人生折々の丹沢山(1959年〜2013年)

 
丹沢山と蛭ヶ岳
塔ヶ岳より丹沢山、蛭ヶ岳を望む(2013年6月撮影)

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初めての丹沢は塔ヶ岳

(1959年8月)

 私が初めて丹沢に登ったのは高校2年の夏休みだった。同級生のS君の兄が大学山岳部員だったので私たちを山に連れて行ってくれたのだ。私は母に頼んでキャラバンシューズを買ってもらった。何の知識もなく地図も持たずにただS君の兄の指示に従って山道を登り始めた。S君の兄が「これから大倉尾根を登るが馬鹿尾根ともいわれている」と教えてくれた。登っているうちにその意味がよく分かった。ひたすら真っ直ぐに続く急な登り道だ。まさに「馬鹿」が付くほど愚直で単調でくたびれる尾根道だった。日頃運動をしていない進学校の生徒たちは炎天下の登りにヒーヒーいったが、何とか山頂に辿り着いた。私は何ともいえぬ快感を味わっていた。山頂というのはもうこれ以上登らなくていいという苦行からの解放であり、何よりも遮るものがない眺望が素晴らしかった。S君の兄が周囲の山の名前を教えてくれた。私は颯爽としたS君の兄のリーダーぶりと、皮製の登山靴とニッカーポッカ姿が格好いいと思った。
 帰りは同じコースを戻った。重力に逆らわないのでスピードは出るし下りは楽ちんだと思った。しかし下るに連れて太股の上の筋肉に疲労が貯まってきて、膝がガクガクしてきた。立ち止まってしまう仲間もいた。S君の兄は「山では下りの方が大変なんだよ」といって休みをいれてくれた。
 最後は少しきつかったが私自身はブレーキにならなかったので案外山には登れるのではないかと思った。大学にはいったら山登りのサークルにはいろうと心に決めた。私が山に入れ込むきっかけとなった山、それは丹沢山だった。

二度目は塔ヶ岳から丹沢山へ

(1971年11月)

 支店勤務を終えて東京に戻ってきた年の秋、名古屋支店で一緒に山に登っていたKさんから1泊でどこかに登ろうと声がかかった。4年ほど山に登っていなかった私は大歓迎だった。カミさんも誘って三人で行くことにした。Kさんもカミさんも関東の山は初めてなので先ずは丹沢に案内することにした。
 秋も深まった11月初旬の土曜日、Kさんと小田急線の渋沢で待ち合わせ、バスで大倉に行き、塔ヶ岳に向かった。あの「馬鹿尾根」である。所々に見覚えのある景色があった。順調に登って広い山頂に着き、頂上の一角にある尊仏山荘に荷を解いた。ラジウスで食事の支度をしている間にも次から次へと宿泊客がやってくる。早々に食事を済ませ寝場所を確保した。カミさんはぎゅうぎゅう詰めの山小屋に驚いているようだった。
 翌日は曇りがちで眺望には恵まれなかったが、丹沢山への縦走路は樹林帯あり開けた草原ありの気持のよい道だった。
 丹沢山は薄いガスの中にあり、傍にある山小屋はひっそりとしていた。人が溢れる塔ヶ岳とは大違いだ。ここから蛭ヶ岳に向かう主稜線を離れ右に天王寺尾根を下った。あまり利用されていない道でちょっと歩きにくい所もあったが紅葉もちらほら出てきて靴底の感触も柔らかくしっとりとした山道だった。秋の丹沢を満喫しやはり山はいいなとしみじみ思った。天王寺峠から急斜面を本谷橋に降り、バスを待って帰途に付いた。
 もしKさんが山に行こうと誘ってくれなかったら、サラリーマン生活に埋没して山は遠くなっていたかもしれない。4年の空白をおいて再び山への情熱が戻ってきた山、それは丹沢山だった。

老骨に鞭打って蛭ヶ岳へ

(2013年5月)

蛭ヶ岳は遠かった

2013年5月23日 自宅 5:00 → 6:45 渋沢 → 7:15 大倉バス停 → 8:05 雑事場の平 → 9:15 堀山の家 → 10:12 花立山荘 →  10:55 塔ヶ岳 → 12:15 丹沢山 → 13:30 棚沢の頭 → 14:25 蛭ヶ岳山荘  
 63歳のとき幌尻岳に登り一応「日本百名山」のすべてに足跡を印した。しかし山塊、山郡、連峰をなす百名山の中で最高峰に登っていない山がいくつかあった。その一つである丹沢の蛭ヶ岳に登ったのは70歳のときだった。
 5月下旬の早朝、カミさんに駅まで車で送ってもらい始発電車に乗った。中央林間で小田急線に乗り、相模大野で乗り換え渋沢に着いた。
 駅前で握り飯を4個仕入れ、大倉行きの始発バスに乗り込んだ。20人ほどの登山客が乗っていた。山ガールも何人かいる。
 大倉に着くと朝食を食べてこなかったのでベンチに座り握り飯1つを頬張る。バスの同乗者は次々に出発してゆくが今日はゆっくりと登ろうと決めているので焦らず登山届を出しておもむろに出発した。
 車道をしばらく登ると登山道に変わる。幅の広い道が続くが所々1人幅の山道も出てきて、「ああ、ここ登ったな」と高校時代の記憶が甦ってくる。あれから50年以上経っている。S君はもうこの世にいない。私も歳だからこの山に登るのはこれが最後だと思わねばならない。淋しいことだ。板や丸太で作った階段が多くなる。一見歩きやすいようだが、段と段の間隔が歩幅に会わなかったり、同じ側の足だけで階段を登り続けることになったり、案外疲れるのだ。後ろから来た若い者に追い付かれ道を譲ること度々である。抜かれて気分がいいわけはないが張り合ったら身が保たない。それでも50分歩いて10分休むというTWVピッチでほぼコースタイム通りに登ってゆく。晴れ間もあるがややもやっていて富士山は見えない。遠雷のような音がしてびくっとしたが東富士演習場の砲弾の音のようだ。何とも耳障りな雑音だ。
 花立山荘から「金冷やし」という珍妙な名前を付けられた難所をさして肝を冷やすこともなく通過。長々と続くきつい傾斜の木製階段を老骨に鞭打ってヒイコラ登ると、多くの登山客で賑わう塔ヶ岳山頂に到着した。しばし休憩。
 熱中症に気を付けてゆっくりと丹沢山へ。極端に人が少なくなり追い越すことも追い越されることもなくのんびりと歩ける。新緑の樹林を抜け開けた草原状のなだらかな尾根は何とも気持がよい所だ。1ピッチで丹沢山に到着。広場には1組のパーティーが休んでいるだけで、みやま山荘もひっそりとしていた。目的地の蛭ヶ岳は二つ三つ峰を越えた先に山頂部が見える。コースタイムで1時間50分である。まだまだ先は長いと気を引き締め出発。上り下りを繰り返し疲れが堪ってくる。棚沢の頭で小休止。
 最後のピッチと再度気を入れ直して登高再開。鎖場も出てきて、岩場の下りで前を向いたまま降りて不確かな足場なのに儘よと次のステップに移って事なきを得たが少々怖い思いをした。後ろ向きに三点確保で慎重に降りるべきだったと反省した。最後の階段道を亀のようにノロノロ登って山頂の蛭ヶ岳山荘に辿り着いた。ベンチで汗を拭い息が落ち着いてから山荘にはいる。一番乗りなり。外観は昔の南アの山小屋のように質素に見えたが、横の入口からはいると中は意外に広くきれいだった。
 受付を済ませ缶ビールを飲んでいると、賑やかな大阪の人が来た。続いて福岡の二人連れがやってきた。いずれも百名山ハンターでしばし雑談。大倉で道を間違えヒルがウヨウヨいる所を1時間もさまよったという。ヒルが苦手な私はぞっとする。蛭ヶ岳というからにはこの山もヒルが多いのだろうが頂上部分は大丈夫だろう。
 この日の泊まり客は13人。70歳代後半の夫婦連れもいた。
 夕食後、外に出るとモヤがかかっていたが東京方面の明かりが見えた。広大な光の絨毯だった。
 
塔ヶ岳山頂 丹沢山への稜線
塔ヶ岳山頂 丹沢山への稜線
 
蛭ヶ岳 蛭ヶ岳山頂
丹沢山より蛭ヶ岳を望む(中央奥の山) 丹沢最高峰蛭ヶ岳山頂標識
 
夕景富士 蛭ヶ岳山荘
富士山の夕景 蛭ヶ岳山荘

大倉尾根の下りで膝がガクガク

 2013年5月24日 蛭ヶ岳山荘 5:45 → 7:10 丹沢山 → 8:30 塔ヶ岳 → 9:42 堀山の家 → 10:32 雑事場の平 → 11:20 大倉バス停
 今日は富士山もよく見えた。白いゴヨウツツジ、ピンクのトウゴクミツバツツジの花が所々に咲いている。塔ヶ岳までは快調だったが、大倉尾根の下りにかかったところで足を保たせるためにペースを落とす。歳を取ってから下りに弱くなっていることを自覚しているからだ。何人かに追い抜かれ、あっという間に視界から消えていった。「昔は俺も走って下っていたのにな」としばし慨嘆。しかしゆっくり下るのも常にブレーキをかけている状態なので太股が疲れてくるのだ。次第に膝の押さえが効かなくなってきた。膝がガクガクしてきてもうほとんど限界というところでようやくバス停に着いた。
 渋沢駅のホームに下るときは手すりにつかまりながらそろりそろりと階段を降りた。
 最後は散々だったが長い間念願だった蛭ヶ岳登頂を果たし、心の中は満足感で一杯だった。新緑の丹沢は素晴らしかった。
 
蛭ヶ岳の下りで富士山 蛭ヶ岳
蛭ヶ岳の下りで富士山がよく見える 蛭ヶ岳を振り返る
 
丹沢山山頂標識
丹沢山山頂、背後に富士山の頭が見える

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