白山、黒ユリの秘密
(1963年6月)
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白山山頂の祠にて |
何たる贅沢、露天風呂つきテント泊
6月27日(木) 東京 23:00
6月28日(金) 10:00 美濃白鳥 → 12:15 平瀬白山登山口 → 14:15 水路取入口 → 16:35 ワリ谷 → 16:55 白水滝 → 17:20 大白水谷(テント泊)
槍ヶ岳に初めて登った時、暮れゆく西の空に一つの山脈が浮かんでいた。ガイドブックで「長鯨」と例えられた加賀の白山だった。確かに海に浮かぶ巨鯨のおもむきがあった。その姿に魅せられて、いつか登ろうと思った。
ワンゲル3年目の初夏、白山行きの企画があり、念願がかなうことになった。
温厚なMさんをリーダーとする7名のパーティーは東京駅から夜行列車に乗った。翌朝、岐阜で高山線に乗り換え、さらに美濃太田で越美南線に乗り換えた。沿線の水田は緑に埋め尽くされている。美濃白鳥で列車を降り、バスで白山登山口に向かった。
御母衣ダムの堰堤を過ぎて、高さ131mの巨大なロックフィルダムを横目に、バスは谷底に下ってゆく。もしこの岩屑が崩れたら、と余計なことを考えてしまう。バス道が川底まで下りると、ほどなく白山登山口に着いた。
バスが去ってゆくと途端に静寂が訪れた。しばし文明から隔離された時間を送ることになる。一列縦隊になって、庄川支流の大白川沿いの林道を登り始めた。ブナやトチなどの原生林に囲まれた12kmの道のりをひたすら歩くと、大白川温泉に着いた。温泉といっても旅館などはありはしない。湯谷はダムの工事が進んでいた。僕らは飯場跡にテントをはった。板きれがそこらじゅうにあったので、炊事に苦労はしなかった。ずっと梅雨空だったが、雨は降らず、夕方には幾分明るくなってきたような気もした。近くに露天風呂があったので、汗を流した。テント住まいも温泉付きとなるとまことに豪勢だ。
黒ユリは恋の花
6月29日(土) 泊地 6:05 → 9:50 稜線 → 11:45 室堂 → 12:18 御前峰 → 13:40 大汝峰 → 14:40 釈迦新道分岐 → 15:00 北竜ケ馬場(テント泊)
谷間はもやっていたが雨は降っていない。元気よく登山道に取りつき、ブナ林の中を登る。しっとりとした山道は木の香も心地よい。3ピッチも登ると、ダケカンバが多くなり、やがて大倉山に出た。ちょうど霧が晴れてきて、ハイマツの緑と雪渓の白に塗り分けられた白山が姿を現した。頂上はガスに包まれていたが、僕らは雪渓の傍に腰を下ろし、なだらかな斜面を飽きずに見上げていた。アルプスの麓にいるような牧歌的な眺めだった。
森林限界を超え、カンクラ雪渓を見ながら高度を上げると、1時間半で室堂に出た。ガスの中を40分も登ると、標高2702mの御前峰に達した。数人のパーティーが寒そうにしていた。念願の白山であったが、眺望には恵まれなかった。
大汝峰を経由して、北竜ヶ馬場に向かった。この辺りは一面のお花畑である。道々、ハクサンイチゲ、ミヤマダイコンソウ、ハクサンコザクラ、イワカガミ、アオノツガザクラなどたちまち10指に余る花をあげることができた。
「あっ、黒ユリだ」
僕がめざとく道端の斜面に黒ユリを見つけた。みんなが寄ってきた。小さくて黒っぽい花が下を向いている。ガイドブックには「可憐な花だが異臭がする」と書かれていた。
「どんな匂いがするのかな」
好奇心旺盛な僕は鼻を近づけてみた。
「うっ」
僕は声にならぬ声を上げた。
「どんな匂いですか?」
興味津々で僕の様子を見ていた下級生が聞いた。僕は、自分で嗅いでみろと身振りで示した。みんな代わりばんこに身を屈めて黒ユリの匂いを嗅いだ。一様に困惑の表情を浮かべていた。
「なるほどな」
リーダーの一言でみんな納得して、また歩き始めた。誰も口にはしなかったが、黒ユリの匂いは紛れもなく精液の匂いだった。淀君がこよなく愛したというのも、黒ユリが恋の花といわれるのも、何となく分かるような気がした。
北竜ヶ馬場は開けた草原で、絶好のキャンプサイトだった。ハクサンイチゲやミヤマダイコンソウが咲き乱れる天上の楽園だった。テントを張ってからすぐ近くの雪渓でグリセードやストップの練習をした。
夕食もすみ、辺りが暗くなる頃、雷鳴が聞こえてきた。食器の後片付けを始める頃には稲光と雷鳴の時間差が短くなってきた。ザーッと大粒の雨が降りだしたので慌ててテントの中に入った。ピカッ、バシンとかなり近くに雷が落ちて地面が小刻みに振動した。心臓が飛び上がった。付近で一番高い物はテントだった。テントの支柱を外すことにし、雨具を着てからみんなでポールを分解し、ピッケルやラジウス、食器などの金属類を抱えて20メートル程離れた石の側にまとめて置いた。僕がしんがりになってテントに戻り潜り込もうとした時、グシャーというような凄まじい音がして、真横に稲妻が走り、50mほど離れた岩の上に落ちたように見えた。僕は前後の見境もなくテントの中に飛び込んだ。すっぽり雷雲に包み込まれ、上からも横からもピカッ、ガラガラ、ピカッ、ガラガラと鼓膜を破りそうな音と光が跳梁した。「できるだけ姿勢を低くしろ」とリーダーの切迫した声が飛んで、みんなグランドシートの上に腹這いになった。耳を塞ぎ目をつぶって雷の通り過ぎるのを待った。2〜30分もしただろうか、さしもの雷も少しずつ東の方に遠ざかっていった。みんな少し元気になって雷鳴が完全に消えるのを待った。しかし、雷は鳴りやむどころか少しずつ音が大きくなっているような気がした。雷鳴は西の方から聞こえてきた。第2波の雷雲が近付いてきたのだ。第2波は第1波よりさらに凄いものだった。ひっきりなしに落ちる雷に生きた心地がしなかった。1km以内に何発も落ちて地べたが震動した。バケツをひっくり返したような雨はグランドシートの上を流れ、水の中で腹這いになっていた。ようやく雷は去り、雨も上がったのは11時を過ぎていた。
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北竜ケ馬場 |
ハクサンイチゲ |
楽々新道とはブラックユーモアか
6月30日(日) 泊地 6:25 → 7:15 清浄ケ原ヒュッテ → 8:15 楽々新道分岐 → 8:45 薬師山 → 11:00 岩間温泉 → 12:50 岩間温泉 → 12:50 岩間温泉口 → 15:00 尾添 17:20 → 18:22 白山下 → 野町 → 金沢
昨夜の雷でみな寝不足だったが、起床してから2時間ちょっとで出発した。1年生も頑張っている。七倉山を通って、急坂を下ると、広々とした清浄ヶ原の一角に出た。アオモリトドマツに囲まれた静かな尾根道が続く。樅ヶ丘から楽々新道を下った。しかし、この道が長かった。「楽々」とはまったく冗談がきつい。じめじめとした樹林帯の下りが延々と続いた。薄暗いブナとナラの林の中にひっそりと咲くゴゼンタチバナにわずかに心を慰められた。
ようやく林道に出て、なおもひたすら歩く。時折、驟雨が通り過ぎる。田圃の青い苗が瑞々しい。歩きに歩いて、北陸鉄道の白山下に辿り着いた。
北陸鉄道の終点、野町からバスで金沢駅に出た。すっかり暗くなっていたが、バスの窓から見る柳の並木に古都の風情を感じた。
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白山稜線 |
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