ドクン・・・・ドクン・・・・どくん


 本来ならば力強く、安堵と温もりを伝える音。
 だが、安堵感を抱くよりも、底の知れぬ不安がこみ上げてくるような、落ち着かない音が体を押しつぶすように、低い音が一定のリズムで響き渡る。
 

 ドコニ、イルノダロウ?


 目を懲らし辺りへ視線を配るが、まるで目隠しをされているかのように視界に写り込む物は何一つ無い。
 この世界から全ての光が潰えてしまったかのような錯覚に陥るほど、暗闇しかそこには無かった。
 不安が押し寄せる。
 なぜ、自分はこんな所にいるのだろう。
 ここはどこなのだろうか。
 じぶんは・・・・ダレなのだろうか?
 ドクンと心臓が強く脈打つ。
 変わらず聞こえる音に呼応するかのように、強く響いた音は己の内から聞こえてきた・・・自分自身の心音。なのに、怖いと思ったのはなぜだろうか。
 重く感じる腕を上げて己自身の胸元の服をぎゅっと掴む。
 なぜ自分自身の鼓動だというのに不安に思うのか、なにも判らない。
 自分が立っているのか、座っているのか・・・歩いているのか、立ち止まっているのか・・・それこそ息しているのかさえも何も判らない。
 己という存在すべてがこの暗闇に塗りつぶされ、消えてしまっていくような錯覚に陥る。
 濃密・・・と表現するいがいに言葉が思い浮かばない濃い闇の中で、自分自身という存在を認識し続けるのはとても難しかった。
 誰かいないのだろうか。
 温もりを宿す物・・・光を持つ物・・・なんでもいい。自分以外の存在を求めて、濃い闇をかき分けるようにがむしゃらに手を動かしながら、進んでいるのかどうかも判らない空間をひたすら歩き続ける。
 もしかしたら、助けを求めて声を張り上げていたかも知れない。
 だが、認識出来る音は変わらず響き続ける、低い鼓動にも似た音だけだった。
 このままこの闇に塗りつぶされて「己」という物は消えてしまうのだろうか・・・・追い払えきれない絶望に苛まれ始めた時、一点の暗闇が僅かに揺らめき、黒い何かがじわりと水がしみ出るように浮かび上がってくる。
 息を詰めじっと凝視していると、それは、すらりと伸びた体躯をもつ人影を形作り始めた。
 闇よりも濃い影は徐々に墨汁に水を混ぜていくかのように色が薄れ始め、曖昧な輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。
 黒い衣服に身を包んだ白い顔(かんばせ)の青年・・・ナルの姿を。
「ナル!!」
 麻衣は力一杯声を張り上げるが、その声がナルに届いた様子は無かった。
 何度名を呼ぼうとも振り返ることはなく、険しい表情で何かを睨み据えるように一点を見つめていた。
 いつも彼が纏う気配よりも、さらに冷たく張りつめたものが辺りを覆い尽くしている。
 彼が、こんなに神経を尖らせることは滅多にないが、だからと言って皆無というわけでもない。調査で危険が身に迫った時など緊迫した状況下の時に、彼は全ての五感を研ぎ澄ますように意識を張りつめる。
 何か危険が迫っているというのだろうか?
 だが、真っ暗なこの世界で麻衣が認識できたのはナル一人で、他に見えるものは何もない。その視線の先を追って彼が見ている物を見定めようと視線を懲らすが、麻衣には暗闇以外認識できる物はなかった。
 だが、ナルは微動だにすることもなく、ただひたすら何かを見つめている。
 いや、ナル一人だけではない。
 その周囲にいつの間に現れたのか判らないが、ほんの僅かの間ナルから意識がそれた間に、さらに数人の姿が現れていた。
 調査時の仲間・・・皆が居る。滝川もリンも綾子も真砂子ジョンも安原も・・・そして、いまココに谷山麻衣という存在・・・意識?があるというのに、彼らの傍らにもう一人の自分自身もその場にいて、何かを見ていた。
 あそこに谷山麻衣がいるのなら自分はいったいダレなのだろうか?
 谷山麻衣と思いこんでいただけで別の人物なのだろうか?
 それとも、あそこにいる谷山麻衣が偽物・・・?
 なにも判らない・・・情報一つ無いこの現状に頭の中がおかしくなりそうだった。
 ナルにいますぐ駆け寄って、助けて欲しい・・・泣きすがりたい衝動に駆られる。
 だが、何かがおかしい・・・という事だけは、不安に押しつぶされまともに考えることが出来なくなっていても判った。
 いや、唯一判ることだった。
 何かがおかしい・・・何に違和感を感じるのだろうか。
 それを見定めるように麻衣は、微動だにすることも出来ない緊迫感が張りつめた中で、ナルが動き出すのを見続ける。
 不機嫌も露わな瞳は、峠を越し不穏なものを宿している。ナルは何かをするつもりだ。本能的にそれは判っても、何をするのか判らない彼らは、一抹の不安を覚えつつも誰も何も言わない。
 ただ、皆が何も判らなくても肌で気が付いた。
 空気が流れ出したことを。
 それは、麻衣にも判った。
 全てを塗りつぶすこの世界に風などなかったというのに・・・空気の動きなど欠片もなかったというのに、熱の対流が起き始めていることが。
 不規則に流れていた風は、やがて一つの法則でも見つけたかのように、流れを変え始める。
 ナルを中心にゆっくりと対流を始めたのだ。


   ナル・・・!


 幾度呼びかけてもナルに声は聞こえない。
 それでも麻衣はナルの名を呼び続ける。
 何が起きているのか判らないこの世界では、このままじっと見ている方がいいのかもしれない、だが、それはなぜか恐ろしくて出来なかった。
 麻衣が見ていることを知らないナルは、髪がゆらりと逆立ち始めると同時に、右腕をゆっくりと掲げた。


   だめ


 それを見て取った麻衣の呟きはナルにはけして届かない。
 傍にいたリンが顔色を変えたが、ナルの周囲にいる他の皆は、彼が何をするのか判らず、視線を向けているだけだ。誰も彼を諫め止めようとはしない。すぐ傍にいるもう一人の自分も不思議そうにナルを見ている。
 当然だ、彼らは・・・自分もだが、ナルの能力を知らないのだから、彼が何をしようとしているのか、見当も付かず、彼がしようとしていることをただ黙って見ている。




   あの時だ。


   この、鼓動にも似たような音。
   全てを塗りつぶすような圧迫感・・・
   あの、洞窟の中だ。
   祀られることを忘れられた哀れな神が、祟り成していたあの事件・・・
   吉見家の調査の時の光景・・・




 今、目の前の光景は過ぎ去りし過去だ。
 もう終わったことで、けして今の自分では止めることは出来ない。
 彼らが見ているのは数年前調査をした家に受け継がれていたご神体であり、ここは、ご神体が祀られていた全てが集まる場所だ。
 人の体内のように脈動をうち、自分達を閉じこめたあの洞窟。
 皆が必死になって脱出する方法を考えていた中で、ナルは一言を呟くとゆっくりと動きだしたのだ。
 彼は、この時初めて皆の前で自分が持っている能力を発揮した。
 それが、どんなに危険なことかを知りながら。
 皆はその危険性を知らず、彼の行動の意図も知らず、ただ黙ってみている。
 だが、麻衣は知っている。
 その行為が彼にもたらす危険を。
 止めさせなければいけない。
 このままただ見ていることなど出来なかった。
 あの時間に今の自分はいない・・・干渉できるはずはけしてない。それでも、彼の元に駆け寄ろうとしても、目の前に見えない壁があるようでナルの傍に近づくことは出来ない。
 当然だ。これはもう終わった事なのだから、麻衣が近づけるはずがない。
 だが、それでもただ黙ってみていることが出来ず、見えない壁を叩きながら叫ぶ。
 彼は、もう一人の麻衣の存在など気が付かないまま、無言で手を掲げ過去にあったとおり力を解放した・・・・・


   ナル!!


 麻衣の絶叫が、闇の中に響き渡る。
 けして、届くことはなかったが。





















    !!!!





 覚醒は唐突に訪れた。
 意識は瞬きをする前にクリアーになってしまい、再び眠りの世界には容易には戻れそうもなかった。
 強ばった身体を静かに起こし、そっとため息をつく。
 カーテンの隙間からは月の光が僅かに漏れて、室内を青い薄闇に染めていた。
 静かすぎる室内。
 聞こえる音は秒を刻む時計の音ぐらいで、それ以外に聞こえる音は何もない。
 ただ、静かに時が刻まれていく。
 それ以外の音が聞こえないことに安堵のため息を漏らす。
 あれほど不安を与え続けていた、不吉な鼓動のような音はもう聞こえない。
 額に張り付いた前髪をかき上げながら、視線だけを横に転じれば、闇の中に人影の形をなして見える。
 起こしてしまった様子はない。
 瞼は閉ざされており、眠っている時だけは棘のような美しさがなりを潜めていた。
 呼気に乱れはなく、しばしの間凝視していても瞼はぴくりとも動かない。
 その事に安堵のため息を漏らすと、隣で眠っているナルを起こさないように静かに床の上に降り、裸足のまま部屋を出て行く。
 極力音を立てないように移動しても、素足で床を移動するとペタペタと音が微かに響き、普段は気にならないドアの軋みがやけに大きな音になって聞こえてくる。
 バスルームまで息を詰めて移動すると素肌に纏っていた上着を脱いで、熱めのシャワーを頭から勢いよく浴びて、肌にべたつく嫌な汗を一気に流す。
 瞬く間に浴室は熱気に満ち、湯気に曇った鏡には微かな人影しか映らない。
 仰ぐようにシャワーを浴びながら夢を思い出す。
 なぜ、あんな夢を見たのか全く判らない。
 何年前の話になるのだろうか。
 まだ、ナルの素性を知らない頃の話だ。
 数年前、吉見家に依頼され調査に赴いた先での絶体絶命の時、ナルはPKを使って心肺停止状態に陥ったことがあった。ナルだけではない。あの時は、安原も滝川も肋骨を折ったり、大怪我をするほどの調査になったのだ。
 そして、入院を終え皆で漸く東京に戻るその途中に、ナルはジーンを見つけた。
 ナルはジーンを見つけ・・・自分は初めて知ったのだ。一年半片思いをしていた相手が、ナルではなく彼の双子の兄で、すでに鬼籍の人となっていたことを。夢の中に時折姿を現していたのが、ユージンだということを・・・淡い初恋が実ることもなく、振られることもなく、存在を知った時点でけして叶わない想いだと知った。
 一生忘れることの出来ない、十七を迎えたばかりの夏のことだ。
 今でも思い出せば、胸の奥が少し苦しくなる・・・おそらく、どれほどの時を経たとしても、この切なさと重さは変わらない・・・それでも、患わされる類の感情ではなくなっている。それなのに、なぜあの時の夢を今更見るのだろうか。


 手を差し向けるナルの姿。
 漆黒の髪が風に煽られるように逆立ち初め、差し向けた腕を中心に対流する熱風。
 熱風が解き放たれた直後崩れるナルの姿がスローモーションとなって脳裏に浮かぶ。


 ただの夢だ。
 そんなことは判っている。
 それでも、夢に見た内容があまりにもリアルで・・・たった今、目の前で起きた出来事のように思えて、心臓が止まるかと思った。
 足がもつれてなかなかナルに駆け寄れない自分がもどかしくて、蘇生処置をする皆の姿が遠くて、ただ、眺めていることしかできなかった自分がいた。
「なんか・・・ヤな予感」
 実を言えば今夜初めて見る夢ではなかった。
 虫の知らせのようにここ数日間・・・正確に言えば三日ほど前から見続けていた。
 毎晩毎晩、繰り返し見続けるあの時の夢。
 何かを警告するかのように、見る夢に深くため息をつく。
 三日前・・・依頼人がオフィスを訪れ、ナルが調査を承諾した日から見続ける。
 別に特別やっかいな調査依頼ではなかった。
 家で起こるポルターガイスト現象を調べてほしいとの内容だ。ナルは乗り気はあまりなさそうだったのだが、調査を引き受けることになり、四日後の明日から調査に赴くことになっている。
 仮調査は、一昨日と昨日の二日間で行っており、特別危険な様子は何もなかった。
 なのに、なぜ夢を見続けるのだろう・・・
 シャワーを止めて脱衣所に出た時に麻衣は思わずため息を漏らしてしまう。
 着替えを持ってくるのを忘れたのだ。
 冷静なつもりでいるのだが、かなり気が動転していたのだろう。
 タオルで濡れた身体をぬぐうと、そのままタオルを身体に巻き付けて廊下に出る。
 ナルの身に危険なことでも起きるのだろうか。
 それとも、皆の身に危険な事でもあるのだろうか・・・たかが夢に過ぎないのに、あまりにもリアルすぎてただの夢とは思えない。
 知らずうちにため息を漏らしてしまう。
 夢を見るのは正直言うと嫌いだ。
 調査中でも、調査のない日常的に見る夢も、見ることは嫌いだ。
 時折、夢と現実の区別が付きにくくなることがある。
 普段の生活では謙虚に現れることはない。
 調査中は別として、終了後しばしの間現れる夢が嫌いだ。
 それが、ごく平凡な夢らしい支離滅裂な夢ならいい。
 じゃなければ、とっても幸せな夢なら何も問題はない。
 たとえば、寝坊をして遅刻をし、急いで学校に向かうのになぜかたどり着けないという夢や、ナルと仕事を抜きとして、デートをする夢とかなら、純粋に夢として終わる。
 だが、まるで調査中に夢を見るかのように、繰り返し繰り返し見続ける夢に、そんな平穏さを求めることは出来なかった。
 実際に目の前で起きた過去の出来事を、脳が夢の中で思い出しているにしか過ぎないというのに。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼べるほどではない。
 ただ、不安定な精神状態をトレースするかのように夢に現れるだけにしか過ぎない。
 この能力とは一生付き合っていかなければいけないのだ。
 誰の力も借りず自分の意志でコントロールをしていかなければ、いいように振り回されるだけだ。好き嫌いを言っている場合ではないと思うのだが、それでも思わずにはいられない。
 夢を見ずに眠りたいと。
 特に、こんな夜には。
 まだ、夜中の三時で朝が来るまでに数時間あり、これからしばらくの間は調査で色々と気を張りつめることになるのだ。今のうちにゆっくりと眠っていた方がいいと判っていても、寝直す気にはなれず麻衣は誘われるようにバルコニーへと出る。
 幾ら季節が真夏だとはいえ、高層部にある部屋のせいか風が強くやや肌寒く感じるほどだった。
 タオル一枚を巻き付けた姿で本来ならばベランダなどに出るのはバカなのだが、見られる心配がないのだから構わず足を踏み出す。
 なにより、着替えに寝室に戻るのも面倒くさかった。
 真実を言えば、ナルを起こしてしまいそうだから戻らなかったとも言うのだが・・・閉めたはずの窓が再び開いた音に、結局は起こしてしまったか・・・とため息をつく。
「お前は、自分が今どんな姿で居るのか認識できていないのか?」
 呆れたような声音に麻衣は軽く首をすくめながら振り返る。
「いや・・・起こしちゃ悪いよなーと思ったんだけど・・・起こしちゃった?」
「名前を隣で叫ばれたらな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 記憶に全然ないのだが、どうやら目を覚ます直前に見た夢の通り名前を叫んでしまったようだ。と言うことは、ナルが起きたかどうかを確認していた時には、ナルは起きていたと言うことになる。
「たぬき」
 ぼそりと呟く。
「起きてない方が良さそうだったが?」
「だったら、ずっとそうしてくれれば良かったのに」
 ぷいっと頬を膨らませてそっぽを見てしまった麻衣に対し、ナルは喉の奥で笑う。
「あのね・・・何でもないの」
「そう」
 そらしていた視線をナルに戻して、はにかみながら笑みを浮かべながら告げるが、聡いナルがその言葉を真に受けるはずがない。
 だが、麻衣も言うつもりはないのだろう。
 そのままナルに質問されないうちに逃げるように、室内へと戻るがナルは変わらず何も問いかけない。
 こうと決めたら麻衣が意志を変えないことはナルが一番知っているからだ。
「何でもないなら、寝るぞ」
 麻衣の後を追うように室内に入ったナルは、そのまま麻衣を通り越して寝室へと戻ってゆくが、その足は扉の前で麻衣を待つように止まる。
 それが、ナルなりの心配り・・・なのだろう。
「うん・・・・・」
 微笑を浮かべたまま寝室へと向かって歩き出したのだが、それでも麻衣は今日はもう眠ることは出来ないだろうと思った。
 妙な胸騒ぎが、静まらなかったのだ。




第二話へ続く