藤の籠  
















 榊は、床の上に都内の地図を広げると、墨で所々に○を付けていく。
 大内裏から羅城門にかけて通る朱雀大路を中心に、左京区ばかりに丸印は集中していくのは、もっぱら獣が現れるのは貴族の屋敷ばかりなのだから、当然集中するとは言え不自然である。これが、盗賊ならば判る。右京区は庶民の軒が連ねており、盗賊が狙うような金目のものはない。だが、コレが人ではなく獣というならば話は変わってくる。
「ってことは、やっぱり野生じゃなくて飼われているんでしょうかねぇ・・・」
 口の中で呟く。
 朱雀大路を中心に左京区は貴族の屋敷が集中し、右京区は平民が暮らしており、その生活は左京区と一転して軒が道に近く、喧噪などに包まれ賑わいがある反面、至る所に倒れ伏して行き倒れている者も大勢いる。
 都内で腐臭が鼻につくほど死骸が転がっているのだから、都の外を出たとたんそこは淋しいものだ。捨てられた死骸や、生きながら腐り落ちていく人間達の大衆、腐乱死体などの臭いに満ちており、死体が身につけている物を狙う者達も大勢おり、物騒きわまりない地帯とかす。
 華やかなのは左京区の一部なのかもしれない。
 その一部のみに集中して獣が現れているという点は、自然とは言い難い。
 もしも、これが野山に住む獣であるならば、左京区ばかりではなく右京区にも出現するはずだ。逆に人口密度が左京区よりも濃い分右京区に集中して被害が出る方が自然である。
 貴族は夜歩きをするとはいえ、一人では歩かず家人を引き連れて歩き、屋敷の周囲には警備の者達がおり、右京区に比べれば閑散とした雰囲気を否めない。
 むろん、右京区にも被害はとうの昔に出ているのかもしれない。ただ、それが報告として上がっていない可能性もあるのといえばあった。死骸が多く道ばたに転がっているという事は、当然その死骸を餌とする烏や、野犬、狐等といった野山の獣たちが夜陰に生じて、都内に入り、うち捨てられているそれらを貪り喰っているという。
 そして、獣に食い散らかされているそれらを見ても、右京区に住まう者達はことさら驚いたりしない。日常茶飯事の事にいちいち、騒いでいたらきりがないからだ。例え、異常な者を見ても彼らはその日その日を暮らすのが精一杯で、他人の事など構っていられないというのが実情だろう。
 貴族とは違い、彼らはそれを厭わない・・・いな。厭っている余裕はないのだ。
 貴族は特に穢れを嫌い、穢れをもたらす「血」や「死」を忌む。
 人が死にそれを嘆くのは恋人や、家族が死んだ時のみ。下男や下女といった下働きの者が病に臥、死にかけるとまだ息があるにもかかわらず、烏辺に捨て置く家も多々あるほどだ。
「いちいち、家人に情けをかけていたら、貴族なんて因果な商売やっていられないんでしょうけれど」
 そう呟く、榊は受領の息子である。一応貴族の端くれに属してはいるが、気楽な身分であり、家人は父から寄越されている数人しかいないが、不便な事は特にない。逆に家人が多ければ多いほど自由がきかず不便だと思う。
「気楽と言えば、鳴瀧殿の屋敷にも家人は殆どいないよなぁ」
 大半の事を式神にやらせているせいか、麻衣の身の回りの世話をする女房や、雑多な事をこなす雑司が数名いるだけだ。それも、麻衣に昔から使えていた者達であり、鳴瀧が雇っていた者ではない。陰陽師という身分はどちらかと言えば下級役人だが、安部家・・・鳴瀧の屋敷は別格だろう。元は麻衣の祖父の屋敷だったせいもあるが、陰陽師の身分で住まうには広すぎる屋敷であるにも関わらず、家人は少ない。
「あの人も、本当に人嫌いだからなぁ・・・・・」
 付き合いは特別長くはないのだが、陰陽寮に入ってからと言うもの、ずっと傍にいたためその人となりを榊はだいたいを把握していた。
 だからこそ、自分と会うのかもしれないよなぁと独り言を呟くと、身支度を調え始める。
 ぼさぼさとしている暇はない。仮眠はそれほど長く取ったつもりはなかったが、夕暮れは近付いてきている。夏の日は長いとは言え、油断すれば辺りは直ぐに暗闇に包まれてしまうのだ。
 地図を丸め込んで袂に入れると、一回り小さくなった朧月を連れて、屋敷を出る。
 とりあえず、一通り被害にあった屋敷を見てみ、ついでに家人の話が聞ければ上場だろう。そんな事を考えながら、今だ暑い日差しを照らし付ける白昼へと足を向ける。


























 秋の長雨が続くこの季節は、何かと体調を崩す者は多い。
 都中で疫病が流行り、貧しき庶民のみならず、貴族も病にかかり祈祷の甲斐無く死んでいく者が毎年必ず出る。むろん、内裏や後宮も例外ではない。そのため、高名な僧都が呼ばれ連日連夜、祈祷が行われ、そこはかとなく護摩の臭いが漂っている。
「主上は何故、安部の陰陽師を参内させないのかしら」
 梨壺に居を持つ時仁の宮(ときひとのみや)の姫である佐古姫は不満げに呟く。
 佐古姫の父は今上帝の叔父に当たり、帝とは従姉同士にる。母は内大臣家の姫で、血筋的にも身分的にも太政大臣の姫である緑子に劣るものはなく、中宮候補に名ばかりは挙がってはいたが、主上の寵は完全に緑子のみにむけられ、政治の要であり現今上帝の外戚にもなる太政大臣に叶うわけもなく、候補とは名ばかりである事は周知のことであった。それが、彼女をより固執させているのだろう。特に緑子は佐古姫を意識する事はなかったが、佐古姫は緑子を宿敵と見なし何かと競い合おうとしており、帝の寵を巡ってある意味熾烈きわまりない、火花を散らせていた。
 この日、佐古姫は帝に頼み事をしたのだ。
 当代きっての陰陽師であり、あの伝説的な安倍晴明を超えるとも噂されている鳴瀧を、呼んで欲しいと頼んだのだった。最近では宮中でも疫病が流行りだし、里帰りする者が後を絶たず、梨壺もいつもより人気が少なかった。それでなくても、疫病が流行る前から鬼が跋扈すると噂されており、不安の空気に満ちている。
 先日も、どこかの御殿に鬼が現れ「高貴な人間」を探して彷徨い歩いていたという噂があるのだ。
 「高貴な身分」にいる者は、帝をはじめとしこの宮中には数え切れないほどいる。帝の后の一人である女御の自分もその中の一人で。この梨壺殿は藤壺のように結界で守られているわけではなく、鬼が来たら防げる方法はなかった。だからこそ、佐古姫は帝に願い出たのである。
「藤壺殿だけを特別に扱うのは、道理に反しておりますわ。
 藤壺殿もわたくしも同じ女御。
 藤壺殿に鬼に対する備えをされているのでしたら、わたくしの住まう梨壺にも同じように鬼に備えて下さいませ。
 毎夜毎夜、何時鬼が出るかと思おうと、わたくしは恐ろしくて恐ろしくてなりませぬ」
 こびるように主上にすり寄りながら、哀願すると自分より五つほど年下の主上は困ったような顔をしながらも、話を聞き入れてはくれたのだが、佐古姫の望みとは少しばかりずれがあった。
「では、明日にでも陰陽寮に使いを出そう」
「陰陽師は安部鳴瀧殿にお願い致しますわ」
 佐古姫の要望に主上は残念そうな表情をしながら、鳴瀧が今は休みだと言う事を伝える。
「鳴瀧は、しばしの間屋敷を離れられないので、緑子がいとまを出しておるのだ。
 鳴瀧でなくても陰陽寮には優秀な者が数多おる。心配する必要はないであろう?」
「いいえ、わたくしも鳴瀧殿にお願いしたいのですわ!
 安部鳴瀧は臣下ではございませんか! それも本来ならば殿上すらままならぬ身! 主上のご厚情でもって参内が叶っている立場でありながら、主上に気を遣わせるとは許せませぬ!!
 臣下ならば主上のため身を砕いて働くが勤めではございませぬか!」
 興奮しつつある佐古姫に主上はどう扱って良いのか判らず、宥めようとするが佐古姫は主上の言葉に耳を傾ける様子はなかった。
「鳴瀧は、よく働いてくれていると朕は思うぞ。
 それにあれは無欲だ。もっと位を上げても良いのだが、あれはそれを固辞しているに過ぎぬのだよ。
 その心に報いるためにも朕は、鳴瀧が困っている時には手を差し出してやりたいのだ」
「主上の心映えはとてもすばらしいと思いますわ。ですけれど、一家臣のみ特別扱いは主上の立場上褒められたことではございません!
 それに何故、主上はわたくしと藤壺殿を同じに扱って下さらぬのです。
 わたくしは、あの方よりも長く主上に仕えておりますのよ。なぜ、わたくしが藤壺殿よりも下手に扱われなければなりませぬの? わたくしは主上の従姉ですのに!」
 建前ではなく本音を吐き出しながら、ヒステリックに喚きだした佐古姫の対応に困り果てた帝は、それでも何とか宥めようとするが、すっかりと興奮しきった姫を落ち着かせる事は出来ず、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた女房達に、後を任せ退出してしまったのであった。
 しばらくして落ち着きを取り戻した佐古姫は、己の失態に腹立たしく、物や人に八つ当たりをしきると、次第に沸き起こってくるのは、緑子に対する憎しみのみだ。
 たかが自分より七つほど若く、帝より年下と言うだけで、深い寵を得ている女御。
 それ以外に自分が負けている物などなにもないはずだ。
 容姿や身分、血筋、財力、どれもが拮抗するものであり、劣る物ではない。
 明日もう一度主上に頼んで、この御殿にも安部鳴瀧の結界を貼って貰おう。それでこそ、藤壺と中宮の立場を争う自分に相応しいのだ。
 そう、言い聞かせながら今宵は休もうと寝台に入ろうとした時、不意に階の方から板がきしむ音が聞こえてきたのだ。誰かが近付いてきているような音に佐古姫は眉を潜める。
 今宵は何もかもが腹立たしく感じ、側付きの女房達すら遠ざけていたのだ。主の命にさからってこちらに向かおうとしている物が居る事に、落ち着いた心がまたささくれ立つ。
「誰が来て良いと言った!」
 苛立った声が響くが、それに答える声はない。
「誰の許しを得ているのだ!?」
 返答が帰ってこない事に、ますます苛立ち佐古姫は勢いよく立ち上がると、御簾を捲り上げる。
 深窓の姫君であり、大勢の女房達に囲まれて生活してきた自分が、こうして自ら腰を上げ、御簾を捲り上げ階に出る事などまずありえない。こんな事で、誰かに姿を見られでもしたら、末代までの恥ではあるのだが、そんな事を考えている余裕はなかった。
 角を曲がり姿を現したソレに佐古姫は言葉もなくその場に座り込んでしまう。
 静かに・・・すりあしで近付いてくるそれは、ゆっくりと両目を佐古姫に合わせると、耳まで裂けた口を動かす。
「この御殿に高貴なお方はいらっしゃいますでしょうか・・・・・・・・・・・・・?」
 嗄れた声に、佐古姫は喉の奥で悲鳴を漏らす。
 噂に聞いていた「鬼」が今目の前に現れたのだ。
 背はどれほどあるのだろうか。判らないが、千切れ乱れた真っ白な髪は、まるで山姥のように背中を流れ、耳元まで裂けた唇は、真っ赤に彩られ、自分を凝視するその瞳は地獄の炎のように爛々と輝いていた。
「おたずねもうします・・・・・・・この御殿に住まう高貴なお方はどちらに?」
 佐古姫がもう少し見栄という物に、こだわりを持っていなければ女房のふりをし、この鬼をやり過ごせただろう。
 だが、彼女は自ら女房を名乗るには見栄がありすぎた。
「この、御殿の主は妾じゃ!
 誰の許しを得て、梨壺にあがっておるのじゃ!
 ここは帝の后である妾が住む場所! 妾が帝より賜った御殿じゃ!! そなたのように姿卑しい鬼が来るような所ではないわ!
 そうそうに、立ち去れ!!」
 気が動転したのはある意味一瞬だったのだろう。
 すぐさま、持ち前の気の強さを取り戻すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで、鬼をまっすぐ指さす。
 鬼はしばらくの間無言で、佐古姫を見ていたかと思うと、ニヤリと口角を歪めた。
「主様がここの主でございますか・・・・・・・・・とても、お美しゅうございますわ」
 立ち去るどころか、鬼は一歩、一歩、ゆっくりと佐古姫に近付く。
 佐古姫は近寄られればその分、座り込んだまま後退するがやがて、後が無くなる。
 それほど進まないうちに背は欄干にぶつかり、これ以上の後退は出来ないでいた。だが、鬼は構わず近寄ってくると、ぬっと顔を突き出し佐古姫を至近距離から見つめる。
「お美しい御髪。お美しいお目、お美しいお声・・・・お美しいお肌」
 髪を撫で、瞳を瞼の上から撫で、のど元をさすり頬をなで下ろす。
 佐古姫は助けを呼ぶ事も出来ず、その場で硬直しガタガタと震えていた。
 そればかりか、あまりの恐怖に失神する事は出来なかったが、変わりに極度の緊張から失禁してしまう。何ともいえない臭いが辺りに漂い始めるが、鬼は気にした様子もなく、舐るように髪や、瞳、肌をなで回す。
「全てをお持ちの女御様。
 哀れなわたくしに、お恵みをお与え下さいませ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 佐古姫は手をむちゃくちゃに振り回して、鬼を退けようとするが、鬼は構うことなく手を伸ばしたのだった。




























 





「殿」
 まだ、夜がふけたばかりの頃。普段なら寝静まっているはずの屋敷内で、忙しげな足音が響き渡る。
「お休み中でいらっしゃいますでしょうか?」
 御簾越しに声が聞こえてきた時には、鳴瀧はもう身体を起こしていた。
「内裏より使いの者が参りまして、至急に参内して欲しいとの旨でございます」
 昨日まで、いや今日の朝まではしばらくの休みを与えておきながら、その日の内に意見を変えるような、気分屋ではないことを知っている鳴瀧は眉を潜めると、判ったとだけ答え急いで身支度を調えていく。
「麻衣、お前はまだ休んでいろ」
 鳴瀧と同様に身を起こして、参内の用意をし始めた麻衣の様子に鳴瀧は諫めるが、麻衣は言う事を聞く気配はない。
「もう大丈夫だよ」
 そうは言うが、まだ微熱が下がっていない事を鳴瀧は知っている。
 微熱はたいしたこと無かったとしても、この一週間ぐらいずっと横になっていたのだ。急に動き回れるわけがない。
「鳴瀧を呼び出したって事は、緑子様か主上に何かがあったってことでしょう?
 だったら、私も暢気に寝ていられないよ。一緒に行く」
 こう。と決めたら絶対に引かない性格をしているため、鳴瀧はため息を一つ着くと、秋初月を呼び出す。
「麻衣を手伝ってやれ。それから、お前も女房装束に身を変えて、一緒に参内しろ」
「判りました」
 いつも唐の衣装で姿を現す秋初月だが、この日は麻衣同様に女房が普段着るような小袿を身に纏っていた。
 身支度が調うと、帝から寄越された牛車に乗り込みあわただしく内裏へと向かったのだった。
















 内裏は、夜半だというのに喧噪に満ちていた。
 弓を携えた武官達が小走りに駆け抜けていく姿や、すでに弓弦を引く音が闇に響き渡り、僧侶達の経を読み上げる低い声が響き渡っている。
 想像していたよりも気が立っている雰囲気に鳴瀧は柳眉を潜め、麻衣は不安そうに鳴瀧を見上げる。
 牛車が門の手前で止まると、先に鳴瀧が下り、麻衣が続いて下りる。その際袿を頭から被りむやみやたらと顔を晒さないように、隠す事を忘れてはいない。これが内裏でなければ、童殿上してきた少年のように身をやつす事も出来るが、女御の元にそのような身なりであがれるわけがないからだ。
「僕は主上の元に向かうから、お前は先に藤壺へ向かっていろ」
「判った。鳴瀧、気を付けてね」
 そう言い残すと、女房の一人に先導され麻衣と秋初月は藤壺へ向かい始める。その背中を見下ろしながら、鳴瀧はため息を一つ着く。
 人の事を気にする前に自分の事をきにするべきだろうがと言う言葉は、胸の中だけで呟くと、迎えに来ていた男に視線を向ける。帝の側近でもある頭の中将 藤原貴久(ふじわらのたかひさ)だであり、緑子の異母弟だ。
「わざわざ頭中将殿自らがお出迎えとは・・・藤壺の女御様には大事が起きたようには思えませぬが?」
 麻衣はすっかりと忘れているようだが、鳴瀧は藤壺に結界を引いており、さらに式神の一体を置いていたのだ。藤壺で異変があれば使いが来る前に鳴瀧は知る事が出来る。だが、今回異常を感じる事はなかった。もしも、それでも女御のみに何かがあったとすれば、それは女御が藤壺から離れた時である。だが、それでも式神が異常を知らせるはずだ。
 だが、その知らせはなかった。となれば、麻衣が懸念していた緑子に大事があったわけではない。帝も同様だ。式神は付けてないが、結界はその分厳重にしいてあり、異変を察する事は充分に出来る。だが、その二つに異常はないということは、それ以外のどこかで誰かが被害にあったのだ。
 だが、そこまで判ってはいたが、なぜ太政大臣の子息である頭中将がわざわざ、一介の陰陽師の出迎えを買って出たのかが判らない。
 言葉は丁寧だが、逆に慇懃無礼に感じてしまうのは、鳴瀧が本気でへりくだる気配がないからだろう。普通ならば相手の逆鱗に触れるものだが、貴久は気にした様子はなく、顔を強ばらせたまま鳴瀧と共に主上の住む清涼殿へと向かう。
「察していらっしゃるとおり、女御様にも主上にも大事はありませんが、梨壺殿に鬼が現れました」
「梨壺?・・・・時仁の宮の姫が入内されてますね」
 なじみもなければ縁も全くない。
 むろん、言葉を交わした事もなければ会った事もない女御であるため、鳴瀧は名前しか知らないが、それでもどんな性格をしていたかはよぉく知っていた。
「先日、藤壺に現れたように梨壺に?」
「そのようです」
「なら、たいした被害はないのでは?
 あの鬼はまだ生まれたばかり。それほど力を持ってはおりませんから、被害が出るとは思いませんが?」
「それが、梨壺の女御様が・・・・・・・・・・・ご被害に」
 声を潜めて辺りの様子をうかがうように貴久は鳴瀧に耳打ちをする。
「早く鬼の正体を突き止めてもらいたいのです。
 主上もこの件に酷くお心を痛めておりまして・・・・」
 梨壺の女御がどれほどの被害を受けたのかはこの時点で鳴瀧はまだ判らなかったが、貴久の様子からこの件が原因で、主上の寵が藤壺から梨壺に移る事を懸念しているのだろう。もしくは、情けから彼女を中宮の座に据える事を懸念しているのかもしれない。
 もしくは・・・・・・・
「すでに、この件が藤壺の女御様による呪詛だとでも噂が出ておりますか?」
 噂とは恐ろしい物であり、半刻もすればあっという間に広まってしまうのだ。
 案の定鳴瀧の言葉に、貴久の顔色が変わる。
「今は父上の睨みが効いていますが、早急にこの件の解決を望んでいます」
 貴久ではなく、その父である太政大臣がであろう。だからこそ、貴久が鳴瀧を出迎えたのだ。
「安部殿にはまず梨壺に向かって頂きます。
 何がなんでも姉上の潔白をはらして頂かねばなりません」
 危機感に顔から血の気を無くしている貴久に対し、鳴瀧はいつもと同じように表情一つ変えることなく、普段は足を向けない梨壺殿へと貴久と共に向かったのだった。


 






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