熱い空気の塊が、ナルの掌から解き放たれる。
 ナルの無茶を止めたくて、伸ばした手はナルまで届かない。
 風が吹き荒れ髪が一瞬視界を隠す。短い髪が邪魔をして、ナルが見えない。
 顔に張り付く髪を無理矢理かき上げてどかした先では、ゆっくりとスルーモーションのようにナルが倒れてゆく。
 震える身体は言うことを聞かず、近づくことさえおぼつかない。
 それどころか、足がまるでその場に張り付いてしまったかのように、重くて重くて動かせられない。それでも、無理にナルの元へ駆け寄ろうとすれば、バランスを崩し前のめりに倒れる。
 這いずってでもナルに近づこうとするのだが、今まで踏みしめていた床が急に泥沼のように柔らかなものになり手がずぶずぶと沈み始めていく。
 手だけではない。足もゆっくりと床の中に沈んでいく。
 いったい何がどうなっているのか。
 今まで堅いフローリングの床だった。なのに、なぜ、手が足が底なし沼にはまってしまったかのように沈んでいくのか。
 抜け出そうと藻掻いても自由にならず、ねっとりとしたものが四肢に絡みつき、引きずり込もうとする。
 黒く形のない全てを飲み込むものに世界は変わっていた。
「・・・・・っ!」
 自由にならない身体を捻って、当たりを見渡す。
 その中に飲み込まれようとしているのは自分だけではない。
 意識を無くしたナルも、ゆっくりとまるで海の中に沈んでいくように、暗い闇の中に沈んでゆく。
 足が沈み、腕が沈み、身体が沈み・・・・・・・・・・
「やぁ・・・」
 必死になって手を伸ばしてもナルには届かない。
 それでも指を、腕を伸ばし、泥をかき分けるようにして進む。
 汗が浮かび、額を流れ落ちる。
 一歩動くまでに、膝まで埋まり、四歩進むまでに大腿部まで沈みあっという間に胸元まで闇の中へ沈んでいた。
 漸く、ナルに指先が触れた時には顎まで迫ってきていた。
「な・・・る・・・」
 安堵のため息をついて、指先に力を入れてぐっと握りしめる。
 だが、漸くナルに触れた麻衣の目が見開かれる。
 やっとの思いで触れた指先には、あるはずの温もりが感じられない。
 冷たく硬い物としての感触しか・・・・・・・・・・


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ」


 掠れた声が空気を震わせる。
「・・・・・っっっっっっっっ!!!」
「おねぇさん?」
 薄暗い室内に、麻衣の悲鳴と千鶴の声が同時に響く。
「おねーさん!しっかりしてください!!」
 肩を上下に揺すられたことにより、涙に濡れていた双眸が焦点を結ぶ。
「・・・・・っつあ・・・・・ち・・・千鶴ちゃん?」
 千鶴に焦点を結んだ後、麻衣は漸く周囲に視線を向ける。
 照明がギリギリまで落とされている室内では、ぼんやりとした輪郭しか判らなかったが、それでもここが、どこだと言うことを思い出すには十分だった。
「・・・・・病室・・・・・・・・・・・・・・・」
 ため息を吐くように漏らされた言葉と同時に、千鶴もほっと安心したように安堵のため息をつく。
 じっとりとした汗をかき額に張り付いている前髪をかき上げて、漸く麻衣は状況が把握できた。
 ナルに付き添っているうちにいつの間にか眠ってしまったようだ。
 そして、あの悪夢を見て目が覚めたのだろう。
 それにしても、最悪な夢だ。
 やっと触れたと思ったナルが、氷のように冷たくなっているなんて、最悪以外なんと言えばいいと言うのだ。
 右手は未だにしっかりとナルの手を握っており、そこからは確かに人が生きている証の温もりと、肉の柔らかさを感じるというのに・・・・・
 もしも・・・という不安が見せた夢。だ。
 そう、アレはただの夢だ。
 ナルは生きているのだから・・・・・
「麻衣おねーさん」
 ナルの手を握りしめたまま、憔悴しきっている麻衣に、千鶴は恐る恐る声をかける。
 眠っていたと思ったのだがいつの間にか目を覚ましていたようだ。いつの間にか肩に毛布がかかっていた。おそらく千鶴がかけてくれた物なのだろう。
 その事さえも気づかなかった自分に苦笑が浮かぶ。
「おねーさん、大丈夫ですか・・・? 顔色がすっごく悪いですし、魘されてましたけど・・・」
 自分が少女のことを気にかけなければいけないというのに、逆に心配されてしまい、これで預かると大見得を切ったのだから、情けないにも程がある。
 この病院に来てどれほどの時刻が経ったのか判らないが、完全看護だから帰って欲しいと言われたのを、無理矢理頼み込んでからさらに時間が経っている。
 時計を改めてみれば、時刻は後少しで日付線を越えるような時間帯だった。
「私は大丈夫だよ。心配かけちゃってごめんね。
 おなか空いた? それとも喉かわいたかな。何か買ってこようか?
 病院の売店は閉まっているだろうけれど、コンビニならやっているだろうから買ってくるよ」
 身体の向きを変えて視線を千鶴に合わせるものの手を離すことはなかった。
 ナルのことで頭がいっぱいで、空腹感も何も感じず失念していたが、少女はきっとお腹もすいているだろう。だが、少女も気が高ぶったからだろうか。それとも、親に拒絶されたショックからか、空腹感は覚えていないようである。
「平気です。あまりお腹空かなくて・・・あの、それよりおねーさん、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「おねーさんは、おにーさんと恋人同士?」
 脈絡もない質問に麻衣は思わず目を丸くして、千鶴を見つめ返す。
「おねーさんの上司だって聞いてますけど、おねーさんとっても心配そうだったから。
 あたしにはよく判らないんですけど、とっても不安そうにおねーさん、おにーさんのこと見ているから、恋人同士なのかなって思って・・・・違っていたら、ごめんなさい」
 真っ正面から改めて問われると妙に照れくさい物を感じるが、麻衣は頬を赤く染めながらもうなずき返す。
「そうだよ。ナルはね、私の世界で一番大切な人なの。
 とっても、とっても・・・誰よりも大切な人」
 千鶴から視線をそらしてナルを見つめながら、真摯な声で呟く。
 とても、誰よりも大切な人だと。
 握っていない方の手を伸ばして、乱れている前髪にそっと手を伸ばして整える。
 さらり・・・とした感触が指をなでてこぼれ落ちてゆく。
 そのまま、頬に軽く触れてから放す。
 まだ、手のひらから伝わる体温は冷たかったが、倒れた当初ほどではない。
 脈も呼吸も安定しており、今は薬が効いてただ眠っているだけなのだ。
 千鶴はそんな麻衣を羨ましそうに見つめながら、さらに問いかける。
「あのね、おにーさんもあたしと同じなんですか?
 あたしと同じ、化け物みたいな力を持っているんですか?」
 深く傷ついた少女は、自分と同じ力を持つ人を見つけ、唯一の救いのような眼差しをナルに向ける。
 どんなものよりも真剣だった。
 綺麗な男の人に対する憧憬や、自分を守ってくれた年上の異性に対する初恋といった淡い物ではなく、もっと深く、深く、わらにでもすがるような思いで、ナルを見つめる。
 一見すれば、まるでたった一人の男を愛してしまったかのように。
 そんな目で、ナルを見ないで欲しいと・・・・思ってしまう自分に嫌気がさす。
 彼女がナルに対しすがるような思いを抱いたとしてもおかしくないというのに。
 それでも、そんな目でナルを見られるのは我慢できなかったのだ。
 だから、無意識に動いてしまう。
 少女の目からナルを隠すように立ち上がると、自分より幾分背の低い少女をそっと抱き寄せる。
「あのね、千鶴ちゃんもナルも普通の人だよ?
 けして多いとは言えない。それどころか絶対数は少ないだろうし、めったに出会えることもないかもしれないけれど、ものすごく珍しいことじゃないの。
 特に千鶴ちゃんの場合は、一時的な物の可能性が強いから、だから『化け物みたい』だなんて言わないで?」
「おねーさんは化け物みたいって思わないんですか?」
「思わないよ」
「なんで? 伯父さんも伯母さんも、あたしのことを化け物でも見る目で見ていたのに、なんでおねーさんは、おにーさんの手を握っていられるの? おにーさんの恋人でいられるの?
 赤の他人ですよね? 血縁関係のある人でも化け物扱いしたのに・・・ずっと、親子として暮らしてきたのに・・・それでも、あんな怠惰尾になったのに・・・
 おにーさんは、あたしよりもすごいこと出来るのに、怖くないんですか?」
 麻衣は千鶴から視線をナルへと戻す。
 怖いも何もない。
 PKもサイコメトリーの能力もナルの一部にしか過ぎない。
 ただ、それだけのことなのだ。
 なぜ、その一部を否定する必要があるというのだろうか。
 その一部も大切なナル自身なのだから、麻衣の中では否定要素にはならない。
 ナルがPKを持っていると知った時には、自分の中でそれは異常な能力ではなくなっていた。そもそも、ナルとで会うきっかけの事件は、幽霊騒動のあった母校の旧校舎の調査に来ていた彼らと偶然知り合うことがあったのだ。
 あの事件も、原因はただの地盤沈下だが調査中幾度か不審な現象が起きた。まるで心霊現象のように。だが、原因は幽霊ではなく人にあった。
 クラスメートの心が起こしたポルターガイスト。
 正直を言えば確かに驚いた。だが、だからといって彼女が化け物だとは思ったことはない。異能者として嫌悪も感じなかった。
 何も知らなかったら、千鶴の伯父夫婦のような反応をしたかもしれない。だが、誰にでも起こりうる可能性があるのだと、ナルが判りやすく説明をしてくれたからだ。
 問題は、それを現実の事として受け入れられるだけの心の柔軟性があるかどうか。
「千鶴ちゃんのお父さんと、お母さんも今はびっくりしているだけだよ」
 千鶴はすでに父・母と言わず伯父、伯母と表現していたが、麻衣はあえて父、母と表現する。
「落ち着いたらきっと、千鶴ちゃんのことを抱きしめてくれるよ」
 そう、例えどんなことを言ってしまったとしても、時が経てば落ち着きを取り戻し、きっと彼女のことを受け入れてくれるに違いない。
 今まで13年間家族として過ごしてきているのだ。
 それが、たったほんの一ヶ月ほどの間に起きた出来事で壊れてしまうはずがない。
「無理ですよ」
 麻衣はそう思うのだが、千鶴はそうは思ってはいないようで諦めてしまっている声音に、かける言葉を見つけられない。
 千鶴はまぶしいものを見るかのように目を細めながら、麻衣とナルを見つめる。
 けしてかなうことのない夢か幻を見るかのように。
「あたしにも、おねーさんがおにーさんを思うように、あたしのことを怖がらずに思ってくれる人がいるのかな・・・・・」
 ナルが意識を戻っていたら、千鶴の起こした現象について判りやすく説明をしてあげれるだろう。ナルから聞いたことしか知らない自分では、少女の心を解きほぐすことが出来ない。
 何も出来ない自分が歯がゆく感じる。
「ねぇ・・・おねーさん。おにーさんを頂戴って言ったらどうしますか?」
 あどけない笑顔を浮かべながら問いかけてきた千鶴に麻衣は軽く目を見開く。
 それはどういう意味だろうか。
「同じ力を持っているおにーさんなら、きっとあたしのこと判ってくれると思うんです。
 あたしを怖がらないでくれる。
 だから、おねーさん・・・・・って、嘘です。冗談ですよ。おねーさんがおにーさんのこと臆面もなく大切な人っていうから、からかってみたくなったんです。だからそんな顔しないで下さい」
 そんな顔がどんな顔かは判らない。
 ただ、少女が・・・自分よりも幼い少女が、本心から思ったことを冗談に変えてしまうほどには情けない顔になっていたとは思う。
 少女の救いを求めるような声に、せめて気軽に返してあげれば・・・頑張って、自分からナルを奪えるような素敵な女性になってねと・・・励ますことを言えればいいのに、それを言うことは出来なかった。
 例え、励ますためとはいえ、それが冗談であっても言えない。
 ナルだけは誰にも譲れないから。
 絶対に譲りたくはないから。
 人を譲るとか譲られるとか表現するのは間違っていると判っている。
 ナルが聞けば勝手に人をもの扱いするなと怒るだろう。
 それでも、ナルは自分のだから他の人の物になることは許せないから言えなかった。
 少女を励ますための言葉でも。
 自分に嘘を付くことだけは、出来なかった。
「おねーさんが、本当にお兄さんのこと好きだって判ってますから。
 おにーさんを見るおねーさんの目、とっても優しいし、見ていて苦しくなるほど心配しているのが伝わってきましたから。
 ごめんなさい。悲しませて。
 あたし、もう寝ます。なんだか今日は色々あって疲れちゃいました」
 黙り込んでしまった麻衣に構わず、千鶴は用意された仮眠用ベッドに潜り込むと、麻衣に背を向けて頭から毛布を引っ被る。
 全てを拒絶するように背を向けられ、麻衣はどうすることもできないでいた。



















第六話へ続く