それは、ナルでさえも予想していなかった事態だった。
 いや、もしかしたら可能性の一つとして予想はしていたかもしれない。だが、それを止める事ができる人間は誰もいなかった。
 引き絞られた矢が解き放たれるように、それは彼女の中から解放されたのだ。
 暴風・・・というよりも、爆発としか思えない衝撃がその場を襲い、ありとあらゆる物がその力に抗うことが出来ず吹き飛ぶ。
 例外は何もない。
 麻衣も目に見えない何かに襲われ、踏みとどまることも出来ず壁に背中をしたたか打ち付け、衝撃を逃すことすら出来ず息が詰まるり、その場に座り込んでしまう。
 反射的に出る咳が喉を痛め目に涙が浮かんでくる。
 軽くはない目眩が襲い、肩を特に強く打ち付けたせいか、ジクジクと痛むが動けないほどではない。
 ゆっくりと目を開けてみると室内はほんの数瞬の間に、愕然とするような有様になっていた。
 ソファーは垂直に浮かび上がったのか天井に突き刺さり、まるで天井からソファーが生えているような奇妙な光景とかし、窓ガラスという窓ガラスは全て外側に向かって吹き飛び庭に散っている。かかった圧力を知らしめるようにくの字に歪んだサッシ。ガラステーブルは粉々になり、テレビやステレオ電灯など電化製品は全てショートをおこし、火花を散らせている。
 飛び散ったガラス片で多少の切り傷を作っているとはいえ、この中で背中や肩を壁にぶつけた程度で済んだのは、御の字としか思えない。 
 どうやら、皆も大きな怪我は負ってない模様だ。名取氏がガラスか何かで切ったのか額から血を流しているものの、大きな怪我ではないだろう。夫人も腕をさすっているものの大きな怪我はない。
 ナルも同様だ。麻衣と同じように壁に叩きつけられたようだが、怪我をした様子もなく立とうとしている。といっても彼の場合は、意志の力で大怪我を負っていても気がつかせないように平然としているかもしれないから油断はできないが。
 怪我の有無は後で確認をすることに決め、最後の1人の無事を確認すべく麻衣は再び室内に視線を動かすが、その瞳が見開かれる。
 壁にくくりつけられていた、アンティーク調の飾り棚がゆっくりと傾こうとしていた。
 その飾り棚の中には、アンティーク系の食器やブロンズの置き時計などが飾られているおり、軽く数十キロはあるだろう。あんな物の下敷きになったら、軽傷では済まない。下手をすれば命を落としてしまいかねない。
 倒れてくる方向に居るのは、千鶴である。
 彼女は避ける様子もなく、そのキャビネットを見つめている。まるで、死ぬことを選んだかのように・・・
 この世の全てを諦めてしまったかのように、虚ろな眼差しでキャビネットを見上げていた。
「千鶴ちゃん!!」
 彼女を押しつぶしてしまう・・・音もなくゆらりと倒れかかるキャビネット。だが、それは彼女を押しつぶすことはなかった。
 駆けつけても間に合わないのならば、出来ることはただ一つしかない。
 でなければ、まだ成長しきれない少女の幼い身体は簡単に押しつぶされていたはずだ。
 判っている。
 それしか、方法がなかったと。
 だが、感情は・・・・・理解を放棄していた。


「ナル     !!」


 麻衣の絶叫が響く。
 毎晩のように夢で見た光景のように。
 過去にあった出来事と同じように、音もなくかしぐナルの身体。
 少女を押しつぶすはずだったキャビネットは、自然の法則に反して、あらぬ方へ吹き飛び壁にめり込んでいた。
 そんなことを意識的に出来るのは一人しかいない。
 昔、まだジーンが生きていた頃は実験で、五十キロもある鉄の塊を吹き飛ばしたことがあると言うが、それはジーンのサポートがあっての話だ。何のサポートもなしに、今ナルはその時よりも重量はある物を吹き飛ばしたのだ。
 ナルは、吉見家の時にPKを使った時同様、ほんの数瞬踏みとどまったものの、ふっと意識を無くすとその場に崩れ落ちてしまった。
 夢の中と同じように、駆け寄りたくても足がもつれて速く近寄れない。
 身体が壁に打ち付けられ箇所が鈍い痛みを訴えてくるのが邪魔だ。
 一秒でも早く近寄りたいというのに、膝がガクガクと震えて近寄ることがままならない。
 それどころか膝から力が抜けその場に座り込んでしまう。
 こんな所で悠長に座り込んでいる場合ではないというのに。
 ガラス片など気にすることなく床の上を這いずってナルに近づき、恐る恐る指を伸ばすのだが、なかなか脈を探り当てられない。異常なほど指が震えてしまって鼓動を感じられないのだ。


 ・・・・・違う


 なかなか見つけられない脈に思考がイヤな方へと進んでしまう。
 どんなに慎重に指先を動かしても指先に伝わる振動がない。


 ・・・・・違う


 
 見つけられないのではなく、脈がないのかと思うと全身の血が凍り付いてしまったかのように、体中の血の気がすっと下がっていく。
 以前倒れたときと、今回ではどのぐらいその身体に負担をかけているのだろうか。
 判らない。
 湯浅校の調査時もナルはPKを使って倒れた。
 だが、あの時は過労と貧血と説明されて納得できる程度だった。
 同じように青白い顔で倒れたが、脈も呼吸もちゃんとあったのだ。
 だが、その次に・・・吉見家の調査の時倒れたナルは心肺停止状態にまで陥っていた。
 その境が麻衣には判らない。
 今回の力の使い方が、どれほどナルの身体に負担をかける物なのか。
 首筋を探るのを止めた麻衣は、ナルの胸に耳を当てる。
 心臓の位置は中央部。
 服越しに耳を当てると、弱々しいながらも脈を打つ音が聞こえ、呼吸も細いながらも自発呼吸をしている。
 止まってはいない・・・・だが安心はできなかった。
 心肺停止をし一刻の猶予もなかったあの時に比べれば遙かにマシなのだが、いつ鼓動が止まってしまってもおかしくないほどその脈は弱々しかった。
 少なくはないダメージがナルの身体にかかっている。
「名取さん、救急車を呼んでください」
 麻衣はナルの脈が止まらないよう祈りながら、何が起きたのか全く判っていない名取氏に直ぐに救急車を呼んでくれるよう頼む。
「いや・・・救急車はまずい。この状態を見られたら余計な詮索をされる・・・・警察沙汰は何度も言うようだが困る。近所の目もあるしな・・・私が車をだそう」
 だが、彼はこの事態に警察や外部の人間が入ってくるのを恐れ、自分が車を出して病院に運ぶと言い張ったのだ。
「いい加減にして下さい!!
 意識のない人間を勝手に動かすことがどれほど危険なことか判って居るんですか!?」
「いや・・・だがしかしだね私には君のように若い子達とは違い対面というものが・・・・・・」
「人の命が掛かっているんですよ? 
 対面なんか気にしている場合ですか!? こんな時まで、そんなくだらない事が大切ですか? 何が大切か、何が守るべき事か、本当に判っているんですか!?」
 麻衣の叫びに、名取氏は視線をそらすものの、意志を変える気がないのだろう。「世間体というものが」とか「近所の目が」などと呟いているだけだ。
 このままでは埒があかないと思ったのか、携帯を取り出すと勝手に救急車を呼ぶ。
 住所などは事前に調査をし、ここまで来ているのだから知っている。
 それから、直ぐに別行動をとっていたリンと安原にも連絡を入れ、病院で合流することを決めると、電話を切る。
 千鶴は茫然自失状態で、壁にめり込んだキャビネットを見つめている。
 何が起きたのか判っていない様子だったのだが、その視線は恐る恐るナルへと向かう。
 そこには、自分以上に強い力を持つ人間に対する恐怖と、異能を持つ者が自分一人だけではないという、僅かな安堵が混じった複雑な眼差しだが、その目は両親を見ることはなかった。
 再び拒絶されることを恐れるかのように、少女は両親を見ない。
 かけられる言葉が見つからないまま、何も言えず黙って、救急車が来るのをひたすら待つ。
 数分で来ると聞いているが、その数分が数時間のようにも感じられ、じわりと嫌な汗が滲み出てくる。
 彼らもまた、もう何も言う気力はないようだ。
 騒ぎを聞きつけて、外から敷地内を伺うような近所の視線から逃れるように、背を肩を丸めて座り込んみながらも、渋面を崩さないまま娘でもある姪を睨み付けている。
 それから僅かで救急車がサイレンを響かせて、到着した。
 麻衣に案内されてリビングに足を踏み入れた救急隊員はあまりの光景に言葉をなくす。
 まるでガス爆発でも起きたのではないかというような光景だ。
「警察・・・は?」
 警察の姿がない事に気がついた救急隊員の1人が麻衣に向かって問いかける。
「まだ、です・・・とにかく、怪我人がいるので」
 救急隊員達は一瞬顔を見合わせるが、今は一刻も早く意識のない人間を病院に運ぶのが先決であり、黙々と自分達の仕事にとりかかる。
 名取は救急隊員が駆けつけている間も、一言も口を開かず忌々しげに姪を見ていたかとのだが、担架に乗せられ運ばれていくナルに付き添うために立ち上がった麻衣に向かって、言葉を投げつける。
「こうなったのも、皆あんたたちが余計なことを言ってくれたからだ。
 おかげで、家はこの有様だ。どう責任をと・・・」
 最後の最後まで自分の責任を振り返らず、人のせいにしようとする名取を麻衣は、その大きな目で凝視する。


「私達のせいですか?」


 あどけない表情を浮かべ、場を和ませるような笑顔を浮かべていた少女と同じとは思えないほど、その表情は険しく、声は低く冷淡なだった。
 思わず、名取が呑まれて言葉を飲み込んでしまうほどに。
「貴方が、言葉の暴力で千鶴ちゃんの心を傷つけた」
 そればかりではない。
 その為に、使わなくてもいい能力をナルは使う羽目になったのだ。
 彼らが、少女を拒絶しなければ、少なくとも、ナルがPKを使うような事態は避けられたはずだ。
「もしも・・・もしも、万が一ナルに何かがあったら、私はあなた達を許さない」
 今まで誰も聞いたこともないだろうと思われる声が、麻衣から漏れる。
「私から、ナルを奪うようなことがあったら、あなた達を絶対に許さない!!」
 まるで、一生呪ってやると呪詛をたたきつけるかのように吐き出された言葉に、名取氏も夫人も息を呑む。
 鳶色の双眸に、爛々と怒りの色を浮かべ叫んだ麻衣は、そのままそれ以上何も言うことをせず、ナルについて行こうと腰を上げたところで、少女の縋るような瞳に一瞬この場に残るべきかと迷いが生じる。
 だが、もしも救急車の中や、搬送先でナルに万が一のことがあったらと思うと、離れることが怖かった。
 一分、一秒でも離れず傍にいたい。
 視界から、その姿を消すのが恐ろしくて恐ろしくてならなかったのだ。
 もう二度と誰かを亡くしたくはない。
 永遠という存在などないことはよく知っている。
 誰よりも知っている。
 だが、まだ亡くしたくはない。
 自分が居たからと言って何かできるわけでもないが、それでも万が一の時傍にいなかったら自分は一生呪うだろう。
 彼らを、自分を、全てを。
 どうすべきか決断が付かない状態で、救急隊員が付きそうかどうかを聞いてくる。
 いくら、今すぐ危険な状態に陥る容態ではなかったとはいえ、のんびりとしていられる状況でもないのだ。
 そもそも両親がしっかりとしていれば、これほど後ろ髪を引かれる思いはしなかった。
 彼らさえ恐れず自分の娘を受け入れられていれば、こんな最悪な事態にはならなかったのだ。
 何も知らない人間がいきなり、現実を受け入れるのは難しいかもしれない。
 戸惑いもおそれも計り知れないほど大きいだろう。
 だが、それでも拒絶さえしなければ、少女の存在までも否定しなければ、親子間の傷は浅い物ですんだかもしれないのに、今彼らの間には深い溝が出来てしまっているのが麻衣にさえ判った。
 顔を合わせてまだ数日しかたっていないというのに、他に頼る人はいないと言わんばかりにすがる目を向ける少女を見て、麻衣は素知らぬふりは出来なかった。
 救急隊員には先に救急車まで行ってもらうと、座り込んでブツブツ言っている名取夫妻に近づく。
 まるで、麻衣さえも化け物に見えるかのように、名取氏は身体をびくつかせると、恐怖に引きつった顔で麻衣を見る。
「千鶴ちゃん、しばらく私がお預かりしてもいいですか?」
 麻衣のこの提案をこれさいわいと思ったのか、名取氏は一も二もなく大きく頷き返す。
「あんた達に任せる!
 私達にはこんな子の面倒はみれない! 転校手続きが出来たら、あんた達の事務所に連絡するから、早く連れて行ってくれ!」
 あまりな言い方にカッと頭に血が上り、その顔を思いっきりひっぱ叩いてやりたい衝動に駆られたが、おなかに力を入れてグッと堪えると、千鶴へと視線を転じる。
「千鶴ちゃん、私達と来る?」
 手をさしのべて怒りに歪みそうになる顔に、怯えないように笑顔を浮かべて問いかけると、少女はさしのべられた手に抱きつく。
「ごめんね、急いでいるからこのまま何も持たず行くけどいい?」
 問いかけに、無言のままコクリとうなずき返すと、麻衣は急いで表に待っている救急車に乗り込んだのだった。







 冷たく体温を感じさせない手をぎゅっと握りしめながら祈る。








 どうか、この温もりをなくすような事になりませんように・・・と。



















第四話へ続く