翌日は、どんよりとした気分とは裏腹に雲一つない見事なまでの晴天だった。
新しいスタートには最適な天気なのだろうが、気持ちは天気のようにすかっと晴れることはない。
重々しい沈黙の中で食事を済ませると、麻衣と千鶴はナルの運転する車に乗って名取家へと向かう。
渋滞などにはまることなく予定通り、安原と約束をした二時を少し過ぎた頃、名取家へと到着する。
すでに彼は来ているのだろうか?
一晩経って少し冷静さを取り戻せたのだろうか。
幾ら安原でもこの問題を解決する糸口を見つけ出せるとは思えなかった。
車中でチラリと千鶴を見れば、彼女はもう諦めたのか、そもそも最初から期待していなかったのか、寂しげな・・・諦めきった表情でぼんやりと外を見ている。
そんな彼女を見ていると、何も出来なかった自分に歯がゆさを覚え、ぎゅっと拳を握りしめる。
何かできるほどの力など持っていないことは判っている。
それでも、ナルや安原でもこればかりはどうしようもできないと判っている。
それでも、一つの家族が目の前でバラバラになろうとしているのを黙って視ているのはできなかった。
どうして、自ら家族を傷つけ壊そうとするんだろう。
傷つけあいたいと思っても、傷つける相手を永遠に失っている麻衣には、彼らの姿があまりにも我が儘に感じた。
亡くしたときに欲しいと思っても、永遠に手に入れることは出来なくなると言うのに、なぜ簡単に自分の手で関係を壊そうとするのだろうか。
亡くしてみないと判らないのだろうか・・・
どれほど大きくて大切な存在なのかと言うことが。
「麻衣」
車を降りる前にナルに呼び止められる。
「お前は余計なことを言うな。余計に話が拗れる」
「でも・・・・!!」
「他者が出すべき問題じゃない」
冷たすぎる言葉。だが、正論だ。
ナルの方が行っていることは正しい。
「判ったな」
了承はできない。だが、しなければ中には来るなと言われるのだろう。
何もできなくても最後まで千鶴の傍にいてあげたくて、麻衣は不承不承ながら頷き返す。
それを確認するとナルは車を降り、インターホーンを押し名乗る。それから少しして、やたらとおどおどと周囲の状況を確認しながら、名取夫人がドアをあけ三人を家の中に招き入れる。
リビングには通されず案内されたのは客室の和室だ。
和室に入る前に見えたリビングの有様に思わず絶句してしまう。
麻衣だけではない、千鶴もだ。
外界から室内を隠すために青いシートが貼り付けられているため外から見えないが、窓はすべて取り外されカーテンもなにもない。壁には無数の傷や穴があき、壁紙も所々はがれている。家具はすべて撤去されたのか、室内には家具や調度類の類は存在せず、電灯すらない。がらんと・・・まるで廃屋その物であった。
薄暗い室内にあの日の凄惨さがよみがえる。
壁に大きく空いた穴は、ナルがPKで弾いた飾り棚であいたのだろうか。
六畳ほどの和室には、名取氏と安原以外に見知らぬ二人の人物がいた。
千鶴も知らない人間なのだろう。首を傾げている。
小柄な老夫妻で名取夫妻とは似てもにつかない。
なぜこの場にいるのか判らず、麻衣も首を傾げてしまう。
安原は理由を判っているのか穏やかな表情で麻衣を見、軽く頷くと千鶴の方に視線を移す。
「お二人は川岸さんご夫婦です。
御願いして今日この場に来ていただきました。千鶴ちゃんのお祖父さんとお祖母さんに当たります」
安原の説明に麻衣だけではない千鶴も驚きを隠せないようだ。ただ、ナルだけがいつもと変わらない。
「え・・・千鶴ちゃんのお祖父さんとお祖母さんって・・・だって、名字が・・・・・」
「父方の、です」
「父・・・方? え・・・ええええ?」
すっとんきょんな麻衣の声が辺りに響き渡り、ナルに五月蠅いとしかめっ面をされる。
名取氏も今日初めて対面したのか、渋面顔でその場に腕を組みながら黙って座っている。
「あたしに、父親って・・・いたんですか?」
居なければそもそも、千鶴はこの世に存在しないのだが、千鶴とって親戚縁者は母方しか居ないという意識が強いため、今まで思いにもよらなかったのだろう。
それこそ、父親は名前も素性知れない行きずりの男とでしか認識していなかったに違いない。
だが、実際は違ったと言うことが安原の説明で明らかになる。
「不詳ながらこの安原がご説明をいたしますので、とりあえず座ってください」
この中で全てを把握しているのはおそらく安原だけなのだろう。後は驚いた様子もないナルも判っているのかもしれない。
麻衣はせめてこのことを事前に教えてくれれば、昨日八つ当たりめいたことをナルに言わなくて済んだのにと思いながらも、黙ってその場に座る。
「所長の指示によって僕は、千鶴ちゃんのお父さんについて改めて調べてみました。
その結果判ったのですが、残念な事に千鶴ちゃんが生まれる前に事故で亡くなっていました。それが全ての始まりになります」
話は十四年前まで遡る。
当時名取氏の妹の清花(きよか)は一人の青年と恋に落ちた。
それが川岸悟であり、千鶴の父親に当たる。
二人は順調に交際を続け、やがて結婚を意識しはじめたころ悲劇が訪れたのだ。
清花の目の前で川岸は事故に遭い帰らぬ人となってしまった。
思いにもよらぬ唐突な別れに悲しみに暮れる中、それから二ヶ月ほどして清花は自分が妊娠していることを知る。最愛の人の忘れ形見になるため生もうと決意するが、兄に子供を堕ろすように命じられ、半ば強引に病院まで連れて行かれたのだが、清花は強行に意志を通して千鶴を出産したのが、今から十三年前の話になる。
その後、産後の肥立ちが悪く一度は回復したものの、身体は弱り切り寝たきりの生活になり、一年後悟の後を追うように病死し、千鶴は兄夫妻に引き取られることになったのだった。
そう、千鶴の父親も父方の祖父母に当たる川岸夫妻も、千鶴のことを放ったらかしにしていたのではない。千鶴の存在そのものを知らなかったのだ。
老婆は嬉しそうに顔をしわくちゃにしながら、千鶴を見つめているが、千鶴はいまだ戸惑いを隠せないず、おどおどとした視線で彼らを見つめ麻衣へと視線を移す。
「千鶴ちゃん・・・・・うちに来んさい。
もしも、千鶴ちゃんさえ来てくれると言うなら、あたしらは千鶴ちゃんを引き取りたいと思うて、名取さんとこに来たんよ」
安原が動き出してからそんなに日数は立ってないはずだ。ほんの短い期間で、祖父母を探り当て、事情を説明し、彼らが千鶴を引き取ることを決断したのだろうか。
いくら、彼らが寂しい老後を送っていたとしても、いきなり知らされた孫の存在に戸惑わないわけがなく、また簡単に引き取ることを決断できるわけもないというのに、彼らは迷うことなく孫娘へと手を伸ばす。
だが、千鶴はその手を取ることを迷う。
本当にその手を取っていいのか、手を取ったとたん拒絶されるのではないかという怯えが、彼女にためらいを生じさせていた。
「何も不安に思うことはないよ。
ぜーんぶ、わしらはこの人から話を聞いたから、何も心配することはないんだよ」
ニコニコと本当に人のよさげな笑みを浮かべる祖父母を、少女は信じられないように見つめる。
「あたし、変なんですよ?
普通じゃない力があるんですよ? お家見たでしょ。あたし、お祖父さんとお祖母さんの大切なお家をめちゃくちゃにしちゃうかもしれないんですよ?」
「大丈夫。
千鶴ちゃんはちょっと心が疲れているだけで、直ぐに治ることだって聞いているから安心しなさい。
なーに、空気が綺麗で自然がいっぱいあるうちに来たら、心の疲れなんて直ぐに飛んで、元気に生活が出来るようになるから」
まるで風邪なんか直ぐに治ると言わんばかりの言葉と、柔らかな微笑みとともにさしのべられる腕を、思わず掴みそうになるが、少女は触れる寸前で引っ込めてしまう。
「心の疲れって・・・そんな、簡単なことじゃないよ?
あたし、自分じゃどうにも出来ないんだよ? あんな化け物みたいなこと出来ちゃうのに・・・それでも、いいの?」
伸ばしかけた腕を片手で掴み、老夫妻の言葉が信じられないように、躊躇する。
「わし達の目には千鶴ちゃんは普通の女の子にしか見えんよ。
何も心配することはないんだから。お爺ちゃんとお婆ちゃんがずっと一緒にいるから、安心していいんだよ」
裏も表もない笑顔に、千鶴は顔をくしゃりと歪める。
麻衣が幾ら言っても本当の意味で、少女の心まで言葉が届くことはなかった。
もちろん、千鶴も麻衣が本心で言っていると言うことは判る。嘘やその場しのぎで言っている訳ではないと。だが、麻衣の全てはナルに向かっており、自分には本当の意味で心が傾けられていたわけではない。
そこにあったのは『同情』という感情だ。
むろん、同情でも腕をとってくれて抱きしめてくれたのは嬉しかった。
13年間一緒に住んでいた・・・親子として暮らしていた義両親にさえ化け物と罵られて拒絶されたのに、他人の麻衣は抱きしめてくれたのだから。
だが、だからといって本気で甘えるわけにはいかなかった。
いつか別れが来るのだから・・・いつまでも甘えられる相手ではない。
でも、彼らは、本心から言ってくれている。そして、ただ言葉で言うだけではなく手をさしのべ、一緒に暮らそうと言ってくれている。
自分を求めてくれている。
それが、判るから・・・判るからこそ逆に迷ってしまうのだ。
彼らの生活を滅茶苦茶にしてしまうのではないかという恐れと、彼らに拒絶されてしまったらと言う怖れ故に、手を伸ばすことにためらいが生じる。
「千鶴ちゃん、自分から一歩を踏み出すことも大切なんだよ?」
麻衣が笑顔を浮かべながら、千鶴の肩を軽く押す。それは、触れると言った程度なのだが、千鶴はそれに推されるように数歩足を踏み出し、シワシワでシミだらけの、それでも暖かみのある手をそっと・・・恐る恐る触れる。
「大丈夫。千鶴ちゃんはなーんも心配することはないから。お爺ちゃんとお婆ちゃんに任せていれば大丈夫。
もう、安心していいからね? これからは、三人で一緒に暮らそう」
小柄な祖父母よりもさらに小柄な、少女をそっと抱きしめ、頭を何度も何度も優しく撫でながら、名取氏を正面から見る。
「名取さん・・・千鶴ちゃんは、私ら夫婦が面倒を見ます。それで構いませんね?」
今まで黙って成り行きを見ていた名取氏は、願ったりかなったりだと言わんばかりに、作り笑いを浮かべる。
「こちらとて、そんな得体の知れない娘を引き取ってもらえるというならば、こちらから礼を言いたいぐらいだ。
できれば、一生二度とそんな娘と関わり合いになるのはごめんだ」
その言葉を聞いた瞬間、麻衣は頭に血が上ったのだが、それ以上に今まで優しい笑顔を浮かべ目を細めていた千鶴の祖母が、カッと目を見開いて名取氏を凝視する。
「あんたさんは、血の繋がった姪御を可愛いとは思えんのですか? それが、今まで娘同様に育ててきた、千鶴ちゃんに向ける言葉なんですか!?」
あまりの勢いに一瞬ひるんだ名取氏だが、すぐにいつもの自分を取り戻したのだろう。軽くため息をつくと、老婆を威圧するように上から見下ろす。
「この子がしでかした事を考えれば一目瞭然でしょう。
おかげで私達家族はめちゃくちゃにされたんだ! 近所中の良い恥さらしだっっっ!!!
荷物は後日お宅に郵送させますので、用事が済んだのならもう、出て行ってくれ!
私はもう金輪際こんな騒動に巻き込まれるのはごめんなんだ!」
自業自得だと言うことがまだ判らないようだ。
娘同然に育ててきたというのに、実の子が生まれたからと言って急に、態度を変えた彼らが招いた事態だと言うことをまだ理解していないというのだろうか。
「いい加減にしてください!」
麻衣が一歩出て今だに何も理解していない、彼らに対し声を張り上げるが、ナルが止めるように彼女の肩を掴む。
「止めないでよ!」
肩を掴む腕を振り払おうとするが、その手は思いの外強く肩を掴んでいてふりほどけない。怒りに頬を染めてナルを見上げるが、ナルはいつもと何も変わらない表情で麻衣ではなく、名取氏を見ていた。
「川岸夫妻が千鶴ちゃんを引き取ることで、今回のような騒動は起きなくなるでしょう。
ですが、あなた方の今後の心構え次第でまた、同じようなことが将来起きないという保証はありません」
ナルが脅すような事を言うと、名取氏は顔色をさっと変える。
「千鶴がまた何かをする可能性があるというのか?」
それは、まるで自分達に対する復讐を怖れているかのような表情。
「いいえ。千鶴ちゃんは落ち着けば大丈夫でしょう。今回の件はあくまでも一過性のものにしか過ぎません」
「なら!」
「あなた方のお子さんは、千鶴ちゃんだけですか?」
その問いかけに名取氏は顔を強ばらせる。
「あんたは、私の息子も将来同じ事をしでかすとでも言うのか?」
「あなた方の接し方次第では、可能性があります。
千鶴ちゃんとは従兄弟同士ですから、可能性がないとは限らないでしょう」
「私らの子に限って・・・・・」
「ないと言い切れますか?
なぜ、今回の騒動が起きたのか、あなた方はあなた方なりに理解すべきです。それは、千鶴ちゃんを引き取る引き取らないという話とは関係ありません。
あなた方が今回の件を振り返り、教訓にしなければ二度と起きないという太鼓判は、我々は押せません。言えるのは、今は大丈夫ということだけです」
ナルは言うだけ言うと、もう用はないと言わんばかりに、麻衣を促すと彼らに背を向けて歩き出す。
「待ってくれ! どうすればいいんだ」
「どうするかは、我々が教えることではありません。千鶴ちゃんを交えて、互いに話し合うことを進めます。
彼女の言葉を聞けば、何が原因になったのか、自ずと見えるでしょう」
それだけを言い残し、ナルは一人部屋を出て行く。麻衣はチラリとだけナルを見た後、千鶴の元に近づく。
「千鶴ちゃん、自分を押し込めちゃ駄目だよ?
我慢しないで、言いたいことがあったら、遠慮しないで言うこと。それが、巧くやっていける秘訣だと思うの」
「それは、おねーさんがおにーさんと巧くやっていっている秘訣?」
「うーん、どうだろう。
私は隠し事できないから言いたいこと言うけど、ナルはああだから・・・あまり、話してもらえていないけど・・・でも、必要なことは必要になったら言ってくれるから、遠慮せず言い合っている方。かな?」
人のことは判っても自分のことは意外とわからないものである。首を傾げている麻衣を見ながら、千鶴はクスクスと笑みをこぼす。
「大丈夫です。あたし、お婆ちゃんとお爺ちゃんと頑張って行きます」
今までのようにどこか寂しげで諦めた雰囲気は、その笑顔にはなかった。晴れきった空のように、憂いのない笑顔に麻衣も自然と笑顔が浮かぶ。
「あたし、お婆ちゃん達と行きますけど、伯父さん達ともっと色々話をしようと思っているんです」
祖父母にさしのべられた腕をとったことで、一歩踏み出る勇気が出たのだろうか。少女は求めるだけではなく、待つだけではなく、自分から動き出す勇気を得たように思えた。
そう、簡単に彼女達の間に出来た溝は消えないだろうが、この日を境に関係が終わるのではなく、新しい関係ができあがるのだろう。
「千鶴ちゃん、元気でね」
「色々ありがとうございました。おねーさんもお元気で」
あの時、千鶴を連れてこの家を出て行った時、笑顔で別れられるとは正直思っていなかった。
だが、結果的には笑顔で少女は自分を見送ってくれる。作り笑いでもなく、諦めでもなく、本心からの笑顔を浮かべて。
結局自分は何も出来なかったが、傷ついた笑顔しか浮かべられなかった少女が、ごく普通の笑顔を取り戻せたのだから、良かった・・・と素直に思えたのだった。
第九話へ続く