スキー講習で美ヶ原へ

(1963年3月)

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シールを着けて山本小屋へ

 3月6日、私は美ヶ原で行われるワンゲルのスキー講習会に参加した。「登山」という意識がなかったせいか山行記録が残っていない。ただ五万分の一地形図「和田」の中央部に武石川上流部の「巣栗」から尾根伝いに美ヶ原まで赤線が引いてある。私は登山後に踏破した道筋を地図上に赤インクで記すことにしていたからそれが残っている唯一の記録である。総勢40名ほどの参加者は上野発の信越線夜行列車に乗った。翌朝上田駅かその近くの駅からバスに乗り「巣栗」まで行ったようだ。そこから横沢の西側の尾根を夏道から離れてシールを付けて登った。前年の暮に志賀高原の高天原で1週間のスキー講習合宿を行っていたので、1年生もシールを付けての登りは経験があったので、美ヶ原山頂の一隅にある山本小屋まで快調に登ることができた。深田久弥『日本百名山』が世に出たのは翌年の1964年夏のことだから、私は「百名山」と知らずに美ヶ原に登っていたことになる。 
 このスキー講習会は3月下旬に行われる尾瀬でのスキー合宿に備えて1年生のスキー技術をさらに向上させることが目的だった。山本小屋は戦前からある立派な山小屋だったが、本館とちょっと離れた所にカマボコ兵舎のような別館があった。我々一行はそこで荷を降ろした。
 ワンゲルの冬期活動は私が入部した頃からスキーワンデルングが中心になっていた。ゲルピン学生の多い東大だからできるだけ安くスキーをすることが絶対条件だった。スキー用具は一番安い物を共同購入で2割引きで調達した。寝泊まりは高天原にある夏用のバンガローを1泊100円で利用させてもらった。暖房のない四畳半のバンガローに十数人が詰め込まれた。屋外の共同炊事場で食事を作りバンガローに運んで食べた。食事当番になって吹きさらしの炊事場で食事を作るのは結構な苦行だった。寝るときは持参したすべての衣類を着込みシュラフに潜り込んだが、室温が零下15度になることもあり、あまりの寒さによく寝られなかった。それに比べると山本小屋の別館は薪ストーブがあり、広くて、まるで天国だった。練習もリフトを使わずもっぱら階段登高で登っては滑るという繰り返しだった。そういうチープに徹したスキーだったからゲルピンの学生が当時はまだブルジョワスポーツといわれていたスキーを楽しむことができたわけである。
 翌日から付近の斜面で講習が始まった。各班10人程度に分けて講習を行ったが、指導は先輩部員が行った。私はスキーが上手い方だったので2年生だったが班のリーダーとして教えることになった。1年生はボーゲン、シュテムボーゲンができる程度だった。ワンゲルではスキーはあくまでも雪原を移動する手段であるから斜滑降、キックターン、ボーゲンができれば十分という者が多かった。しかし私はシュテムボーゲン、シュテムクリスチャニアができるようになればより楽に素早く雪の原野を移動することができると思っていたから、最初に急斜面でボーゲンを練習させた後、シュテムボーゲン、シュテムクリスチャニアとより高度の技術を教えていった。3日目には1年生の滑りも大分様になってきた。私は調子に乗ってシュテムクリスチャニアで滑り出し次第に回転を速めてシュテムギルランデに移行する見本を示し、ウェーデルンへのアプローチとして有効な練習であると説明した。実際問題として重い荷物を背負ってパラレルで滑るのはかなり難しいが、パラレルでスピードをコントロールした方が、必死に太股を踏ん張ってスピードを抑えるボーゲンより遥かに疲れないのは確かである。
 夕食後は班毎にミーティングをした。私は恋愛論やら人生論などを話題にして皆で自由に語り合ったので大いに盛り上がった。そういう軟派の話題でわいわい騒いでいるとワンゲル原理主義の先輩からは顰蹙を買いそうだったがあまり気にしなかった。
 最終日に山本小屋から美しの塔、王ヶ頭に足を伸ばした。美ヶ原の山頂部は正に「原」だったからさして起伏はなく、平地滑走の練習にもなった。あいにく曇っていて北アルプスの眺望が得られなかったのは残念だった。
 3月12日、スキー講習を終えて下山した。登りに汗をかいた分、長い距離を滑ることができ快適だった。1年生の技術も向上したので順調に下った。高度が下がるにつれ雪質は重くなり次第に滑りにくくなってきたが、遂にゴールのスキー場が見えてきた。後はスキー場のゲレンデを滑るだけだった。斜面の右側で乗客のいないリフトがカラカラと動いていた。滑っているスキーヤーもほとんど見当たらず、我々の一行はゲレンデを自由に滑れそうだった。先頭の2年生はスキー場のゲレンデという安心感もあったのか斜面の幅い一杯に大きな弧を描きながら滑り始めた。ザックを背負って一列になって滑るのはなかなか壮観だ。スピードも出ていた。ゲレンデを半分位降りてきたとき、列の前の方にいたHがバランスを崩して転倒した。足首を捻挫したようだ。私は「しまった」と思った。もう少しで無事に講習を終える所だったのに事故を起こしてしまった。私はHの側に行って様子を見た。幸い軽い捻挫で済んだようで一先ずほっとした。Hの締め具は「カンダハー」で転んでも靴がスキーから外れず怪我をしやすいのだ。私は直前にスキーを買い換え、締め具も「チロリア」のセーフティーにしていたが、1年生はほとんど安価な「カンダハー」だった。安全のためにはセーフティーにすべきだが金がかかるので強制するわけにもいかず頭が痛いところだった。私はHの締め具をはずし立たせてみると何とか歩けそうだった。しかし雪の上をびっこを引きながら歩くのは相当難儀である。時間もかかりそうだ。20メートルほど横を雪面すれすれにリフトが動いていた。私はHをリフトに乗せて運べないかと思った。先輩がリフト乗場まで滑っていってリフト乗場の係員と交渉すると係員はリフトを止めてくれた。私はHのスキーを肩に背負い、もう一人がHの荷物を運び、空身になったHはストックを頼りに一歩一歩リフトに向かって歩いた。リフトの座面は雪面より1.5メートルほど高くそのままでは飛び乗れそうもなかった。そこでリフトの真下にザックを二つ重ね、それを踏み台にしてHは座席に座ることができた。私が合図するとリフトが動き出した。リフト乗場で先輩が待っていてHを安全に降ろしたのが見えた。
 それからみんなでHをサポートしてバスで信越線の駅まで行き列車に乗った。上野駅で解散し、私はタクシーでHを自宅まで送った。捻挫をして帰って来たHにご両親はびっくりしていた。怪我を防げなかったことをリーダーとして丁重にお詫びした。
 私は電車を乗り継いで自宅に向かいながら暗い気持になっていた。隊員を無事に帰すことがリーダーの最大の務めであることを痛感したスキー行だった。 

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