藤の籠  














 普段夜の遅い宮中とはいえ、子の刻を過ぎれば静寂に包まれているはずだった。だが、この日はあわただしく行き来する者がおり普段の静けさが嘘のようである。灯籠や篝火もこれでもかというほど焚かれており、昼のごときの明るさに包まれ、今の時刻が何時なのかが判別しにくくなる。
 歩き慣れた道を無言の女房に先導されて歩いていく。
 だが、不意に女房が足をとめた。まだ、藤壺にはたどり着いていないというのにだ。
「いかがなされました?」
 麻衣が不思議に思って問いかけるが、女房は何も答えないが、震える手を伸ばして一点を指さす。
 その方向に吊られるように麻衣と秋初月の視線が動く。
「鬼!?」
 藤壺に向かう渡殿真ん中に、一人佇んでいる女がいた。
 身の丈はどの男よりも高く、真っ白な髪が荒々しく背中に流れ、体格自体女とは思えないほど逞しかった。下手をすれば武人よりも体つきは逞しく見えるが、それは色鮮やかな五衣を纏っていたのだから女の鬼であろう。
 狼の牙のように伸びた乱喰歯が上唇からのび、紙蝋の光を妖しく反射させている。
 夕べ鳴瀧は、鬼は生まれたばかりだからさほどの力はない。と言っていたが、目の前の鬼は夕べ出たという鬼と違うのだろうか? 油断出来る相手ではない事を鬼から放たれる陰気によって感じ取り、秋初月は麻衣を庇うようび前に立つと、普段は見せないキツイ眼差しを鬼へと向けるが、麻衣がそっとその腕に触れる。
「秋初・・・あの人、鳴いている」
「姫様、危のうございます。わたくしの後ろに隠れていて下さい」
 秋初月は腕からそっと麻衣の手を放そうとするが、麻衣はしっかりとその腕を掴んで放そうとしない。
「姫様、わたくしにはあの者の泣き声など聞こえません。
 何があるか判りません。わたくしの背後へお隠れ下さい。
 あの者が、姫様に害をなす者でなければわたくしも手を出しません。ですから、わたくしの後ろへ。
 そこの女房殿もわたくしの後ろへお下がり下さい」
 だが、女房は恐怖に白目を剥いてひっくり返ってしまっていたため、秋初月の後ろに回り込むのは無理な話だった。
 主は悲しむかもしれないが、万が一鬼が危害を加える動きをした時は、女房を迷わず切り捨てることに意識を切り替えると、倒れている女房から鬼へと視線を戻す。
 闇の中爛々と光る赤い双眸は、虚ろな眼差しを虚空に向けていたが、不意にその焦点を定める。
 自分の真横に立つ麻衣へ。
「・・・・・・・・・・・・・・高貴なるお方でしょうか?」
 その問いは先日藤壺に現れた鬼と同じ言葉だった。
「私? 私は違います」
 庶民からみれば貴族はみな高貴になるのかもしれないが、この宮中に置いて自分は受領を務める祖父母の孫娘にしか過ぎず、夫は一介の陰陽師で位は従七位上にすぎない。本来ならば殿上することは叶わない身分なのだが、主上と女御緑子の特別の計らいで、殿上と直衣が赦されているのだ。本来ならば帝と面することも女御と面する事も叶わないはずなのだが、類い希な才と、女御も帝も形式に五月蠅くないのが幸いしたと言うべきなのだろう。だが、それはあくまでも特別な事であって、身分自体は特別高貴でもなんでもなかった。
 鳴瀧が最高位に付こうとしても、陰陽頭になるのがせいぜいであり、それでも従五位下だ。
「ですが、貴方様はとても高貴なお方とお見受け致しますが?」
 異形の自分と面しているというのに怯えた様子もなく、しゃんと背筋をまっすぐに伸ばし、真っ正面から自分を見据える麻衣を視て、鬼は不思議そうに問いかける。
 その肝の据わり方が、ただの姫とは思えなかった。
 そう言われてしまうと「ただの姫」とは言い難いな。と麻衣も秋初月も思ってしまう。だが、それは鬼が望むようなものではなく、環境が呼ぶものだろう。麻衣はすでに鬼を見慣れていたため、気が動転する事がなかったにすぎない。
「いいえ。私は受領の孫娘にしか過ぎません。この内裏において、受領の孫娘は高貴な姫ではないでしょ?」
 受領の孫娘など掃いて捨てるほど、この宮中にはいるだろう。
 主上に仕える女房として。また、女御に仕える女房として、数多の姫君がおり、受領の娘など小間使いのように使われている。この内裏でなくても名門貴族の屋敷には、そう言った類の身分の娘など何人もいた。
 受領とは言え実入りの良い家の姫ならば別だが、そうそう「姫」として傅かれているわけではないのだ。
「さようでございますか・・・わたくしは、あなたさまはさぞかしやんごとなき生まれの姫君かと思いましたが・・・」
「なぜ、そう思うんですか?」
 別に自分が来ている衣は特別優れた衣ではない。
 むろん、質の悪い物ではないが、大貴族の姫ならばこの衣の何倍もする物を身に纏っているだろう。
「貴方様の見事な御髪と瞳。わたくしは今まで見た事がございません。
 そのように見事な御髪と瞳をお持ちの方が、やんごとなき方とはわたくしには思えないのです」
 執着するような視線を鬼は麻衣に向けるが、麻衣は気が付かず自分の髪を一房取って明かりの下で眺める。
 栗毛の髪は篝火の明かりを受けて、赤茶に今は見える。時折その濃淡を変えるが、どう見ても漆黒の艶やかな美しい黒髪には見えない。
 瞳もだ。
 鳶色の双眸は明かりの辺り具合によって、金色に近い色に見え気味悪がる者もおり、けして「見事」なものではない。だが、鬼から見るとまた価値が違うのだろうか?
「姫様・・・どうか、そのお色をわたくし・・・・・・・・ギャッ!」
 鬼が麻衣に近付こうとすると、一陣の風が吹き抜け、鬼の身体を切り刻んでいく。
 白い衣が鋭利な刃物で切られたかのように幾箇所も切れ、青白い肌から赤い雫がしたたり落ちる。
「このまま去るのならば追いはいたしません。
 ですが、我が主に指一本触れようとすれば、容赦はいたしません」
 本来の姿に戻った秋初月の髪が、風に舞うようにうねり始める。
 つむじ風が鬼の周囲にいくつも起こり、雑木林の枝が激しくしなり、赤く色づき始めた葉が音を立てて散り始める。
 鬼は双眸を爛々と輝かしツツも、今の自分では力が足りないと思ったのだろうか。
 ふいに、空気にかき消えるようにそのばから姿を消してしまう。
 完全に気配が遠のいたのだろう。再び女房の姿に戻ると、秋初月は傍らに立つ麻衣へと視線を落とす。
「姫様、お怪我はございませんか?」
「私は大丈夫だけど・・・・・・」
 怪我をしたのは自分ではなく、あの鬼の方だ。
 式神の力によって負った傷は、浅くてもそう簡単には癒えないだろう。
「あの人、鳴いていたね・・・・・・」
 ぽつり。と漏らした声に秋初月は答えない。
 いや、答える前に気を失っていた女房が意識を取り戻し、金切り声を張り上げたのだった。
「ひぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!鬼!鬼が!!!!!!!!!!!!!」
 耳に突き刺さるような声は、内裏中に響き渡り、どこにこんなに人がいたのかと言うほど、ワラワラと武官やら陰陽寮の者やらが集まってきたのだった。



















 梨壺に貴久と共にたどり着いた、鳴瀧は辺りへと視線を巡らせる。
「梨壺の女御様は、懇意にされている陰陽師はいらっしゃらなかったのですか?」
 鳴瀧の問いに貴久は判らないと首をひねる。
「私は梨壺の女御様とは面識がまったくないんで、その辺の事は・・・・ああ、利久が判るかも知れません。
 利久は、女御様の妹姫の所に通ってますから。
 お呼び致しましょうか?」
 貴久の弟にあたる利久の名が出るが、鳴瀧は必要ないと断る。
 梨壺の女御はなにかと藤壺と競い合っていたから、誰かしらを呼びつけ、藤壺と同じように結界を引いていると思ったのだが、どうやら梨壺はお抱えの陰陽師という者を持っていなかったようだ。
 鳴瀧を庭先に止めたまま、貴久は殿舎にあがり奥に向かって声をかける。
「頭中将 藤原貴久。陰陽師安部鳴瀧を案内して参りました」
 その声に返ってくる声はなく、変わりに御簾が上がり主上自身が姿を現す。
「鳴瀧、休みの所済まぬが、よく来てくれた。
 さっそくで悪いのだが、殿舎を・・・いや、女御を見て貰いたい。
 照陽舎(梨壺)への殿上を赦す」
 その場に片膝を付き、頭を垂れていた鳴瀧は、主上の許しと共に顔を上げると、階段を上り梨壺と呼ばれている照陽舎へ上がり込む。
 作り自体どこの殿舎もそう変わらないのだが、どの殿舎も住まう者の趣味が色濃く出ている。
 梨壺は派手好きの女御の好みに合わせた調度品が置かれているため、きらびやかと言うかゴテゴテとした感じが鳴瀧にはし、生活するには落ち着かない空間だなと胸中で呟きながら帝に案内されるまま、女御のいる奥へ足を向ける。
 奥からは、宥めようと必死の女房達の声と、恐怖によって泣きわめく女の声や、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえてくる。
「鳴瀧。済まぬが几帳の影からこっそりと覗いてもらいたい。
 女御はいま人に姿を見られる事を、酷く怖れておるのだ。朕さえも傍に寄せようとはせぬのでな・・・困っておるのだ」
 帝に言われるがまま几帳越しにそっと覗くと、髪が肩まで短くなった女が鬼のような形相で物や女房達に当たり散らしている姿が見える。
「あの女じゃ!
 藤壺の緑子が、妾に鬼をしむけたのじゃ!
 あの、鬼は妾の髪を・・・・妾の命を奪っていきおった!!
 そうに決まっておるだろう!? そなたらもそう思うであろう!
 あの女は、妾の美しい黒髪が羨ましかったのじゃ!
 妾の豊かで見事な黒髪を・・・・・・・・・・黒髪をぉぉぉぉぉぉ!!!」
「女御様。落ち着き下さいませ。
 女御様のお美しさは、何一つ損なわれてはおりま・・・・・・・・・・・・キャッ!」
 女御の持つ檜扇で頬を叩かれた女房は、頬を真っ赤にしながら床の上に倒れ伏す。それを、憎々しげに足蹴にしながらもわめき散らしていた。
「嘘を申すな! 主上が愛したもうた妾の髪が、鬼ごときに奪われたのじゃ!!
 損なわれぬわけがなかろう!!
 ええい!! 憎らしやっっっ、この恨みはらさぬべきか!
 あの女が鬼を妾にし向けたというならば、それ以上の鬼をあの女にし向ければよい事!!
 誰でも良い! 今すぐ呪法を行える者を呼ぶのじゃ! 安部鳴瀧を呼ぶのじゃ!!」
 口角から泡を溢れさせながら、真っ赤に顔を染めてどなりわめく女御に手を付けられず、女房達は隅の方で身を縮めるばかりだった。
「もともと、気の強い姫であったが鬼との遭遇によって、気が触れてしまったとしか朕には思えぬような変わり様での・・・・気の毒だとは思うのだが、朕は今の女御が恐ろしい」
 気の強さまでは隠しきれてはいなかったものの、佐古姫も腐っても宮家の姫であり、中宮候補に上るだけあり、宮中での駆け引きや性格を相手によって変える事など造作もない事だったのだろう。主上の前では我が儘で気が強いところもあるが、それなりに取り繕っていた所も、今はすべて剥がれ落ちている。
 鳴瀧にはあれが彼女の素のように思えるのだが、取り繕っている面しか見た事のない主上から見れば、あり得ないほどの人の変わりようなのだろう。
 元来気性が穏やかで争い事を好まない気質の主上からすれば、女御の気の荒立たしさは恐怖の対象にしかならないのだろう。
 だから、同じように穏やかな気質の藤壺の女御とうまくいくのだ。
「主上、梨壺の女御様は先ほど鬼と対面なされ、その陰気の影響を強く受けられているだけでございましょう。
 しばらく清らかなる場所でお心、御身ともに潔斎しお清められ、陰気を打ち払えば、主上の存じられます女御様に戻るかと」
「女御は元に戻るのか?」
 鬼に出会ってしまったものはたいがい気が触れる。
 一般的にそう思われているため、帝は女御が元に戻るとはにわかには信じられず、おそるおそる問いかける。
「鬼に会う者が必ずしも気狂いになるとは限りません。
 気が弱い者、身体が弱い者、疚しき心がある者、鬼を呼び寄せた者などが、気を狂わせるのです。
 女御様は大変お心の強き方なのでしょう。清らかな場所で潔斎なされば、一月ほどで戻られるかと推察致します」
「判った。では、一月程いとまを出そう。
 鳴瀧の言う清らかな場所とは、宮中ではダメなのであろう?」
「宮中は人が大勢おります故、雑多な念が多すぎますので、今の女御様にとってはかえって毒になるかと」
「では、賀茂の斎院の元ならば良かろう。
 あそこは京からもほど近いし、静かで安らぐと聞いている。それに、斎宮は私の姉上なのだが、女御とは確か同い年。良き話し相手になると思うのだ。
 貴久。時仁の宮に使いを。
 佐古姫はしばしのあいだ、賀茂の斎院にて身を休める旨を伝え、準備をさせよ」
 貴久は二つ返事で答えると、軽い足音をたてて梨壺から離れていく。
「鳴瀧私は呪われているのであろうかな。
 この前も更衣の一人が朕の元を去った。朕にとっては初めての子を宿した御息所であったのだが、病にかかって内裏をあとにしたばかりであった。
 天は朕に早く退位せよと申しているのであろうかの」
 すっかりと弱気になっている帝に鳴瀧は内心呆れを隠せないでいた。
 女御がおかしくなっているのは、確かに陰気を直に受け、気が立っているせいもあるのだが、アレが本来の女御の気質だという事を鳴瀧は知っていた。なぜならば、緑子が受けている呪詛の送り元を辿れば、大抵が梨壺にたどり着くからだ。
 おそらく、床の下を掘り返せば色々と女御にとって立場を危うくする者が、ごろごろ出てくるはずだ。
 その事を緑子自身知ってはいるが、たいして気にはしていないため、放っておいているに過ぎない。
 自分がやっているからこそ、やられてもおかしくはない。
 単純な思考ゆえに、あのような事を口走っているに過ぎないのだが、その事を主上に言うわけにもいかず、鳴瀧は無言のまま主上の愚痴に付き合っていたのだが、不意に視線を鋭くさせ、虚空を睨み付ける。
「梨壺の祓えは、後日、日を見て陰陽の頭がお伝えする事になりましょう。
 主上、この場に私がいてもこれ以上できることはありませんので、退出を赦して頂きたいのですが?」
「出来れば、今宵は宿直をして貰いたいのだが・・・・・」
 鬼はスッと姿を消しただけであって、調伏したわけではない。
 この内裏で一番高貴な身分である主上が不安に思うのもおかしくはなかったが、鳴瀧は留まるつもりはなかった。
「藤壺の近くに、おそらく一連の鬼が出たようです」
 麻衣に付けた秋初月が臨戦態勢に入ったのを感じ取り、そう告げると弱々しかった主上の顔からさらに血の気が引く。
「こ、今度は藤壺・・・・・・・・! 緑子の元か!?」
「実際には藤壺に渡る途中でしょう。
 急ぎ参りたいのですが宜しいでしょうか」
「構わぬ! すぐに、行ってくれ!」
 鳴瀧は軽く頷き返すと、殿舎から走り下り、榊の元で情報収集にいそしんでいる朧月の名を呼ぶ。
 式神にとって主の元へ向かうのに距離はあまり関係なかった。一度、現世から姿を消し、異界に潜み目指す気配を頼りにもう一度姿を現す。鳴瀧がほんの数十歩ぐらい走ったころに、町を探索していた朧月は姿を現した。
「馬に」
 いつもの通り狼の姿で現れた朧月に、馬の姿になるよう命じると、瞬きをするまもなくその姿は漆黒の馬に変じる。それに飛び乗ると、勢いよく腹を蹴り藤壺へと向かったのだった。

 
 
 
 
 










 あわただしく武士や陰陽寮の者が動き回るのを視界の片隅で見ながら、麻衣は思わずその場に座り込んでしまう。
 いままでずっと寝込んでいたからか、身体が非常にだるく感じられたのだ。
 もしかしたら、熱が再び上がってきてしまったのかもしれない。
「姫様・・・具合が?」
 秋初月が心配そうに声をかけてくるが、麻衣は弱々しい声で「大丈夫」としか答えられなかった。
 ここ数日どうも体調がおかしいのだ。
 身体が自分の言う通りにならず、目眩が酷い。微熱もこんなに長い間続く事は今までなかったことであり、何か今流行りの病でも掛かってしまったのだろうか?
 だとしたら、ノコノコと緑子の元に行く事は出来ない。
 どんな病なのか判らず、うっかりと側に行っては、疫病を緑子に移してしまうかもしれないのだ。
「秋初、私は大丈夫だから緑子様の所に行って?」
「それは、なりません。
 わたくしは主様より姫様をお守りするよう申し使っております。何があっても、たとえ主様の身に万が一の事があっても、わたくしは姫様の元を離れません」
 きっぱりと言い切った秋初月の言葉に麻衣は困ったように眉を情けなく降ろす。
「女御さまの元には、夏初月がおりますので姫様は何も心配される必要はございませんわ。
 夏初月はあのように童の姿形をしておりますが、戦闘向き故心配召される事はそうそうありません。
 それに、夏初月一人で手に負えぬならば、直ぐに他の式神が参ります。
 ですから、わたくしが向かう必要はありません」
 きっぱりと言い切る秋初月の言葉に麻衣は軽くため息をつく。
 確かに藤壺には夏初月がついており、彼一人の手に負えないようならば、鳴瀧が察して他の式神を回すだろう。榊の元にも朧月がいっているが、他に9体の式神が控えているのだ。手が足りないという事はないだろう。
「それよりも、姫様お顔の色が優れませんわ。
 藤壺の女御様には大事ございませんし、今宵は退出されたほうが宜しいのではないでしょうか? 無理をされてはまた、お熱が上がってしまいます」
 だが、これには麻衣もすんなりとは頷く事はせず、ふらつく身体で立ち上がろうとするが、その身体はおぼつかずふらりと崩れかかるが、背後から伸びてきた腕に支えられる。
「主様」
 その声に閉じかけていた瞼を開けば、見慣れた顔が背後にあった。
「鳴瀧・・・・・・・ごめん。ちょっと、ふらついちゃった」
 自分の足で立ち上がろうとするが、鳴瀧が抱き上げてしまう。
「ムリに立とうとするな。ひっくり返るだけだ」
 無情に言い捨てるとその身体を抱えたまま視線を辺りへと巡らせる。
 先ほどまで武士や陰陽寮の者達の声でそれなりにざわめきがあったのだが、鳴瀧の登場にその場は水を打ったように静まりかえる。
「ここに出たのか」
 問いかけではなく断定の問いに、秋初月が重々しく頷き返す。
「梨壺と同じ陰気が渦巻いている。
 特にそこ・・・・穢れたな」
 鳴瀧は指した辺りは、鬼が先ほど立ち尽くしていた場所であり、赤黒い染みが渡殿に染みついている場所でもあった。
「姫様に襲いかかろうとしましたので、わたくしが風で切り裂いた際に出た血です」
「血・・・・ね」
 鳴瀧は遠目にその場所をすっとにらみ据える。
「まだ、本体から分離はしていないところをみると、力が足りないか? だが、これほどの陰気を残しておきながら力が足りないとは解せないな」
 この場に渦巻く陰気はすでにかなり濃厚なものになっている。
 残り香でこれほどまでなら、本体から発する陰気はかなりのものだろう。
 それを浴びて未だに正気を無くしていない梨壺の女御は剛胆と言えるが、あの状況も多少はいきすぎているのかもしれないが、梨壺から離れればしばらくで落ち着くだろう。
 問題は正気を無くしてしまっている女房のほうだろうか。
 鳴瀧は脇で武官医師に介抱されている女房へと視線を向けて目を細める。
 清涼な地で身を休めてもはたして、陰気の影響が薄れるかどうかが判らない状態だ。麻衣のように耐性ができてなければ、正気をなくせるほどまで、たった一晩で「鬼」は力を増しているようだ。
「それは、鬼の血だ。触れるな。
 むやみに触れれば陰気に当てられ、そこの女房殿のように正気をなくすぞ」
 渡殿に染みついた血を洗い落とそうと、やってきた雑司達に鳴瀧は一言告げる。
 女房のように気が触れるとも限らないが、むやみやたらと触らせないに越した事はない。下手に触れられ内裏中に鬼の陰気をばらまかれてしまっては、後始末が面倒なだけである。
 淡々としたその口調に、雑司達は一瞬何を言われているのか判らなかったが、狂い泣き叫ぶ女房を見るなり、「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさる。
「清めの儀が終わるまで、この渡殿は封鎖するように伝言を・・・いや、この書を主上と太政大臣に届けるように」
 側にいた陰陽生の一人に、鳴瀧は書き付けた書を送ると、清涼殿に戻った主上とその側に控えているだろう太政大臣に届けるよう伝えると、鳴瀧は麻衣をいったん朧月の背に乗せると、懐から何枚かの札を取り出し、指先を小刀で傷つけると血で札に何かを書き付ける。
 それを、血を囲むように五芒星の形に置いておき、唇を微かに動かして何かを呟く。
 三言か四言か・・・誰の耳にも届かなかったが、一陣の風が葉を揺らせたかと思うと、鳴瀧はその場から離れる。
 釘で打ち付けたわけでもないのに、薄い紙は板に張り付き風に吹かれても離れる様子はない。それを確かめると周りにいる者達に視線を巡らせる。
「ここは鬼の血で穢れているため、後日陰陽寮で祓えの儀を行う事になるはずだ。それまで、かりそめに封じてある。この札を剥がさぬように周知するように」
 コクコクと遠巻きに見ていた男達が頷き返すのを見た鳴瀧は、麻衣を朧月から降ろす。すると、武士達の見ている目の前で朧月の姿が不意にきえ、聞きたくもない男の悲鳴を聞く羽目になったのだった。
「秋初月、このまま屋敷に戻る。先に門の所へ行って牛車の用意を。
 帝が寄越した牛車が門の所で待っているはずだ」
 麻衣の側を離れるのは不服そうだったが、鳴瀧側にいる以上麻衣の身に危険が迫るはずもなく、渋々と言った様子で姿をかき消す。
 麻衣を抱えたまま鳴瀧は歩き出すが、腕の中で麻衣がいつまでもそう大人しくはしているはずがない。
「鳴瀧!? 私、緑子様の所に行きたいの!!」
 そのために宮中に来たのだから、このまま会わず戻る事なんて出来ない。
「これを陰陽の博士に」
 だが、鳴瀧は麻衣がどんなに喚こうとも一向に気にすることなく、筆を滑らせてさらに何かを書き付けると、それを近くにいた陰陽生に手渡し、陰陽博士に届けるよう伝えると、自分の仕事は終わったと言わんばかりに、麻衣を抱え込んだまま歩き出す。その場にいた者は一言も何も言う余裕はなく、二人を見送ったのだった。
 鳴瀧は、先ほど牛車を降りた門まで歩ききると、すでに出発する準備を整えていた牛車に麻衣もろとも乗り込む。
 二人が座したのを確認したのだろう。牛車はゆっくりと動き出した。
「なんで! 緑子様の様子を見てからでも遅くないでしょう!?」
「オロカモノ。お前は鬼と会ったんだ。それによって鬼の陰気を身に帯びている。
 そんなものを身に帯びたまま、殿上するつもりか。
 結界が陰気によって内から穢れたら結界は鬼にとって障害ではなくなる。お前はわざわざ結界を壊しに行きたいのか」
 そう言われてしまうと身も蓋もない。
「身体がだるいのって・・・・・・その鬼のせい?」
「そう」
「だけど、今までだって何度も鬼と会ったけど、こんな事ならなかった」
「日が悪い。
 お前はここのところ身体の内に必要以上に陰気を溜めて体調を崩していた。そこで鬼の強い陰気だ。それで身体が大丈夫なら人ではない」
 淡々と説明する鳴瀧の言葉はけして理解出来ないものではないのだが、麻衣は首をかしげてしまう。
「なんで、私の身体に必要以上に陰気が溜まるの?」
 その問いに鳴瀧は苦虫を噛み潰したような顔をするが、諦めたように口を開く。
「僕の曾祖父が狐と人との間に出来た子供だという事は、噂ではなく事実だという事を、お前は知っているだろう」
 コクリと頷き返す。
 数々の伝説を残し未だにその名を噂される安倍晴明は、狐と人の間に生まれた半人半妖だという噂が、今も耳に入る噂の一つとなっていることは、麻衣も知っていた。だが、それは噂ではなく事実だという事を知るものはそれほどいない。
「安部晴明の血を引く者は、多かれ少なかれ程度の差はあるが、狐・・・天狐の血を引く事になる。簡単に言うなら妖しの血だ。僕も直径の曾孫でありその血を引いている。おそらく曾祖父の血を引く中では一番強いんだろう」
 呪力を使う時、その瞳と双眸が黒金の輝きを放つ事が、妖狐の血を引く証なのだろうか。だが、鳴瀧以外で黒金に輝く者はいなかった。
 鳴瀧の祖父・・・晴明の息子ですら、そのような変貌は身に現れる事は無かったという。
「万物はすべて陰陽から成り立っている。それは自然の摂理だ。
 人を陽とするならば、妖しは陰。
 男を陽とするなら、女は陰。
 妖しの血を引いている僕は、男でありながら陰の気も帯びて居るんだ。安部家の者は僕だけではなく皆が帯びていると言ってもおかしくはないが、その血が特に濃く出てしまっている僕は、他人に影響を与えるほどのものを持っているのだろう。
 だから、お前は僕と交わる事で、身体に必要事情に陰気を溜めてしまうことになる。
 それが積もればこうして体調を崩す。
 身体の中の陰陽のバランスが崩れたからだ。そこで、鬼の陰気をさらに浴びたんだ。これで平気ならば人間ではないな」
 自嘲の笑みを浮かべた鳴瀧はそっと手を伸ばして白いふっくらとした頬に触れる。
「あまり負担をかけるつもりはなかったんだ・・・・済まなかった。
 ここまで影響を与えるとは、予想を超えていた・・・・・・・・・」
 滅多に謝らない鳴瀧がさらりと謝罪の言葉を口にしたため、驚きに目を見開くが、ぶんぶんっと激しく首を振る。
「鳴瀧が謝る事じゃないよ!
 このぐらい私は平気だから、気にしないで?
 でも・・・だから、ここのところ・・・・・・・・・・その・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 最後は顔を真っ赤にして俯いてしまった麻衣の言いたい事が判った鳴瀧は苦笑を浮かべる。
 麻衣が体調を崩して一週間実質それよりも一週間ほど前から、麻衣の気が崩れている事に気が付き、触れる事を避けていた。月の障りでもない限り、一週間も麻衣の肌に触れなかった事はなかったため、少し不安に感じていたのだろう。
「病人を抱く趣味は持ってはいない。
 それに、今は半年分の乱れが一気に出ているが、これから少しずつ身体が慣れてくる・・・・」
 頬を両手で包むと、顔をよせ啄むように唇を寄せる。
「慣れていくの・・・・・・・・・?」
「多少は時間は必要だが、耐性は付いてくる・・・・・・・」
 ふっくらとした唇に軽く口づけると、鳴瀧は深い笑みで答える。














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