに雨が降り出した。姥ヶ岳の東斜面をトラバースして、金姥と柴燈森(さいとうもり)の鞍部に出た。雪の消えた夏道を登り、牛首にスキーをデポして、35分で鍛冶小屋、さらに10分で1980mの月山頂上に立った。山頂には月山神社があって、古くからの信仰の山であることをうかがわせた。鉛色の雲が空を埋めていたが、地平の近くにわずかに視界を残していた。柔らかく雪をまとった姥ヶ岳の先に、黒と白の線が厳しくせめぎ合う朝日連峰が見えた。雨のそぼ降る山頂には誰もいない。じっとしていると寒いので引き上げることにした。デポ地に戻り、スキーをつけた。四谷川の上までトラバース気味に滑る。所々アイスバーンもあり、気の抜けない所だった。鞍部でスキーをはずし、ステップ・カットで姥ヶ岳に直登し、広々とした頂上で昼食にした。
いよいよ今回山行の白眉、姥ヶ岳の大滑降である。上部は幅2〜300mもある豪快な斜面だ。雪質もよい。大きなパラレルで大斜面を思う様に滑るのはまことに痛快であった。幅が狭まった急斜面は慎重に降りたが、それでも20分もしないうちに姥沢小屋に着いてしまった。
午後は雨の中でスキー練習をした。一度急斜面で転び、4〜50m滑落した。ビニールの雨具が滑って全然止まらず、なす術もなく流されていくのはあまりいい気分ではなかった。下が平らになっていたので助かったが、雪山で滑落して死ぬ人も同じような気分を味わっているのだろうかと少々怖い思いをした。
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月山山頂に向かう(スキーをデポ) |
月山山頂に向かう |
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月山頂上の神社で |
大満足のシーズン滑り納め
6月10日(日) つた小屋 12:30 → 13:10 金山平 → 14:25 志津 15:00 → 16:10 間沢 → 6月11日(月) 5:30 上野
午前中、飽きもせずにスキーをして、シーズンの打ち止めにした。
天候には恵まれなかったが、期待に違わぬ月山春スキーだった。
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