「谷山さん!」
 事務所にいたリンが連絡を受けて駆けつけたのは全ての処置を終えた頃だった。靴音を高らかに響かせて駆け寄ってくる音が聞こえたかと思うと、病室のドアが静に開かれる。
 リンの姿を見たとたんホッとしたのか泣きそうな顔をになる。
 まだ完全に緊張の糸がほぐれたわけではないが、ピンと張りつめていた何かが、見知った顔を見たことで少しだけ弛む。
「ナルの様態は?」
 立ち上がった彼女を再び座っていた椅子に腰掛けるよう促してから問いかける。
「軽い心筋梗塞みたいな症状が出ているって言ってましたけど、今は脈も呼吸も落ち着いているから、命に別状はないってお医者様が言ってました・・・・・」
 その診断は、以前にもPKを使った時に医者に下された診断と同じ内容だった。
 身体にどう影響がでるのかは判らないが、ナルは過度のPKを使用すると、心筋梗塞と似たような症状を起こし、最悪の場合は心肺停止状態にまで至ることもある。
 今回も同様な症状が起きたのだが、以前のように危険な状況に陥ることもなく済んだのが不幸中の幸いだった。
 一番怖れていた事態にだけはならずにすんだが、意識がまだ戻っていない以上麻衣は本心からまだ安堵することは出来なかった。
 そんな麻衣の顔色の悪さにリンも直ぐに気が付く。
 彼女の立場を考えれば、どれほど不安に押しつぶされそうになっていたか想像することは容易かった。まして、倒れた時からずっと今まで気を張りつめているのだから、疲労とストレスは共にピークに達していて当然だ。
「顔色が良くありませんね。ナルに付き添っていてかなり疲労がたまっているのでしょう。
 谷山さんも少し横になった方がいいのではないですか?」
 極度の緊張感が続けば、貧血状態になる。
 リンの言うとおり麻衣の顔色は紙のように白かった。
「私は、平気です・・・リンさん、安原さんは?」
 二人に連絡を取ったというのに安原の姿が見えない。
 彼がナルが倒れて駆けつけないタイプではないことを知っているから、不思議そうに問いかける。
「依頼人の家に行って貰ってます」
 当たり前のように言われ、麻衣は「あ」と言葉を漏らし、深々とため息を漏らした。
「ごめんなさい・・・仕事、放り出して・・・・・」
 幾らナルが倒れたからと言って、あの状況で救急車に一緒に乗ったことは、仕事を途中で放り投げだしたも同然だ。
 幾ら、千鶴を同伴させて両親から隔離をしたからと言って、それが言い訳にはならないことは麻衣も判っている。
 何もかも中途半端に投げ出してしまったような状況になってしまったのだから。
 その上その後もフォローの事など考えつかず、病院の廊下で一人オロオロしていることしか出来なかった事に漸く思い至り唇を噛みしめる。
「ナルが倒れたのですからあの場は仕方在りません。
 貴方が気にするような事はなにもありませんよ。
 名取家の方は私と安原さんの方で対処をしていきますので、谷山さんはナルについてあげていて下さい」
 麻衣を宥めるようにリンは微笑を浮かべながら言う。
「直ぐに意識も取り戻すでしょう。
 そうなったらナルのことです。直ぐに退院しようとするか仕事を始めようとするでしょうから、しばらくはベッドの上から動かないように、しっかりとナルを見張っていて下さい。
 それが出来るのは谷山さんだけですから」
 新しい仕事を言いつかって、麻衣は漸く少しだけ表情をゆるめる。
「判りました。ナルのことは任せて下さい。
 今までの分もちゃんと療養させて、先生に太鼓判を押してもらって退院できるように見張っておきます」
「御願いします。でないとすぐに病院を飛び出してきますから」
 想像するのに難しくない一番可能性の高い未来に、麻衣も思わずため息を漏らす。
 なぜそこまで無茶をするのか・・・まるで、時々生き急いでいるように見えて不安に駆られる。
 生き急ぐ必要などないのだから、時には十分に休息をして欲しいと思ってもナルにはその思いは通じない。
 何がそこまでナルを駆り立てるのだろうか・・・傍にいる時間が増えても麻衣には判らなかった。
 麻衣は軽く息をついて肩から力を抜くと、意識を切り替えるように軽く頭を振る。
 現場をリン達へと任せるのならば、自分が知っている限りの状況を伝えておかなければならない。
「 リンさん、名取家に行かれる前に状況の説明をします」
 麻衣は何が名取り家で起きたのかを、出来るだけ余計な私情を挟まずリンに説明をする。
 何よりも一番最初に、親元に置いておけないからと言う理由で千鶴を連れてきてしまったことを説明しておかなければ、後々面倒な事態が起きないとも限らないのだ。
 本来ならば、ナルがリンに説明をする事なのだが、ナルはまだ意識を取り戻してはおらず、医者も薬が効いて夜までは眠っているだろうと言ったため、麻衣が説明をするしかなかった。
 事の展開を改めて麻衣から聞くと、さすがのリンもため息をついてしまう。
 確かに、ポルターガイストは簡単ではないにしろ人でも起こせるものだと聞いて、すぐさま理解し納得できるわけがない事は理解できる。
 まして、理論的で頭の固い人間ならばなおさらだ。目の前で起きたとしてもなかなか信用しない人間もいる。
 ポルターガイストを信じ、見知った人間が起こしているという事まで理解しても、なぜそうしてしまったのか。どうすれば起きずに済むのか・・・そこまで冷静に考えて受け入れられる人間はなかなかいない。
 どうしても時間が必要だ。
 最初はポルターガイストを起こす人間に恐怖心を抱き、化け物扱いをする者や遠巻きに接する者、反応は様々だが、距離を置く必要が出てくる。
 だが、今回はその距離を置く時間すらないまま、事態は最悪な方へと進んでしまった。
 庇護を求める者の叫びを聞かず、退けてしまうという形に。
 ポルターガイストという形で現れた、救いを求める必死の叫びは相手に理解されることなく、存在その物を否定されてしまったのだ。
 それは双方共に大きな傷を作っただろう。
 修復できるとは俄には考えられない。
 麻衣とて時間さえかければ・・・などとは気安く言えるような状況ではなかった。
 一度こじれた家庭環境は他人がどうこう出来る問題ではないのだから。
 あのような現場に経たされると、余計な事をしてしまったような気がしてくる。
 もちろん、そこまで拗れてしまった原因は自分達はない。
 自分達の仕事はあくまでも、現象の究明と解明であり、原因を突き止めた結果だったのだ。その言い方もけして依頼人を煽るような事ではなかった。調査を受ける前に、ポルターガイストが必ずしも心霊的な物が原因な訳ではないと言うことは説明してあり、その中の要因の一つとして人が無意識に起こしている場合もあると言うことも説明済みだったのだ。けして珍しい現象ではないと言うことを何度も繰り返し言った。
 それを受け入れることができるか、出来ないかまでの責任を負えと言われてしまうと、この手の仕事は二度と引き受けることができなくなってしまうだろう。
 人間が・・・身内が原因と化している可能性もあり、その結果までは責任を持つことが出来ない。だが、何も気にするなとはさすがに言えない。
 たとえ、言ったとしても気休めにすらならない。
 安請け合いは出来ないものの、リンは麻衣に出来る限りのことをするから、心配する必要はないとだけ言って立ち上がる。
「入院の手続きは私がしておきます」
「お願いします」
 リンをエレベーターまで見送ると麻衣はナルの眠る病室へと戻る。
 千鶴も疲れてしまったのか、備え付けのソファーに横になって、静かな寝息を立てていた。その上に看護師から借りてきた毛布を掛けると、そっとナルの元に近づく。
 念のためと言うことで心電図がつけられ、規則的な音が静かな病室内に響く。
 腕に刺された点滴がそれに合わせるように、一滴一滴ゆっくりと落ちている。
 瞼にかかっている前髪をかきあげ、露わになった瞼にそっと唇を落とす。
 瞼は固く閉ざされ、その瞳が開くことはまだないが、時が来ればこの奥に眠っている闇色の双眸を見ることが出来るのだ。
 心の奥が、ジクジクと痛みを微かに訴えって来るのを、麻衣は軽く頭を振って振り払う。
 大事には至らなかったのだから大丈夫。
 すぐに、元気になると医者は太鼓判を押してくれたのだから、心配することは何もない。
 意識を取り戻せば、倒れたことなど忘れたかのように彼は直ぐに、仕事に戻ろうとするだろう。周りがどんなに呆れて、止めようとも。まるで、仕事をしなければ死んでしまうと言いかねないような勢いで。
 それを思えば、このまま身体が安定するまで眠っていた方が、ナルにとってはいいと判っている。
 判っていても、痛みが消えることはなかった。
 早く目が覚めて、いつもと何一つ変わらない彼の姿を見せて欲しかった。
 矛盾する葛藤にため息を一つ漏らしてしまうが、彼の体調が一日でも早く良くなることを祈るように、もう一度だけ瞼に口づけを落とすと、丸椅子を引き寄せて枕元に座り、布団の中に手を入れて冷たい指先をそっと握りしめる。
 どれほど時間が経っただろうか。点滴を取り替えに来た看護婦が控えめに声をかけてくる。
「谷山さんだったかしら?」
「はい」
 ナルを担当してくれる看護師はすでに婦長の立場にある年配の女性だった。
 五十代にはなっているのだろうか。婦長でもある彼女がわざわざ飛び込みの患者を担当したのは、若い看護師達が担当希望を名乗り出て収集が付かなくなったからだと、苦笑を浮かべながら教えてくれたのだ。
「若い子達が騒ぐのもしかたないぐらい綺麗な方ですけれど、仕事に支障が出るようでは困りますからねぇ」
 思わず麻衣もその理由に苦笑を浮かべてしまう。
 ただ、眠っているだけのナルは、まさに文句なしの美青年で非の打ち所がなく、彼を知らない人間が夢を見ても仕方ないことだ。
 ナルをじっと凝視する麻衣を婦長は穏やかな眼差しで見つめていたが、ふと表情を引き締める。
 彼女がまだ意識の戻らない患者を心配する気持ちは、婦長にも良く判っていたが、病院の規則を伝えにやってきたのだ。
「うちの病院は完全看護なの。だから、夜の付き添いはお断りしているのよ。
 それにもう、時間も遅いし、谷山さんのご家族も心配しているんじゃないかしら?
 渋谷さんの容態は安定していて心配はないから、また明日いらしてもらえる?」
 確かにナルの容態は安定し、今夜にでも意識を取り戻すだろうと医者は言ってくれたが、麻衣は意識が戻る時傍にいたかった。
 ナルが普通の人のように、意識を取り戻した時に自分一人だと言うことを不安に思うタイプではないことぐらい判っているが、それでも傍に人が居るのと居ないのとでは違う。
 何よりも、ナルの意識が戻らないまま、自分がこの場から離れたくはなかったのだ。
 もう大丈夫だと判っていても、不安に押しつぶされそうになる。
 万が一・・・万が一容態が急変したら・・・その可能性はすでにないと言われているが、百%絶対ないとは限らない。
「いちゃ駄目ですか?」
 よほど不安そうな顔をしていたのだろうか。
 そう聞き返すと婦長は非常に困ったような顔をする。
「重篤患者の付き添い以外は、規則でお断りしているの。
 それに、もう十時になるわよ? おうちの方が心配して居るんじゃないかしら?」
 もっともな心配を婦長は口にする。
 彼女にも麻衣と同じぐらいの年頃の娘がおり、こんな時間まで帰ってこなかったらかなり心配になる。今の世の中夜道を平気で歩けるほど安全とは言い難くなってきているのだ。この時間から帰れば、11時にはなってしまうだろう。
「いえ・・・私、家族とは死別して居るんで・・・・・身よりはいないんです」
 こういう時に言うのは卑怯だとは思うのだが、なりふり構っている余裕はなかった。
 婦長が麻衣の言葉に息をのみ、言葉を続けられなくなったことに気が付くが、麻衣はいつものように明るくフォローを入れない・・・入れることはできなかった。
 ただ俯いたままぎゅっとナルの手を握る手に力を入れて沈黙をたもつ。
 しばらくの間は、「でも・・・」と迷っていたようだが、すっと婦長から視線を離して、ただ、ナルを見つめる麻衣の横顔をしばらく見ていたかと思うと、ふっとため息を一つ漏らした。
「個室だし、他の患者さんの迷惑になる訳じゃないから、私から先生の方に説明しておきますね」
「ありがとうございます」
 点滴を取り替えて婦長が出て行くのを見送ると、麻衣は再び視線をナルへと戻す。
 ほんの一瞬でも視線をナルから離すことが怖かった。
 目を離した好きに、全てが終わってしまいそうで・・・そう思うだけで、息をすることを忘れてしまったかのように、胸が苦しくなる。




















第五話へ続く