「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波こさじとは」
藤の籠
「いやでございます」
姫は澄んだ声で、目の前に座る父を見つめて哀願する。
「我が儘を言うても、そちの話は聞けん。
宣司が下り次第、そなたはこのワシの総領姫として入内するのだ。
そのために、裳着を終えても通う男を許さなかったのだ」
頭ごなしの父中納言の言にもかかわらず、姫は頭を振って頑なに拒み続ける。
「主上は未だ10を過ぎたばかりのお方。まだお若き主上の元へわたくしが上がっても、いかほどの寵を授かる事が出来ましょう。
わたくしではなく、五条にお住まいの姫ではなりませぬのですか? わたくしと同じ父君の姫ではございませんか。
五条の姫は、主上より少しばかりお年下。一回りも上のわたくしが主上の元に上がるより、五条の姫の方がお年も釣り合います。不都合などなにもないではありませぬか」
確かに、総領姫である娘がが入内をして主上の元に侍るより、五条に住まう二の姫の方が主上と年の釣り合いは取れていた。だが、あちらにいる姫はいまだ、裳着の式を終えておらず、さらに妾との間に出来た娘ゆえ身分が低すぎた。
総領姫とはいえもう二十を過ぎ、女の華やかさから落ち着きを持つ年頃。この年で夫がいないのは、よほど姫に問題があるか、帝の姫・・・未婚を通常通す内親王ぐらいであろう。
一介の臣下の姫が長い間夫を持たず、通ってくる者がいないというのは醜聞に過ぎないため、年頃になれば身分に釣り合った者を婿がねとして招き入れるのが通常だ。
だが、中納言には長年の野望があった。
日の目を見る事のない、家門を表へと出したかったのだ。
そのために、初めは先帝に娘を入内させようとしたのだが、娘が裳着の式を終える前に幼い東宮に近いうちに位を譲ると宣言してしまったのだ。その話を聞いた中納言は計画を変えざるをえなかった。遠くない未来退位する帝に娘をあげるより、まだ若い帝に娘をあげた方が、より未来に可能性がある。そのために中納言は新帝が即位するのを待ち、先帝から譲られると同時に、娘の入内を申し入れたのである。
幼い新帝には后が一人しかおらず、寵を得る可能性がないわけではない。
自分に他に姫がいれば、総領姫を先帝に上げ、他の姫を新帝に上げる事ができたが、中納言にとって宮中に上げられる姫は一人しかいなかったのだ。そのため、なりふりを構っている場合ではなくなり、話を進めたのである。
「五条の姫は内裏に上げられるほど、身分の良い生まれではない。まして、そなたのように教育も受けてはおらぬ。
お前は、このワシの総領姫じゃ。この藤原南家を復興させるべく、主上の寵を受け、皇子を授かり、ゆくゆくは皇后になるのがお前が生まれた役目だ! 何としても新帝の寵を得るのじゃ!!」
「父君!」
激高した中納言は勢いよく檜扇を閉ざすと、娘を指す。
「間違っても、殿上すらまからぬ男と密通するでないぞ!
そなたが不貞をはたらけば、わしばかりか我が一門全てが、未来への道をなくすのじゃ! その事、努々忘れるでないぞ!蝶子!!」
中納言はそれだけを言い捨てると、それ以上娘の言葉に耳を傾けることもなく、勢いよく部屋を飛び出していく。
「姫様・・・・・・・・・・・」
今まで、傍に控えていた乳姉妹がいたたまれない表情で姫の傍に寄ろうとするが、中納言と入れ違いに入ってきた、年かさの女房達によって、乳姉妹は姫を慰める言葉の機会をなくす。
「今日より、めでたく入内される日まで蝶子様のお身の回りのお世話は、わたくしどもがさせて頂きます」
髪に白い物が目立ち始めた、年かさの女房達はすべて中納言の周りを世話していた女房達だった。
父同様無機質な眼差しを持った女房達に囲まれ、蝶子ははらり・・・と涙をこぼす。
声もなく流される涙を見ても、女房達は無反応である。
彼女たちの役目は、宮中に上がるまで、一切の過ちを作らない事なのだから。
16年後
ぽろん・・・ぽろん・・・・かき鳴らされる琵琶の音が心地よく、響き渡る。
秋の鈴虫の鳴き声が、それに共鳴するかのように静かに響き渡り、御簾越しに見える蛍の淡い光が、まるで音色に合わせて舞うように暗闇の中を静かにたゆたう。
「緑子の琵琶を聞いていると、朕は心が和む」
穏やかな気質そのままの声に、琵琶をかき鳴らしていた緑子はフワリと柔らかな笑みを浮かべる。
「それは嬉しゅうございますわ。一生懸命練習したかいがありますもの」
「法鷹に教えを請うておるのだったかな?」
「さようですわ。主上お墨付きの法鷹殿に教えて頂ければ、お耳汚しにならない音になると思ったんですの」
緑子の言葉に、主上は楽しげな声を漏らす。
「そなたの楽の音は何人たりとも真似できぬよ。
緑子の微笑みのように柔らかで、暖かな音色だ。続きを頼んでも良いか?」
「もちろんですわ」
傍には女房達が数人いるが、まるで二人っきりしかいないかのように、穏やかで甘い空気が漂い始め、女房達はしずしずと二人の邪魔にならないように下がろうとするのだが、不意にその動きが止まる。
止まったのは女房達の動きだけではなく、緑子の動きも止まり琵琶の音が鳴りやむ。そればかりではない。辺りに心地よく響いていた虫の音も何時しか止んでしまっている。
藤壺と呼ばれる飛香舎に住まう者達は皆、太政大臣の息が掛かった者であり、その教育は徹底されているため、宮中に置いて粗相をする者などまずありえない。殿上人や他の御殿に住まう女房達の憧れの的となっているほどでありながら、にわかにざわめきが生まれていた。
御殿の端から広がるようなざわめきに、緑子と主上は不思議そうに顔を上げ、傍に控えていた女房達は不快に表情を歪めると、主に向かって頭を一度下げてしずしずと階に下がる。
御簾をくぐり、騒ぎの方へと視線を向けた女房はそのまま硬直する。
『・・・・・・やんごとなき、美しき方はおられまするか・・・・・・・・・・・・・・・・・』
嗄れた声が響く。
いつの間にか、虫の音も鳴りやみ、ムッとする空気が辺りに漂い始める。
御簾越しに見えたその影は歪な形をしていた。
身の丈は平均的な女人でありながら、額部から天に逆らうように伸びた二本の角がはっきりと見える。
異形・・・鬼と呼ばれるその姿に、女房達は声もなく戦く。
『・・・・・・・・・・こちらに、やんごとなき美しき方は、おられまするか・・・・・・・・・?』
「この御殿に、やんごとなきお方はおりませぬ。
どちらのお方にご用があられるのか、存じませぬが、こちらにはおりませぬ」
震える声がそれに返る。
たったいま、階へと出て行った女房だ。彼女は古くから女御に使えており、人一倍肝が据わっている。
再度聞こえた声に、室内にいた女房達は顔を強ばらせると、主である緑子と、主上へと近づく。
「桂の君が対応をなさっている間に、主上、女御様、塗篭のほうへ・・・・・・・」
主上も女御も立ち上がろうとせず、ゆっくりと首を振る。
「この部屋には、鳴瀧の結界が貼ってあるのだから、慌てる必要は無かろう」
幾分顔を緊張に強ばらせながらも、落ち着いた声音で告げる主上の言葉だが、それでも女房達の顔から不安の色は消えない。
主上が最も信用し、主である緑子も信用している陰陽師の存在は、女房達全員信用していたが、それでも万が一という事があるのだ。何が原因で不詳の事態が起こるかも判らず、もしも女御や帝の身に万が一の事が有れば、太政大臣家の沽券にも関わる。
「主上のおっしゃられる通りよ。
下手に動かないほうがいいと思うの。あの方にはどうやらわたくし達のことが見えていないようですし、下手に動いてこちらから教えてあげる事はないんじゃないかしら?」
緑子も慌てることなく、笑顔さえ浮かべている。
肝が据わっていると言うべきか、すでになれてしまっていると言うべきなのだろうか。主上の寵愛を一身に受けている緑子は、律令で禁止されている呪詛を最も受ける立場にいると言ってもおかしくはない。
今はまだ御子を授かってはいないが、主上の寵愛は眩しいほどであり、いずれは中宮に立つと言われている。なまじ、摂関家の流れをくむ太政大臣の総領姫であり、その右に並ぶ者は居ないと言われているのだ。その立場を妬んでいる者は数多とおり、呪詛対策として、鳴瀧は手っ取り早く藤壺殿に結界を貼っている。
色々な者が出入りし、宮中に住まう物の怪もいるため、局に入らないように結界を貼っているため、階まではこうして近寄れるのだが、それ以上室内に入ってくるためには、鳴瀧の結界を破らなければならない。
目の前を徘徊するモノを見る限り、その結界にさえ気づいていない様子だ。
ならば、さほど怖れる必要はないだろう。
『・・・・・・・・・・こちらに、やんごとなき美しき方が、おられるはず・・・・・・・・・・・・・』
声が苛立たしさを宿す。
御簾に移る髪影が風もないというのに揺らめくと、さすがに気丈を保っていた女房も腰を抜かしてその場にへたり込む。
「お・・・・・・・・・・おられませぬ!
ここに、貴方様の望まれる尊き方はおられませぬ!!」
悲鳴のような声が辺りに響き渡ると、深くため息をつく声が辺りに響く。
『・・・・・・・・・・ここにもおられぬのか? ならば、あの方はいったい何処へ行かれてしまったのだ。
妾を置いて・・・・・・・・・・・何処へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
風が強くはためく。
まるで野分のように強く吹き抜ける風は、御簾ばかりか几帳も大きく揺らめき、反射的に目を閉じてしまう。女房達も悲鳴を上げてその場にうずくまってしまっていた。何も視る事が出来ないような風の強さの中で、緑子は御簾の隙間から、風に揺らめく長い髪を見た。
真っ白い髪が月光を煌めかせながら、すっと溶けるように消えていく・・・・・・・・
そして、風はピタリと収まる。
唐突に現れたそれは、消える時も唐突だった。
彼女の姿が完全に消えたとしると、女房達から安堵のため息が漏れる。
「誰か、廊下にいる桂の君の様子を見てきて」
いきなりの事に、茫然自失とかしていた女房達だが、主のいつもと変わらない声音に己を取り戻すと、己の立場を思いだし、あわただしく動き出す。
風によって乱れた室内をあわただしく元に戻す者。緑子の指示に従い廊下にへたり込んでしまっている桂の様子を見に行く者、残りは帝と緑子に怪我など大事がないかを確認し、急いで鳴瀧へと使いをやろうとするものもいたが、緑子がそれを止める。
「なぜでございますか?
怨霊が現れたのです。直ぐに安部殿をお呼びして、御殿に障りがないかを確認していただなくては」
今宵は始まったばかり。
また、何時あの怨霊が現れるのか判らないのだ。
万が一にも備えて、宿直(とのい)を頼んだ方が安心なのだが、緑子はにっこりと笑顔で「ダメ」と言う。
「緑子? なぜ鳴瀧を呼ばぬのだ?」
主上も不思議そうに問いかけると、緑子は深くため息をつく。
「麻衣ちゃ・・・・鳴瀧殿の奥方の体調が良くないようなんですの。
姫の性格は主上もご存じでいらっしゃいますでしょう? 少しムリをなさってしまったみたいで、熱が高いような事を涼子姫から伺ったので、しばらく鳴瀧殿には姫に付いているように、命じたばかりなんですの。そうでも言わないと鳴瀧殿は、式神にすべてを頼んで、暢気に参内してくるんですもの。それでは、治るものも治らなくなってしまいますわ。
病になると心細いものです。わたくしも先日寝込んでしまった時に、しみじみと思ったんですの。いつもと変わらないはずなのに何故か、心細く一人が淋しく感じてしまったんですの。あの時は、主上がつきっきりで看病して下さって、とて嬉しかったので、鳴瀧殿にはしばらく出仕しないで付いているように言ってしまったんですの。
姫にとっての一番の薬は、鳴瀧殿が傍にいる事だと思ったので。
ですから、せめて麻衣姫の体調が落ち着く前は、傍に付いていて貰いたいと、わたくしは思っているのですが・・・・・・・・・」
話題の『麻衣姫』をこの女御が実の妹のように可愛がっている事を知っている主上は、苦笑を浮かべると肯定の意で頷き返す。
「今すぐ大事があるわけではないから、呼ばなくても構わないだろう」
「なりません!
主上、女御様、大事があってからでは遅いのです!」
主上大事。女御大事の女房達から見れば、たかが陰陽師の北の方の体調などどうでもいいことだった。
なまじ、女御がその姫を猫かわいがりするため、面白く思ってもいない女房達もいるのだ。たかだか中流階級の姫ごときに、女御や帝がそこまで心砕く事はないのだ。まして、臣下である立場なら、己の事など放っておいて帝や女御に尽くして当然なのだから。
「まぁ、そんなに怖い顔はしないで?」
伺うように言われても、女房達は声をそろえてなりません!と頑なに言い張り、女御は困ったように主上を見上げる。
「あの鬼がどのような者か判らないのに、なぜ大事がないと言えますか!
今、都を騒がしている髪きり鬼が現れたのやもしれないのです! 安部殿には是が非でも参内して貰うべきです!!」
怖いのは鬼よりも目の前で訴え出る女房達の方だが、賢明にも緑子はその事を口にする事はなく、その場を帝に任す。
「ならば、鳴瀧ではなく榊を呼ぼう。
彼は、鳴瀧の部下であり優秀な人間だと聞いている。
彼の手で負えないのならば、改めて鳴瀧を呼べばよいのではないか?」
主上の妥協案にさえも、女房達は渋面を浮かべていた。榊はまだ陰陽生であり殿上の身分がかなり低く、殿上が叶う身ではない。鳴瀧もけして身分が高いわけではないのだが、勅許により殿上を許されていた。
陰陽師ならともかく一介の陰陽生に安否を伺うのは、自尊心が高くなっている彼女らにとって屈辱感を覚えたが、緑子も帝もそれ以上の妥協はしないと言った様子に、しぶしぶ引き下がる。
そもそも、この世で最も尊い存在である、帝とその寵姫の大事にかけつけないのは、いかがなものかと思うのだが、二人が呼ばなくて良いと言っている事を、無視して呼びつける事は憚るものがさすがにあり、妥協に乗らざる得なかったのが本心だろう。
「では、榊に使いを出しなさい。それから、鳴瀧には来なくて良いと使いを出しておきなさい。
きっと、彼ならこの変事にすでに気づいているだろうから」
帝の言葉に、女房達は気が付いていながら直ぐに駆けつけないとは!と立腹の様子だったが、主達の指示に従ってそれぞれに使いを出したのだった。
風が、大きく揺らめき御簾が勢いよく羽ばたく。
その音に麻衣も目覚めるが、鳴瀧はソレよりも先に気が付いていたようだ。
すでに上体を起こしており、漆黒の双眸でどこか遠くを見るかのように虚空を凝視している。
「なる・・・・・・・たき?」
熱に潤んだ声が名を呼ぶと、その視線は有らざる場所から現実へ・・・・腕の中の者へと移る。
「藤壺でなにかあったな」
「緑子さまの所で・・・・・・・・?」
麻衣には何も察することは出来なかったが、鳴瀧がそう言いきるならばそうなのだろう。麻衣も身体を起こそうとするが、鳴瀧はそれを片手でせいする。
「お前はまだ寝ていろ」
「でも・・・・・・・・・」
「何かはあっても、女御にも帝にもなにも大事は起きていない。二人はピンピンとしているんだから今すぐ動く必要はないだろう。
用事があれば呼び出しがかかる」
帝や女御の事をそんな風にいいのけるのは、鳴瀧ぐらいだろう。
その言い方に麻衣は思わず眉をしかめるものの、注意はしない。
言っても無駄だからだ。
「でも・・・参内の声が掛かるかもしれないでしょう? 支度しておかなくちゃ・・・・・・・・」
「まだ、熱が高い。今のお前が向こうに行っても何か出来るわけないだろう」
確かに鳴瀧の言うとおり熱は下がっていなかったため、身体の節々が痛み、頭は熱のため朦朧としていて思考が働かない。身体を起こすことも、現状ではままならなかった。
「今のお前が行っても逆に、女御に心配と手間をかけるだけだ・・・・・・・・なんだ?」
鳴瀧はふいに視線を麻衣から庭先へと移すと、何もないはずの空間が大きく一瞬歪み、白い衣に白袴を身につけた童子が現れる。鳴瀧の使役する式神の一人、夏初月(なつはづき)だ。
しばらく、女御から参内の必要なしと告げられた時、万が一に備え内裏に式を一体残しておいたのである。それが夏初月だ。
「参内する必要なしと帝が言っていた」
舌っ足らずな口調が唐突にその小さな唇から漏れる。子供特有の澄んだ高い声だが、言葉遣いは子供らしさなど欠片もない。淡々とした平坦な口調で義務を果たす如く、口上を述べる。
「ご主殿(ごしゅでん)の変わりに、榊が呼ばれたようだ。榊で手に負えない事態があった時に、ご主殿に呼び出しが掛かる事になっていから、今は問題ないと我は思う。
姫の体調が良くなるまで、ご主殿は参内の必要無しと、すぐに使いが来るはずだ」
その言葉に、麻衣は思わず音が聞こえそうなほど瞬きをし、鳴瀧はため息を一つ着くと、夏初月に伝言を伝える。
「榊に、終わったらこちらに来るように・・・それから、夏初月。朧月も連れて行け」
「了解した」
夏初月は表情一つ変えることなく、小さな頭で頷くと、現れた時同様一瞬にして消える。
唐突の事態に、一言も発する事の出来なかった麻衣は鳴瀧を仰ぎ見る。
「・・・・・・・・・いいの? 私は一人でも大丈夫だよ?」
掠れた声は幾分はっきりとしているが、今だ熱の高さをその吐息が宿している。
「来なくて良いと言っているのだから構わん。
あの程度では、元々たいした事はないだろう。榊で充分だ」
あの程度の風では結界は何一つ揺らいではいない。榊でも充分事足りるはずだ。
逆に、あの程度の事で手こずる程度の男ならば、自分の助手として傍に置いておいても邪魔なだけである。陰陽道ではなく天文道の道を究めるか、またはただの受領になった方があの男のためでもある。でなければ、いずれ命を落としかねない事態になるのが目に見えているのだが、見鬼の才がさいが乏しい事を抜かせば、及第点を鳴瀧は榊に上げており、ある程度の事を任せるのに不安は何もない。
だが、鳴瀧の胸中に妙な胸騒ぎが沸き起こる。
真っ白な布に、一点の染みが広がっていくかのように・・・・ジワジワと。
それは、榊にカンする事ではない。
もっと身近なモノに対する胸騒ぎ。
「鳴瀧?」
聞き慣れたいつもの声より気怠げな音を含ませた声に、思考の海に耽っていた鳴瀧は現に戻る。
遠くを見つめる鳴瀧の双眸が一瞬、金色の光を放ったように麻衣には見えたが、その双眸が再び自分を映し出した時には元の漆黒の双眸に戻っていた。
「熱がまた上がる。お前はもう休め」
「うん・・・・鳴瀧は休まないの?」
もぞもぞと寝台に横になって衣を引き寄せると、麻衣はいまだ身体を起こしている鳴瀧を見上げる。
「内裏からの使いを待ってから休む」
内裏からそう離れていないとはいえ、使いの者が来るまでもうしばらくかかるだろう。
式神からの伝言により、参内の必要が無い事は知っていたが、それとは別に帝からの使いが来るのだ。寝ているわけにはさすがの鳴瀧もいかず、面倒だと思いながらも身なりを整えておく。
いつもなら手伝う麻衣だが、熱のだるさには勝てず、また鳴瀧も起きるなと諫めて部屋を出て行く。
一人残された部屋で、麻衣は御簾越しに月をぼんやりと見つめる。
「誰かが・・・・・・・・・・・・・・・泣いている?」
雲に霞んで見えるおぼろ月が、水面に揺らめく月のように見え、そんな言葉が口を出る。
誰にも、聞かれる事の無かった呟きは、空気の中に消えてゆく。
そして、次第に重さを増していく瞼に勝てず、麻衣は眠りの世界へと落ちていく。
『何故、出来ぬ約束を口にされたのですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
哀しげな呟きを、風の中に聞いた気がしたが、意識がそれを捕らえる事はなかった。
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