翌朝、麻衣は千鶴にナルを見張っていて欲しいと頼み込む。
 目を離すとすぐに仕事か読書をしだすから、安静にしているように見張っていて欲しいと頼み込んだのだ。
 千鶴は意味がよく判らなかったが、自分で出来る範囲ならと引き受けると、麻衣は元気よく病室を飛び出していく。
 ほどなく病院の出入り口から飛び出していく麻衣の後ろ姿を、病室の窓から見送りながら首を傾げる。仕事はともかくなぜ読書まで禁止されるのだろうか?読書ぐらいなら弱った身体に負担を掛けるとは思わないのだが・・・千鶴には今一つ理解できなかったが、麻衣が飛び出して10分と経たないうちに、本に手を伸ばしはじめたナルに、それでも一応約束を守るため口を開く。
「麻衣おねーさん、ちゃんと休んでいてって、言ってましたけど・・・本も読んじゃ駄目って」
 麻衣が言っても無駄なことを他人が言って聞くわけもなく、ナルはまるで声が聞こえてないかのように本を読み続ける。
 まさに一心不乱・・・凄い集中力故に聞こえてないのか、それとも聞く気がないのか。千鶴にはまったく皆目検討付かなかったが、とりあえず千鶴が判ったことは一つ。
 自分が何かを言っても無駄だと言うことだろう。
 麻衣がいる間だけは、一応それなりに静に横になっていたが、彼女が姿を消すなりコレである。聞く気は毛頭無いと言うことなのだろう。
 少なくとも麻衣が千鶴にしていた注意事項は全て聞いていて、判っていてやっているのだから。
 とりあえず、麻衣との約束を果たすために一度は注意したが、しつこく何度も言うことはしなかった。
 さて、どうしようか。
 着替えは麻衣が貸してくれたから着た切り雀にはならずにすんだが、自分の物は何一つ無い。5千円ほど好きに使って良いと言われて渡されているが、人様のお金を好き勝手に使うのは気が引けるため、食費以外に使う気にはならない。
 せめて財布ぐらい持ってくれば暇つぶしができたのに・・・・ナルに本を借りて読んでみようかとも思ったのだが、彼が手にしている本が全て洋書と知り断念した。
 することもなく、かといってテレビを付けることも気がひけ、ぼんやりと空を眺めていると、なにを思ったのか、ナルは洋書から視線をそらすことなく千鶴に声をかけてきた。
 ページをめくる音以外ほとんど聞こえなかった部屋に、艶やかなテノールが密やかに響く。
「期待はしてない?」
 疑問系だが、答えは聞かなくても判っているような響き。
 その問いに少女は同意するようにコクリとうなずき返す。
 少し寂しげな微笑みを浮かべつつも、現実は現実と認めているようだ。
 いや、すでに諦めていると言うべきだろうか。
「おねーさんには悪いけど・・・たぶん、お父さんもお母さんも考えは変わらないと思うんです。
 あたしは、もうあの人達の自慢の娘にはなれないから。
 家の中めちゃくちゃにしちゃったし、わけわかんない事しちゃったし・・・・もう一生あたしの顔なんて見たくないと言うと思います。
 あんな騒ぎになちゃったら近所の噂もあるし。
 あの人達は・・・そういうの凄く気にする人達だから」
 例え子供でも十二年間共に生活してきただけあって、彼らがどんな性格をしているのかは十分に判っているのだろう。
 それでも、いつかは・・・と思って頑張ってきたのだろうが、その願いは届くことなく砕け散ってしまった。
「近いうちに、どっかの田舎にある全寮制の中学に編入することになると思うんです。そんなこと言ってましたし。
 それまで、ご迷惑かもしれないけれど、置いて下さい・・・あたし、他に行くところもうないんです   
 ペコリと頭を下げられナルは軽くため息をつく。
 十中八九、少女の言うとおり名取夫妻は少女を全寮制の学校にでも転校させるだろう。
 自分達の理解を超えた、得体の知れない事をする少女を自分達から隔離するために。外聞を憚るような騒動を起こし、これ以上の噂が辺りに漂わないうちに、早急に動き出すに違いない。
 だが、それで問題が解決するわけではない。
 この手の問題はデリケートすぎ、他人が口を出せることなどたかがしれている。
 原因を解明することは簡単だが、根本的な解決は他者が出来ることではないからだ。
 何かを考え始めたかのように、黙りをこんでしまったナルにそれ以上千鶴も話かけることもできず、答えを聞けないまま視線をふいっとそらして外をぼんやりと見ていると、扉が軽くノックされ、眼鏡をかけた知的な青年が姿を現す。
「お見舞いが遅くなりました」
 爽やかな・・・とは彼のことをいうのかもしれない。ジーンズにポロシャツといったラフな服装ながらも、軽い印象はなく、スマートな雰囲気の青年は、にっこりと千鶴に向かって微笑みかける。
「こんにちは、安原と言います。谷山さんの同僚です」
 初対面になる彼は、年下だからと言って砕けた様子はなく、優しい口調で自己紹介をされ、千鶴もぺこりと頭を下げる。
 同僚と言うことは自分が起こしてしまったことを知っているはずだが、彼の態度もまた何も含むものはなく自然に接してくれることに、知らずうちに張りつめていた息をそっと吐き出す。
 おみやげにと持ってきてくれたケーキを受け取ると、安原と名乗った青年は、ナルの方へと近づく。
「機材の撤収の方は終わりましたので、ご報告に参りました。で、報告書です・・・と言いたいんですが、谷山さんに怒られるんで報告書は、退院してからということで」
 ナルに睨まれるのもなんのその、ニコニコと癖のなさそうな笑顔を浮かべながらしゃあしゃあと言い放つ。
「で、その谷山さんなんですけれど・・・?」
 てっきり病室に張り付いて、仕事をしないように見張っている同僚がいると思ったのだが、病室にいるのは件の少女一人だけ。何とも不思議な組み合わせに、安原は首を傾げる。
「麻衣は、名取家の方に」
「名取家にですか?」
 事情を簡潔にすると、安原も麻衣らしいといって苦笑する。
「確かに知らんぷりできるようなことでもないけれど、難しいですよねぇ・・・・あの人達を説得するのは」
 ナルが倒れて麻衣が現場を離れ、入れ替わるように名取家に入った安原だが、それでも十分なほど彼らの人となりは理解できたのだろう。しみじみといい放つ。
「きっと険もほろほろ・・・・・」
 少女が居ることを思い出したのか、言葉を呑むが少女は「気にしてないです」とだけ答え、貰ったばかりのケーキの箱を開く。
 中には二つだけケーキが入っていた。たぶん、自分と麻衣の分だろうと思い、再び蓋を閉ざして冷蔵庫へしまう。
 一人で食べるよりも二人で食べた方がきっと美味しいだろうと思ったからだ。
「そっか・・・・・谷山さんあがいているのか・・・でも、今回はちょっと分が悪いですよね・・・問題が問題ですから」
 さすがの安原も、得意の舌先でどうにか出来る問題ではないと判っているからこそ、麻衣の後援をすることができず、重々しいため息を漏らす。
 が、ふとナルが視線をあげる。
「安原さんに一つ調べて貰いたいことがあるんですが」
「何ですか?」
 今は特にこれといった仕事もなく、またこの前まで手がけていた名取家の調査も終了しているため、新しく調べるようなことは何もない。
「勝算はあるとは言えないでしょう。あくまでも、安原さんの動き方で決まります」
「それはまた、やりがいがあるようなことですね。で、なんでしょう?」
 ナルらしくない回りくどい言い方に安原は首を傾げる。
 幾ら、一の指示で十を理解する安原とはいえ、ただ調べて欲しいと言われて判りました。では調べてきますと言えるわけがない。
「後で指示を出します」
 今この場ではっきりと言わないということは、少女に関わりがあることなのだろうか? でなければ、端的に指示を出すはずである。
 おそらく、その想像は外れていないだろう。
 そして、少女も何か察するものを感じたのかもしれない。
 少女は聞いていませんと言わんばかりに、ジュースを買いに行ってくると言って部屋を出て行く。
「なかなか、察しのいい子ですね」
「今まで、家族の顔色をみて生活をしてきたからでしょうう。
 無意識のうちに周りの様子を察するよう習慣付いている結果です」
「可哀想ですね。あの年でそんな処世術を身につけてしまうのは」
 ナルは思わず貴方がそれを言うか? と言わんばかりの視線を向ける。
 越後屋という異名を持つ安原ならば、彼女ぐらいの年には如才なく立ち回っていただろう。それこそ、彼女以上に。
「で? 僕は何を調べてくればいいんですか?」
「彼女の父親について調べてみてください。
 場合によってはそれが解決の糸口になるかもしれません」
 今まで放ったらかしにしていた彼らが、今更千鶴を引き取ると言い出すとは思えないが、何もしないより可能性があるとでも、ナルは言いたいのだろう。
「判りました。出来る限り早急に調べてみます。で、場合によっては引き取りの話を持ち出しても?」
「その辺の采配は安原さんに任せます」
「了解しました。詳細が判り次第連絡を入れます」
 安原は、思い立ったが吉日と言わんばかりに、身を翻すと病室を後にした。
 人が入れ替わり入っては出ていく、慌ただしさがきえ漸く一人に慣れたと思うと、千鶴が戻ってきた。
 常に顔色を伺っているだけあって、どこか恐る恐ると言った感じで室内に入ってくる。ナルが不機嫌なのも伝わっているのだろう。
 だが、他に行くところもないせいなのか、それとも麻衣に見張るように頼まれたからなのか、千鶴は静かにドアを閉めると、説いただげにナルを見る。
 こんな状況でもなければ、ナルは他人の存在が身近にあることを拒むのだが、今の彼女は拒まれることに過敏になっており、何が引き金になるか判らない状態でもあるため、ナルはため息を一つ付くと「座ってなさい」とだけ告げた。
 拒絶はされていないと思ったのか、千鶴は再び椅子に座って外をただぼんやりと眺める。
 話しかけられるわけでもないため、神経にも障ることもなく、ナルは再び読書に熱中していく。
 ある意味、過ごしやすい一時を過ごしていたのだが、ナルにとっての幸せな時間は、いつまでも続かなかった。
 平穏な時間は、ナルが唯一テリトリーに入ることを許している存在によって、いつものごとく破られる。
 麻衣が戻ってきたのは夕方になってからのことだった。途中担当医と話してきたのだろう。
「退院は三日後だって。過労の色も濃いから、しばらくは安静にして身体を休めた方がいいって。
 普段からの不摂生がこういう時に出てくるんだよ。これを機に生活態度改めなよね。まったく、過労って言うより栄養が足りないって言われちゃったよ! 今時栄養失調で倒れるなんて、時代遅れなんだからね!
 そもそも、何で栄養不足になるかなー。私がご飯作ってあげているのに。私がマンション行かない時ろくなモン食べてないでしょ?」
 帰りにマンションにも寄ってきたのだろう。替えのパジャマを紙袋の中から取りだし、その他に一冊の本も取り出しながら、ぶつぶつと文句を続ける。
「入院中読んでいいのはこの本だけね。
 下手にすべて取り上げると、無理矢理退院しかねないし。パソコンのたぐいは絶対に厳禁だからね! 安原さんやリンさんにも持ち込み厳禁って言ってあるから、頼んだって駄目だからね・・・・・・って、千鶴ちゃん?」
 戻って来るなりテキパキとナルの面倒を見始めた麻衣に、千鶴は最初面食らっていたものの、やがてクスクスと笑みをこぼす。
「おねーさん達、恋人同士って言うよりも夫婦みたいです。
 いいなー。おねーさん達の間に生まれた子供って幸せそう。すっごく大切に育てられそう。どんな子でも」
 最後はどこか寂しげに呟かれるが、麻衣は気が付かず照れたような笑みを浮かべて、頬をポリポリと書いている。
「でもね、千鶴ちゃん。今の私はすっごい大きな子供のお母さんになった気分だよ。
 こいつってば、目離すとすーぐやっちゃいけないことやろうとするしさ」
 腕を組んでナルを見下ろす麻衣を、ナルは鼻で笑う。
「何かしでかすのはお前の専売特許だろう」
「ちょっと、まるで私がいつも何かやらかしているような言い方しないでくんない?」
「人の忠告を無視して、暴走したあげく、騒動を大きくしてくれるのはどちら様で?」
「むかつく! むかつく! むかつくぅぅぅ<」
 地団駄を踏みながら騒ぎ出しそうな麻衣にたいし、千鶴は笑いが先ほどから止まらないでいた。
「おねーさん達の方が夫婦らしいです。
 お父さんとお母さんは、夫婦と言うよりもまるで旦那様とお手伝いさんみたいな感じで、お父さんの言うことは絶対だったから。
 おねーさんと、おにーさんのように何かを言い合うなんて所見たことないです」
「千鶴ちゃん・・・・・」
 両親が娘に接する態度だけでもなく、夫婦関係にも子が親の顔色を伺わずにはいられない状況があったようだ。
 麻衣は思わず本当にそんな環境に彼女を戻していいのか迷ってしまうが、だからといって彼女には両親はいないのだ。
 今まで通りの環境で、親子関係を築いて行くのが彼女にとって一番いいはずなのだが、麻衣ははっきりとそう言い切れなくなっていた。
 だが、迷ったからといって他に方法はないのだが。
「それより、成果は?」
 洋書に視線を落としながらの問いかけに、麻衣は思わず「うっ」と声を漏らす。
 わざわざ見なくても判る。眉を寄せ渋面を作っているか、何かをごまかすように引きつった笑みを浮かべているか二つに一つ、もしくは両方だろう。
「まぁ、聞かなくても結果は判っているが」
 腹芸の出来ない麻衣が、正面から挑んでどうにかなるものだったら、とうの昔に改善されているだろう。
 案の定、麻衣は話し合うどころか家の中にも入れてもらえなかったと、しどろもどろに答える。
「でも、私負けない! 絶対に考え直してもらうんだから!!」
 と、宣言したものの・・・それから、二日経とうとも結果は変わらず、家の中に入れて貰うことすら出来なず、とうとういい加減にしてくれだの、警察を呼ぶぞだの険もほろほろどころか、インターホン越しの会話すら成り立たなくなっていた。
 そればかりか、千鶴が名取家を出て三日目、ナルが無事に退院し自宅療養のためマンションに戻ってきた時、事務所にいるリンから電話が掛かってきた。
 三日後には千鶴を転校させるから、直ぐにでも千鶴を家に戻すようにという無情なお達しであった。
 その連絡をリンから受けたとたん、麻衣は「そんな・・・」と声を漏らしてしまう。
 今、少女をあの家に戻すことは同じ事を繰り返すだけだと言うことは、麻衣とて簡単に想像がつくことだった。
 千鶴がポルターガイストを無意識のうちに起こしてしまったのは、寂しいからだ。それは、少ない時間だったが一緒に生活してみて麻衣にも良く判った。
 一緒にいる間千鶴はポルターガイストを起こすことはほとんどなかった。時折夢に魘されたとき物を動かすことがあったが、それも麻衣がそっと手を握ってあげると沈静化する。
 他人でしかない麻衣が触れるだけで、彼女は安堵感を感じるのだ。
 もしかしたら他人だからこそかもしれないが、彼女はただ純粋に人との触れあいを・・・・普通の親子としての触れ合いを望んでいたからだ。
 その願いが叶うばかりか、少女は見知らぬ土地へとやっかい払いをされてしまう。それでは、逆効果であり何の解決にもならない。
 一人ぼっちになるのは辛く寂しく心細い。
 その事は頼る身寄りが一人もいない麻衣には良く判る。
 だが、麻衣には親の無償の愛情が暖かい記憶として残っている。優しい思い出としていつまでもいつまでも自分を支える糧になっている。
 だが、彼女はその糧となるはずべき親に捨てられるのだ。
 傷つきボロボロになった少女の繊細な精神が、保つわけがない。
 絶対にそれは避けなければならない。
 だが、保護者が子供を帰せと言ってきたのならば、それに従わないわけにはいかない。麻衣にはそれを止める手段がなかった。
 悔しそうに唇を噛みしめて言葉を呑む麻衣に、千鶴は微笑を浮かべて感謝を告げる。
「おねーさん、おにーさん。お世話になりました。
 あたし、すっごく嬉しかったです。何も考えずにすごしたのって初めてかも・・・・・この数日間が夢のようでした・・・・だから大丈夫です。
 夢の世界はいつか終わるものだから・・・・・・・とても、楽しかったです」
 全てを諦めきった顔の千鶴をこのまま帰すことはできず、麻衣は縋るようにナルを見つめる。
 いくらナルとて万能ではないのだから、出来ることと出来ないことがあるのはもちろん麻衣とて判っている。
 病み上がりの状態で無理をさせたくもない。
 だが、それでもナルならば何とか出来るのではないかと、つい過剰な期待をしてしまう。
 そんな麻衣の訴えてくる視線に、ナルは呆れたようなため息を漏らしす。
「麻衣、安原さんに連絡をして状況を伝えてみろ」
「安原さんに・・・・・?」
 彼はすでに、名取家の調査報告書をまとめ、いつもの事務仕事に戻っているはずなのだが、なぜかナルは安原に連絡を入れてみろという。
 だが、ナルになぜ安原に連絡を取るのかと聞いても答えてはくれず、麻衣は訳がわからないまま言われるとおりに安原に連絡を入れてみる。
『あちゃ〜、想像よりも向こうの行動が早かったなー。
 もうしばらくは、時間があると思ったんだけど、まぁちょうどいいかな』
「安原さん?」
 ナル同様安原も訳のわからないことを言っている。
『詳しいことは明日、名取家で説明するから今は聞かないで貰えるかな。
 大丈夫。とはまだ言いきれないけれど、僕も出来る限りのことはしてみるから、今はただ黙って信じて待っていてくれるかな』
 安原がなんの考えもなくこんな事を言うわけもなく、ナルも何も知らないわけではないだろう。今、安原が何をしているか知っている上で、連絡を取れと言ったに違いない。
 だが、それはまだ決定的なものではないから、安原もナルも口をつぐんでいる。
「明日名取家ですね? 午後で大丈夫ですか?」
『そうだね。二時ぐらいに名取家で落ち合おうか。そのぐらいなら、行けると思う・・・・・・』
 電話の向こうで、安原は誰かに問いかけた後、二時にと言い切り電話を切ったのだった。
 電話を戻すと麻衣は、といたげにナルに視線を向ける。
「僕も知らない。
 指示は確かにだした。だが、その結果は何一つ聞いていない。知りたければ、安原さんに聞け」
 その安原が、今はまだ話せないと言っているのだから、話にならない。詳しくは聞いてないとしても、ナルも何かしら知っているはずなのに。
「ちょっとだけでもいいの。千鶴ちゃんを安心させてあげたいの」
「何を話せば彼女が安心するんだ?
 今、確定していることはただ一つ。千鶴ちゃんの今の保護者は彼女を全寮制の中学に転校させると言うことだけだ。そのために彼女を帰宅させろと言ってきている。僕達に止める権利はない。
 それ以外の何を言える?」
「そうだけど・・・だけど、何か他に道があるから、安原さんが動いているんでしょ? なら、その事を話したら千鶴ちゃんだって安心するじゃない」
 しばらくの間は療養しなければならないというのに、書斎に向かおうとするナルの腕を掴んで引き留めると、麻衣は説明を求める。
 だが、ナルがその程度で簡単に考えを曲げるわけがない。
「下手に希望を持たせてどうする。
 それが、結局はうまくいかず、転校することになったら、さらに失望が大きくなるだけだ。
 余計な期待は持たせないに限る。そんなことも判らないのか?」
 ここ数日の少女に対する麻衣の傾倒ぶりをいい加減うっと惜しく思ってきたのだろう。棘のある言葉に麻衣は顔を歪める。
「お前は家族というものに夢を見すぎている。
 世界に存在する家族というものが、全てお前の理想通りではないことをいい加減覚えろ」
 自分の腕を振り払い、書斎に入り込むナルの後を追いかけようとする麻衣を、千鶴がそっと腕を掴んで止める。
「千鶴ちゃん?」
「あたしのことで、おにーさんと喧嘩しないで下さい」
「だけど!」
「おねーさんが、今まで色々してくれただけですっごく嬉しいです。
 あたしに、お姉ちゃんがいたらきっとこんな感じだったのかなってずっと思ってました・・・大丈夫です。あたし、一から頑張ってやりなおしてみます」
 諦めるのはまだ早い。ちゃんと説明をして、何もおかしくないことを判ってくれたら、家族バラバラになって生活をしなくてすむのだ。
 せっかく、本当の親子でなくても、親子として今まで関係を築いてきたのだ。これからも、築いていけるはずだ。
「無理なんです・・・もう、だってずっと同じ家に住んでいても他人同士だったから・・・・・
 家はそういう家族だったんです」
 麻衣には納得できなかった。
 確かに調査をしていけば、それなりに色々な家庭がある。
 だが、こんな家庭は見たことがない。
 親が子供を見捨てるだなんて・・・・・
 たった、数日一緒に生活しただけの他人を、肉親のように思えるほど、希薄な家庭環境だなんて想像できない。
 まるで、自分のことのように涙を浮かべる麻衣をみて、千鶴は麻衣が見た中で一番綺麗な笑顔を浮かべていた。
 だが、それは麻衣が望む幸せそうな笑顔では亡かったから、余計に痛かった。













 その夜、千鶴は早々に布団の中に入ったのだが、麻衣は諦めきれずナルに詰め寄る。
 が、ナルの態度は最初から変わらない。
「最初に言ったはずだ。
 お前が望む結果になるとは限らないと。
 最悪の場合は断絶する可能性もあると僕は事前に言ったな?」
「言ってたけど! だけど、このままでいいとは思えないんだもん!」
 他人の家庭環境になぜそこまで首をつっこめるのかがナルには判らない。
 調査はすでに終了しており、自分達が彼らに関わる必要などもうないのだ。
 こうして、マンションに少女を泊めていること自体、異常なことなのだ。
 ナルからしてみればなぜ少女をマンションに泊めなければいけないのだと逆に言いたいぐらいである。
 そもそも、麻衣は彼女の家庭環境が極悪のようなことを言うが、ナルから見れば麻衣が大騒ぎをするほど環境が悪いとは思えなかった。
 名取夫妻は、少女の保護者として・・・育ての親としての責務を十分果たしている。
 確かに、親子の親密な情というものは欠けていたのかもしれないが、誰にも非難されることない程度には保護者としての役割を果たしていただろう。
 ただ、そこに少女が求めるものがなかったために、起きてしまった事件なのだ。
 きっかけは一言で説明でき、解決策も一言で説明できることだが、それを現実的に実行するとなると、言うほどに簡単な問題ではないことをナルはよく知っている。
 いくら心理学を学び、ケアーをすることが出来るとはいえ、ナルが思うだけでも、千鶴が願うだけでも駄目なのだ。
 関わり合う全ての人間が、同じ思いで挑まなければ、独り相撲にしかならない。
「親子関係に他人が口を挟んでも事態は改善しない。
 まして、相手が口出しをされることを望んでいないのにしゃしゃりでることは、関係をよりいっそう悪くすることにしかならないのがまだ判らないのか」
「だからと言って、このまま見ないふりなんて出来ないよ」
 麻衣の性格から言えば、確かに少女の存在を忘れろと言っても無駄だ。だが、だからと言ってどうにか出来る問題ではないと言うことを、いい加減割り切らなければならない時なのだ。
「人の心は簡単には変えられない。
 麻衣は、母親と親密な親子関係が築けていたんだろう。だから、母親を亡くし一人になっても幸せな事を考えられる。親子なんだから、家族なんだから話せば判る、と。確かに世間一般的に考えるならばそうなのかもしれない。
 だが、親子だからと言って全てが必ずしも良好な関係を築けている訳じゃない。まして、血の繋がらなければなおさらだ」
「ナルがそれを言う? ルエラとマーティンが今のナルの言葉聞いたら、すっごく悲しむよ?」
 ナルはディビス家の養子だ。彼らとは一滴の血も繋がっていない。それでも、二人はナルを・・・今は亡きジーンを・・・二人を本当の息子のように愛している。
 ナルは表情を一つ変えず麻衣を見据える。
「僕だから言えるんだ。
 麻衣、僕の母親はネグレストだった」
 ルエラから聞いたことはある。
 ナルとジーンの母親がネグレストだったということは、なぜだかは知らない。それ以上のことを聞くことははばかり多くは聞かなかった。
 だが、ナル本人の口から聞くのは初めてだった。
「なぜ、ネグレストになったと思う?」
 その問いに答えられず沈黙を保っていると、ナルは軽くため息を吐き出す。
 おそらくこんな事がなければ言うつもりは全くなかったのだろう。
 言いたくも話したくもないであろう事を言わせている自分が情けなかったが、だからといって聞きたくないとも話さなくて良いとも言えず、黙って続きを待つ。
「ジーンは完全にとばっちりだな。あいつ一人だったらそうならなかっただろう・・・・」
 微かに浮かべられた自嘲は直ぐに消える。
「コントロールできなかったPKで僕はポルターガイストを頻繁に起こしていた。それこそ生まれてすぐからだ。そんな現象理解できるはずもなく、訳の判らない事に僕の母親は心を病んだ。
 父親は、そんな子供と母と生活事をすることに嫌気がさし、家を出て行ったようだ。詳しいことは知らない。気が付けば父はいなかったからな。
 狭く暗く薄汚い部屋に、母と僕とジーンのさんにんだけがただあった。
 母はやがて死んだ。父親がその後どうなったかは僕達は知らない。生きているのか死んでいるのか。どうでもいいことだ。知ろうとも思ったこともないがな」
 淡々と語られるナルの過去に麻衣は言葉もなくただナルを見つめる。
 本人から直接深く聞いたことはなかったが、こんな形で聞くことになるとは思わなかった。
 できれば、違う形で聞きたかったが、きっとこういう時でもなければナルがわざわざ自分の事を話すことはなかっただろう。
 案の定、余計なことを言ってしまったと言わんばかりにため息をつく。
「家庭というものに夢を持つのは自由だ。だが、全ての親子をそれに当てはめて考えようとするのは止めろ。かならずしもお前の考えているとおりな関係が築けている、もしくは築けるとは限らない。
 名取夫妻は保護者の責任を放棄したわけではない。
 彼らは千鶴ちゃんの存在を傍に受け入れることは出来ずとも、彼女の養育を完全に放棄したわけではない。ただ、それが金銭面のみであろうとも、虐待しているわけではない。これ以上他者がとやかく言える事じゃない。
 千鶴ちゃんの今後のことを考えれば、お前の言い分も理解できる。確かに何も問題は解決しないだろう。またポルターガイストを起こす危険もないわけじゃない。だが、これ以上僕達に出来ることは何もない」
 それ以上言うことはないと言わんばかりに、ナルは麻衣から視線をそらし再び手元の資料に視線を落としてしまう。
 麻衣はそれ以上ナルに訴えることが出来ず、ただ黙ってナルを見つめていることしかできなかった。
 片親とはいえ、親の愛情を疑うこともなく、生きてきた自分にはナルの受けてきた悲しさや辛さを想像することは出来ても、本当の意味で理解できることは出来ないだろう。
 それ以後自分を見ることもなく、拒絶しているようにも見えるナルを見ながら麻衣は、唇を噛みしめる。
 理解できることと出来ないことがあるのはもちろん判っている。
 判ってはいるが理解したいと思うのは、傲慢なことなのだろうか。
 母親がニグレストであり、父親は出奔。そんな環境で幼少期まで過ごしたナルには、家庭に対する暖かな思い出や懐かしさはないのだろうか。
 その後、養父母とはいえルエラやマーティンに愛されて来たとしても・・・・・
 ナルにも千鶴にも、幸せな家庭というものを知って欲しいと思うのは、傲慢な思いなのだろうか。


















第八話へ続く