薬師岳は懐の広い大きな山だった
(1985年8月)
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水晶岳より望む薬師岳(1961年10月) |
太郎兵衛平より薬師岳を見る |
懐かしの太郎兵衛平へ
8月19日(月) 自宅 20:00 → 21:50 寝台特急「北陸」
8月20日(火) → 富山駅 → 富山地鉄 有峰口 → 8:40 折立 9:00 → 10:15 三角点 → 11:30 五光岩(2193M) → 12:00 太郎平小屋
薬師岳は私にとって憧れの山だった。初めて北アルプスにはいり水晶岳から間近に薬師岳は見たときの感動は忘れられない。何よりもその大きさに驚かされた。その後色々な山に登ったが薬師岳より大きな山に出会ったことはない。しかし首都圏から遠く、手軽に登れる山ではなかったのでなかなか機会がなかったがようやくこの年の夏休みに登ることにした。
お盆も過ぎた月曜日の夜、上野駅で寝台特急「北陸」に乗った。12号車は先頭客車で電気機関車の後ろに連結されていた。乗客は家族連れが多く登山者は中年男性が1人いるだけだった。下段がほぼ埋まっている程度でゆとりがあり快適に過ごせそうだった。缶ビールを買い通路の小さなシートを引き出して腰を下ろした。定刻に列車が走り出し、鶯谷のけばけばしいネオンがゆっくりと流れ、次第にスピードが上がってゆく。通過駅のホームのベンチに黙然と座っている人、到着した国電から掃き出され階段に向かって急ぐ通勤客。そうか今日は月曜日だった。サラリーマンが働いている週初めの平日に私は都会を逃避して山に向かっている。私は企画した大きなプロジェクトが頭取の交代により中止されるという事件に巻き込まれ鬱々とした毎日を送っていた。いつになく感傷的になって物寂しい夜の沿線風景を眺めていた。
翌朝、列車は薄曇りの富山に着いて富山地鉄立山線の特急に乗り換えた。市電の走る市街地を抜け、杉で囲まれた農家が点在する農村地帯を過ぎ、うつらうつらしていると黒部川沿いに山あいにはいり有峰口駅に停車した。登山客がぞろぞろと下車して駅前のバスに乗り込むとすぐに発車した。和田川をさかのぼり有峰湖畔に出て、もう一つ山を越えて8時40分に折立に到着した。
登山口の折立は20年前とさほど変わっていないようだった。ベンチに腰かけ握り飯3個で腹ごしらえをしてから9時に登り始めた。樹林帯を順調に1ピッチ、1870.6メートルの三角点を通過。強い日射しに汗がタラタラ額を流れる。2ピッチ目にフルーツ缶詰で糖分補給。樹林帯を抜け草原の中の広い道をひたすら登る。2196メートルの三角点から五光岩への踏み跡がある。この辺りから広々とした草原で傾斜も緩やかだから実に気持がよい所である。しかし二十年前には一面にニッコウキスゲが咲き誇って疲れを癒してくれたのだが、今はもう花の盛りは過ぎていた。そのうえ10メートル以上の幅で踏み荒らされた裸地が延々と続いているのは少々味気なかった。
12時に太郎平小屋に着いた。薬師岳山荘まで足を延ばすかしばし逡巡したがガスがかかっているので止めた。今日中に薬師岳を往復してこようかと思ったが受付のおねえさんがここ数日夕立が続いているというので登頂は明日にすることにした。
薬師岳山頂で至福の山岳展望
8月21日(水) 太郎平小屋 5:55 → 6:35 大ケルン → 7:15 薬師岳山荘 → 7:45 薬師岳山頂 8:10 → 9:30 太郎平小屋 10:00 → 12:10 三角点 → 12:40 折立 13:30(タクシー) → 15:15 富山 15:29(雷鳥13号) → 17:51 長岡 18:02(上越新幹線アサヒ) → 22:30 自宅
サブザックを背負って小屋を出る。太陽が薬師岳の肩から顔を出した。草原の木道を少し下ると薬師峠で、道の脇のテント場に数張りのテントがあった。そこから登りとなりしばらく行くと草むらに雷鳥がいた。大小の石が転がっている涸れた沢状の坂を登り切ると薬師平の草原に出た。右手に槍ヶ岳が見えた。空気が澄んでいるので槍穂の稜線の輪郭がくっきりと空に刻まれている。見ているだけで心が浮き浮きしてくる。草原を抜け北東に進むと森林限界を越え次第に斜面が急になってくる。汗が噴き出すが風が涼しい。薬師岳山荘の横を通り過ぎさらに砂礫の道を登ってゆく。朝日を受けて斜め後ろに自分の長い影がぴったりと付いてくる。頂上の祠が見えてきた。前方の視界を遮っていた東南稜がだんだん迫り上がるように近づいてくる。早朝の広い尾根を唯一人登ってゆくのは何とも爽快だ。このまま歩き続けたい、もっと頂上が先にあって欲しいと思ったのは初めてだった。岩がゴロゴロ積み重なった道を一歩一歩足を運び遂に山頂に着いた。先客が1人いた。挨拶して互いに写真を撮りあった。
それからかつて登った山を探して写真を撮った。薬師岳から北に延びる稜線の果てに一段と高く立山、剣岳が見えた。時計回りに視線を回すと裏銀座の山々、水晶岳、鷲羽岳の遥か先に槍ヶ岳の尖峰が一際高く、キレットを挟み槍穂の峨峨たる山稜が屹立している。その右の笠ヶ岳から弓折岳、双六岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、北ノ股岳、太郎兵衛平まで、就職して1年目の夏休みに縦走したコースが逆順に指呼できる。また伊藤新道を上って黒部源流に下り、イワナを釣りながら美しい渓流を下り、薬師沢出会から急登した雲の平も指呼の間にあった。
そして今私が立っている薬師岳自身がどの山にも遜色のない名峰であった。何よりも圏谷(カール)が素晴らしい。薬師岳が擁する四つのカールが薬師岳圏谷群として特別天然記念物に指定されている。地質学的価値はともかく大きくて美しいのだ。私はカール好きで北海道の七つ沼カール、北アルプスの涸沢カール、黒部五郎岳カールなども心引かれるが、薬師岳のカールを見てまず感じたのはその横幅の広さである。カールは氷河で削られたスプーン状の谷といわれるが、頂上から見える北側の金作谷カールも南側の中央カールも幅が広くて、スプーンで一掻きしたようには見えず、幅広のスコップで掘り進んだような形をしている。そしてスロープが流麗で美しい。稜線直下から灰白色のきめの細かい砂礫がスキーのジャンプ台のようにカール底に流れている。支稜やハイマツ、岩などの雑物がほとんど見当たらない。ニキビ一つない色白美人の顔のようだ。そのスロープを見ているとスキーを履いて滑りたくなる。
薬師岳は本当に大きな山だった。いつまでもいたいという誘惑を断って帰途に付いた。
身も心も軽く下っていくと左に幅広い東南尾根が主稜と別れていた。どちらも広い尾根だから積雪期は迷いやすいだろうな思った。1963年1月に愛知大学山岳部員13名が遭難した尾根である。当時私は大学2年だったから事件のことはよく覚えている。さんぱち豪雪といわれる大雪に巻き込まれた。雪の中、太郎小屋を出発し薬師岳を目指したが、猛吹雪となり引き返す。相前後して山頂を目指した日本歯科大学山岳部6名は無事に生還したが、愛知大学生は東南尾根に死の彷徨をすることになった。あまりにも対称的な結果だった。忽然と消息を絶った愛知大生の遭難事件は大ニュースとなった。さんぱち豪雪と呼ばれる連日の降雪で救助隊は容易に現場に近づけず、最初の遺体が発見されたのは3月下旬のことだった。山は黙して語らず、私は山を愛した同年代の若者の死を悼むのみである。
太郎平小屋に戻り、荷物をまとめて折立に向かった。途中、三角点で一休みして、12時40分に折立に着いた。有峰口行きのバスは4時だった。バスでは今日中に家に帰れない。私はタクシーを呼ぶことにした。山が好きでも登山を終えたら一刻も早く家に帰りたくなる。勝手なものだ。タクシーを待っている間に若いアベックが1組下りてきた。「タクシーを呼んでいるのでよかったら乗っていきませんか」というと、「バス代だけでも払わせて下さい」といった。間もなくタクシーがやってきて私が助手席に2人は後部座席に座った。有峰口で富山地鉄に乗り換えるのも面倒なので富山駅まで直行した。ほとんど待つことなく「雷鳥」13号に乗車し、長岡で上越新幹線に乗り換えて10時半に我が家に戻った。薬師岳に登ってその日のうちに戻ることができた。新幹線ができて山は近くなった。
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薬師岳山頂 |
山頂の薬師堂 |
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槍ヶ岳、穂高岳遠望 |
黒部五郎岳 |
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金作谷カール |
北薬師岳、遥か剣岳 |
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立山、剣岳遠望 |
薬師岳東南尾根の上に水晶岳 |
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中央カール、遠くに槍ヶ岳 |
太郎兵衛平と黒部五郎岳 |
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雲の平方面 |
折立へ下山開始 |
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