藤の籠  














「鳴瀧殿もご存じの通り、獣の被害に遭っているのは左京区・・・貴族の屋敷ばかりです。
 右京区も確認してみたのですが、報告は上がっておらず、特に問題となるような事件も起きていないというか・・・右京区では、この手の死体が有りすぎて、該当するかどうかの判別が付かないのが現状なのですが、おそらく件の獣は左京区のみ限定で現れていると考えられます。
 二ヶ月ほど前に最初の被害が出たのを封切りに、現在までに6件確認がとれています。源大納言様邸、参議藤原正和様邸、若狭の受領春道忠昭様邸、同じく受領の藤原博興様邸、大夫藤原裄人様邸、澤月の宮様邸にて、被害が報告されています。
 被害に遭っている者は、女房か家人、もしくは下働きの者といった屋敷に仕える者達ばかりで、屋敷の主に連なる者で被害に遭っているものはいませんでした。
 まぁ、高貴な方々は屋敷の奥深くでお過ごしになられてますから、そうそう獣に襲われる事などないとは思うのですが、気になる共通点は他に二点。
 一つは、どの屋敷も丑寅の方角で被害に遭っています。敷地の外と中と違いはありますが、おおむね方角は同じと言えます。さらに細かく言うならば、外塀の内か外かの違い程度です。実際に、何軒かは臘月殿にも見て貰いましたが、血臭が今も残っているところから考えて、おびただしい量の血が流されたと考えられるそうですしどの遺体も首元を噛み千切られて死んでいたと、発見した者達が教えてくれました。
 殆どが首の後ろ皮一枚で繋がっているような状態で、一噛みだという者も今したね。死体はどの家もそうそうに鳥辺野辺りに置き捨ててしまっていますので、死体の確認はできてません。
 もう一つ気になったのは、屋敷に住まう姫が奇行に走ったという事でしょうか。
 屋敷の者が殺されて三日もしくは四日以内に、姫もしくは、側室や北の方がご自慢の黒髪を、自ら切り落としてしまうといったことが起きています。切り落とした髪はその後何故か、ふっつりと姿を消してしまい、鬘(かもじ)にして誤魔化すという方法が出来ず、慌てふためいているそうです。
 中には世をはかなんでそのまま出家されてしまわれた方もいらっしゃるとか・・・そう言えば、澤月の宮様の二の姫様はたいそう髪の美しい姫という話でしたよね・・・入内の話も上っていた矢先、病に掛かってしまわれて出家されたとか・・・・・・・・もしや、二の姫様が難に遭われたんでしょうかねぇ。
 そういえば、博興殿は以前髪のたいそう美しい町娘に一目惚れして、側室にしたとか何とかの自慢話をしていた事がありましたっけ? ああ・・・大夫の裄人様の妹君が髪の美しさにかけては右に出る物がいないという評判も聞き及んだ事がありましたし・・・・」
 ツラツラと、榊は都中の髪自慢という姫や側室、奥方の名を連ねていく。
 なぜ、それほどまでに詳しいのか鳴瀧は興味はないが、そらんじて出てくるそれらには、さすがに呆れを隠せないでいる。
「鳴瀧殿は、麻衣殿一筋ですからねぇ・・・いや、他の姫の自慢話なんて秋風程度のものだとは思いますけれど、ちょっと耳を傾けてイロイロな時に時に役立つんですよ」
 何に役立つのか鳴瀧には今一つ理解出来ないが、榊がツラツラと名をあげた髪自慢の中には、すでに獣の被害にあった屋敷の名もあった。
「梨壺の女御も、髪を切り落とされていたな。
 自分ではなく、こちらは鬼に切り刻まれたようだが。
 あの女御も確か髪を自慢しているという話を聞いた事があったな」
 鳴瀧の記憶に残る噂話のレベルは、女御レベルとなると榊のように、広く造形が深くなるのは当分やってこないだろう。
 何処で聞いたのかは鳴瀧も覚えては居なかったが、藤壺に対抗して髪を自慢し合っていたような記憶があるような気がしていた。
「梨壺の女御様も、見事な御髪らしいですよ。
 主上のお褒めを頂いたとかという話でしたら、僕も聞いた事がありましたっけ。
 その、ご自慢の髪を鬼にですか・・・・さぞかし、心を痛めていらっしゃるんでしょうねぇ」
 普通の姫ならば確かに心を痛め、気が動転しているだろうが・・・・あの時のあの様相はとても出はないが、心痛のあまりとは言い難い物がある。
 鳴瀧にとっては女御の心痛などどうでもいい話なのだが。
 鬼が出始めたのは、先日に藤壺に現れたのが最初だ。
 昨夜の時点では鬼にたいした力は備わっていなかったが、梨壺に次に現れた時には、陰気がかなり濃厚になっていた。だが、まだ己の事をよく理解していないのだろう。女御の髪という被害は出たが、人命が損なわれるような被害はかろうじて出ていない。鬼の執着が髪にあるからだろう。
 だが、いずれその髪を奪うために、人命が損なわれる可能性があった。もしくは、人命を損なわずとも髪が手に入ってからかもしれないが。
「厄介な事に、宮中で騒動を起こしてくれたから、僕も榊もしばらく自由に動く事が出来ないだろう」
「ですね。これからしばらく、やんごとなき方々のお守りで終わっちゃいそうですねぇ〜〜〜〜。
 鳴瀧殿。僕は暢気なヒトリモノですから構いませんけれど、麻衣殿は大丈夫なんですか? 体調を崩されている時に鬼に遭遇されたのなら、陰気の影響・・・・・・・・・来客でしょうか?」
 軒近なわけではないが、広くはない屋敷。来客がくればその気配が屋敷の奥にいてもわかる。にわかに屋敷の中が騒々しくなり、荒い足音がまっすぐ近付いてくる。
 その足音は一つではない。複数の足音に、女房達の止める声が聞こえてきた。
 その中の一つの声に、鳴瀧は渋面を作り、榊は苦笑を浮かべながらイソイソと立ち上がる。
「僕はこれでおいとまさせて頂きます」
 騒動に首を突っ込むのも榊は好きだが、時と場合を考えれば今は適切な時ではないと判断し、乱入者とかち合わないように退室する。そのタイミングを狙っていたかのように、足音はどんどん近づいてくる。
「麻衣姉様は何処だ!」
 まだ、幼さの残る高く澄んだ声が室内に響き渡る。
 元服前の童姿の少年が勢いよく乱入してくる。頬を赤く染め眉をきりっとつり上げ、険しい表情で鳴瀧を睨み付けるが、鳴瀧は先ほどの渋面からいつもの無表情に戻り、立ち尽くす少年を見上げている。
「麻衣が何処にいようとも関係ないだろう」
「ないわけがない!
 僕は、お前を麻衣姉様の夫とは認めてないぞ!! 麻衣姉様は僕と一緒にお屋敷に帰るんだ!」
 元服を一年か二年後に控えているとは言え、まだまだ幼さの目立つ年頃。幼児のような癇癪を起こし、その場で地団駄を踏む少年に対し、鳴瀧はフッと口元に何とも表現しがたい笑みを浮かべる。
「別に認めて貰う必要はないが?
 判ったのなら、お帰りを願おうか。五月蠅くてかなわない」
「な・・・・なんだとぉぉぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜って!!」
 絶叫を上げた少年の後頭部を、振りかざされた檜扇が見事に叩く。
 スッパーンっと心地よいぐらいの音が響き、少年は痛みのあまり涙目になる。
「余所の屋敷で、みっともなく騒ぐんじゃないわよ」
「は・・・母上・・・・・」
 少年とよく似た面差し・・・この場合言うならば、少年の方が似た面差しと言うべきかもしれないが・・・した、妙齢の女性が顔を隠すことなく、室内に入り込む。
 息子を一睨みした後、室内にざっと視線を巡らすが、そこに彼女の探す姿はない。
「麻衣は、どこ?」
 にっこりと艶やかな笑みを浮かべて問いかける彼女に鳴瀧は軽くため息をつくと、手にしていた扇で庭を指し示す。
「外で禊ぎを」
 その一言に、彼女の眉が勢いよくつり上がる。
「この、冷えた空気の中で禊ぎをあの子にさせているの?」
 握りしめた檜扇が小刻みに震え、ミシミシと音を立てる。
 それに気が付いた少年は怯えたように一歩・・・二歩下がる。
「陰気に当たりすぎたのだから、仕方有りません。
 時と共に陰気が薄れるのを待っていたら、麻衣の体力が持ちませんから」
 さらりとした言葉を否定するかのように、バキッと音が響く。
「それ以前に麻衣の体力が持つわけないでしょう! 私はそんな無茶をさせるために、あんたの所にあの子を上げたワケじゃないわよ!!
 これ以上無茶をさせられないうちに、麻衣は連れて帰るわよ!!」
 母の言葉に少年は喜色満面。小躍りしそうな勢いだが、鳴瀧は慌てる様子はない。
 それどころか、悠然とした構えを崩す様子もなく、連れて行ける物ならと言われているような気がし、涼子はますます眉をつり上げるが、その場に相応しくない声が緊迫した雰囲気を壊す。
「あれ?涼子ねーさま、どうしたの?」
 その声に背後を振り返れば、ずぶぬれと表現してもおかしくない出で立ちをした麻衣が、階をペタペタと音を立てて歩いてくる。
 ぐっしょりと水を含んだ単(ひとえ)と紅袴の上に袿を被ってはいるものの、長い髪も水分をかなり含み身体に張り付いてしまっていた。直ぐ傍に付き従っている秋初月が乾いた布で髪の水滴を拭っているが、そうそう簡単に水気が無くなるわけもなく、小刻みに震えている姿が涼子の目にもはっきりと見える。
「どうしたのじゃないわよ! 麻衣、私と一緒に屋敷に帰るわよ!!」
「は? ねーさま・・・そんなに怒って、何かあったの?」
 涼子が怒り心頭なのは判るのだが、なぜそんなに腹を立てているのかは麻衣には見当も付かず、不思議そうに首を傾げる。
「麻衣姉様、暢気すぎです!
 このままこんなアヤシゲナ陰陽師と一緒にいたら、姉様の身体が持ちません!!
 いいえ、それどころかそのうち殺されてしまいます!!
 僕と一緒にお屋敷に戻りましょう!」
「し・・・雫丸まで来てたの?というかいったい何の騒ぎ??」
 二人に両サイドを固められ右往左往する麻衣は、救いを求めるように視線を、二人から鳴瀧へと向ける。それが、気にくわなかったのか雫丸は手を伸ばして麻衣の頬に張り付いている髪をそっと手に取り、その耳にかける。
 相手が童だからか麻衣はまったく意識をした様子もなく笑顔で礼を述べるが、まったく意識されなかった事に雫丸の方が面白くなかった。
「雫丸の言う通りよ。麻衣、あんた今の季節が判っている?」
「もちろん。神無月だよ。
 晩秋だしだいぶ寒くなってきたよねぇ。さすがにこの季節の水は冷たくて冷たくて」
「ええそうよ! 早朝には霜が降りるようになってきたし、後一月もすぎれば雪がちらつく日もあるでしょうね!! その晩秋に禊ぎさせる人間がどこにいるのよ!」
 キーンッと突き刺さるような声に、麻衣でなくても耳を塞ぎたくなるだろう。まして、至近距離で叫ばれれば、頭がクラクラしてきそうだ。
「いや、でもね。偶然鬼と遭遇しちゃって、禊ぎしないとかなりきつかったし、確かに水はもう冷たいし寒いけれど、だいぶすっきりと身軽になったわけだし」
 別に強要されたワケではないと言おうとするのだが、涼子は聞く耳を持とうとはしない。
「鬼と遭遇するような場所に連れて行く鳴瀧に問題があるのよ。
 今までも何回、怪我や危険な目に遭っていると思っているの? 本来ならば藤原の姫が貴方のように危険な目に遭う事などないというのに・・・そもそも、貴方は本来ならば・・・・・・・・」
「涼子殿、いい加減過ぎた事をグチグチ言い続けるのは止めて貰いましょうか。
 麻衣の事を気遣って頂けるのならば、そうそうに乾いた衣に着替えさせたいのですが?」
 涼子が言いかけた言葉を遮るように、今まで沈黙を守っていた鳴瀧が口を開いた。
 いつもとなんら変わらない口調でありながら、視線は涼子を射抜くように強い。
 その視線に射抜かれたワケでもないだろうが、ばつが悪そうな表情で涼子は口を閉ざす。
「なんなの?」
「本来ならば、陰陽師ごときの男の妻となるような身分じゃないと言いたかったのよ」
「身分って・・・たかが、受領の娘なのに・・・・」
 自分は涼子のように家柄の良い家の者ではない。
 まして、父の身分を麻衣はしらず、何処の馬の骨か判らない身の上で、身分など言えるような立場と思った事は一度もない。祖父が長年受領をしているが、身代が特別良いと言うわけでもなく、陰陽師の妻というのは相応しいと思っているほどであり、これ以上を望む方が逆に分不相応であり、望みたいと思った事さえ正直に言えばないのだ。
「それに、私は幸せだよ?」
「寒さで震えても?」
「寒さでって・・・貧しくて、震えているワケじゃないし。それに、今回鳴瀧は関係ないし。
 宮中で鬼が出たと聞いたから、緑子様の事が心配でお見舞いに・・・っくしゅん」
 麻衣が小さくくしゃみを一つすると、さすがの涼子もこれ以上小言を言う事は諦めたのだろうか。
 ため息を一つ漏らすと、麻衣にさっさと着替えてくるように伝える。
「まったく・・・体調を崩して寝込んでいたというのに、何を考えて宮中なんかに・・・・・・」
 一通り喚き散らして頭に上っていた血が下がったのか、涼子はその場に座り込むが、雫丸はまだまだ麻衣に未練があるのだろう。後を追いかけようとくるりと身を翻すが、涼子に襟首を捕まれる。
「元服前とはいえ、着替えを覗きに行くのは言語道断よ。
 鳴瀧に呪殺されたくなかったら大人しくしてなさい」
「こんな男、僕怖くないよ」
 むっつりと頬を膨らませて意義を唱える息子の額をピンッと人差し指で弾く。
「そう言う事は、元服して、真っ正面から鳴瀧と麻衣を取り合えるようになってから言いなさい。
 そもそも男として認識されていない内は、いくら粋がっても相手にされないわよ」
 母に痛いところをつかれ、雫丸はフグのようにさらに顔を膨らませるが、それがますます子供っぽいのよと母にバカにされ、堂々巡りである。
「いい加減にしてもらえませんか?
 僕は、これから参内の準備をしなければならないので、あなた方と違って遊んでいられるような身ではないのですが」
 鳴瀧の嫌みなど涼子にはまったく通用しない。
 ふふん。と鼻先で笑い飛ばす。
「参内でもなんでもすればいいじゃない。
 私は麻衣を連れ戻しに来たんだから、陰陽師殿の忙しさは私には関係ない事よ」
 今度は静かなるにらみ合いが始まろうとしていたが、それは本格的に始まる前に、麻衣の登場によって再び治まる。
「ねーさま、心配してくれるのは嬉しいけれど私は大丈夫だよ?」
 髪はまだ水気を重く含み、顔はいまだ青白かったが乾いた衣に着替え人心地が付いたのだろう。震えは治まり先ほどに比べれば赤みが戻ってきている。
 それでも冷えた身体を気遣い、秋初月や菊月が火桶を運んできたり、暖かい湯気のくゆる白湯を運んできたりとかいがいしく世話をする。
 それらを受け取りながら、涼子を安心させるかのように笑みを浮かべる。
「鳴瀧は、寝ていろって言ってくれたの。
 本調子じゃないんだから、休んでいろって。
 だけど、私がムリ言って付いていったの。そうした方がいいと思ったから・・・・だから、鳴瀧を責めないで?
 悪いのは、鳴瀧の言う事を聞かなかった私なんだから」
 拝むように言われて、振り払える人間がいるだろうか?涼子とて別に鳴瀧が憎いわけではない。
 麻衣を大切にしてくれているのは判るのだが、この男の基準と世間一般(貴族一般)の基準が違いすぎるのが問題なのだ。貴族の姫を貰ったのだから、鳴瀧も貴族に連なる者としてそれなりに振る舞えば、涼子とて文句などなにもない。逆に見栄えがし、さぞかし当代きっての貴公子になるだろうに・・・
 やって出来ないのならば何も言わないが、やれば出来るからことを知っているからこそ、腹立たしく感じるのであった。
 苦虫を何匹もいっぺんに噛み潰したかのような渋面をしながらも、諦めたようにため息をつく。
「判ったわ。
 今回はこれ以上何も言わないけれど、麻衣。あんたもう休みなさい。
 顔色が悪いわよ。
 まったく、いくら式神で事足りるからって女房が少なすぎるのよ・・・人手が足りないなら、家から・・・・・・・」
「涼子ねーさまの申し出は嬉しいけれど、大丈夫。
 皆とてもいい人達だし、秋初や菊はとても気が利くよ?」
 にっこりと柔らかな口調でありながら、きっぱりと断る麻衣に涼子は渋々今度も言葉を呑む。
 鳴瀧が人を嫌うからと言って、麻衣一人が我慢しているのではないか・・・と常々思ってしまうのだが、それは常に大勢の者達に囲まれて生活をしている自分だからの考えなのだろうか?
 親戚筋でありながら、麻衣と涼子は血筋も、身分も、財も何もかも違った。
 それは、そのまま幼い頃から育ってきた生活環境にも大きく影響を及ぼす。
 涼子は、いまだ麻衣の育ってきた風景を見た事はないのだが、麻衣の実家ももしかしたら大勢の家人は居ないのかもしれない。最近少しだけそう思えるようにもなってきたのは、麻衣が今の生活を戸惑っているようにはみえないからだろう。
 逆に自分の屋敷にいた時よりも生き生きした様子に、さすがに自分の価値観を押しつける気にはなれないでもいた。
「判ったわ。もう、私は何も口出しはしないわ。
 だけど、今夜は参内なんてせずに屋敷で休みなさい」
「でも・・・・・・・・・・・・・」
「涼子姫の言うとおりだ。
 今は著しく体力が落ちている。陰気が祓えたからと言って、体力が戻っているわけではない。
 それに・・・・」
 鳴瀧はふっと麻衣の耳元に口を近づけ、涼子と雫丸に聞こえないようにささやきかける。
「先ほどの禊ぎで祓えたのは鬼の陰気だけだ。
 蓄積されている僕の陰気は、まだ残っている。判っているんだろう?」
 吐息が首筋を擽るほどの至近距離に、麻衣はかっと頬を赤らめながらも、渋々頷き返す。
「イイコだ」
 そのまま唇が頬を掠めて離れる。
 二人が見ている前だというのに、まったく無頓着な鳴瀧の行動に、麻衣は真っ赤になって言葉を続ける事が出来ず、涼子は「見てられないわ・・・」と呆れたように呟き、眼前で繰り広げられた光景に、雫丸は血が滲み出るほど唇を噛みしめる。



 鳴瀧は参内する支度を調えると、秋初月と菊月を麻衣の元に残して、内裏へと向かう。
「麻衣、貴方はもう休みなさい。
 顔色はまだ悪いわよ。ああ、だけどその前に食事を取らないと、冷え切った身体は暖まらないわね。
 今日は羮(あつもの)を多く食べなさい?それから、薬湯もちゃんと飲むのよ。
 確か屋敷に蜂蜜があったわよね・・・・」
 火桶の数を増やし、さらに袿を羽織らせ、涼子は他に何か足りない物は・・・と母親よろしく、動き出す。
 麻衣はその様子を言葉も挟めず呆れながら見ていたが、亡くなった母親が生きていたらやはり同じような事をしてくれたのだろうか?と思うと、嬉しくもくすぐったくも感じた。
 身体がまだ幾分だるいため脇息に寄りかかりながら、食事が運ばれてくるのを待っていると、視線を感じ顔を上げる。
 すると、何か言い足そうにこちらをみている雫丸に気が付く。
「どうかしたの?」
 不思議そうに問いかけると、雫丸は麻衣の真っ正面に腰を下ろす。
「姉様はどうしてあんなアヤシゲナ陰陽師と一緒になったの?
 姉様なら、もっといい人と一緒になれたはずなのに・・・・」
 悔しそうに呟く雫丸だが、麻衣はクスクスと笑みをこぼす。
「私、不幸せそうに見える?」
「・・・・・・・・・・・・・見えないけど・・・・・・・・・だけど! 僕の家にいたら姉様は鬼と遭遇したりすることもなかったし、こんな人気のない寂しくて荒れた屋敷で生活することだってなかったはずだよ」
「淋しくなんてないよ?
 大勢の人にかしずかれての生活も素敵だけれど、私はここでの生活も素敵だと思っているの。
 慣れ親しんでいる家人達もいるし、秋初や菊もいるし、鳴瀧も傍にいてくれるの。綺麗に整えられているお庭も素敵だけれど、このお屋敷のお庭は、おじいさまのお屋敷を彷彿とさせてくれるし、とっても居心地がいいの。
 あのね、一見しただけだと荒れたお庭に見えるけれど違うんだよ? すべての自然があるがままに・・・本当の意味で自然な状態であるの。それに全く手入れが施されていない訳でもないんだ。四季折々の花々や草木、虫たちに囲まれ、大好きな人達の気配が間近に感じられるのって、とても素敵な事だよ?」
 大きな屋敷での生活ははっきり言ってしまえば麻衣には窮屈である。
 会いたいと思っても気軽にはあえず、会いに行く前には必ず使いの者をやり、相手の承諾を得て漸く相まみえる事が出来る・・・それも、けして毎日ではない。同じ屋敷にいてそうなのだから、通ってくる夫を待つ妻達はどれほど心細く淋しい毎日を送っているのか。
 物や人に溢れた生活をしていても、羨ましいとは麻衣には思えなかった。
 麻衣が何を言っても不満を感じている雫丸には、理解出来ない話だろうが。
 大貴族ではないが、それなりの家に生まれ過ごしてきた雫丸から見れば、この屋敷はみすぼらしく、狭苦しい屋敷にしか思えない。家人が少ないため麻衣の仕事も多く、深窓の姫君、貴族の奥方から見れば女房となんら変わらないだろう。
 自分の大切な人がそんな生活をしているのを見て、黙ってはいられないのかもしれないが。
「雫丸。まだ童殿上したての小僧が、ぐちぐち言って居るんじゃないわよ。
 偉そうな事を言いたいなら、元服してそれなりの位についてから言いなさい。今のあんたは鳴瀧以下なんだから。口だけの男はみっともないわよ」
 母である涼子にぴしゃりと言われ、雫丸はムッと黙り込む。
「麻衣もさっさと食事をして休みなさい」
  



 
 

 










 誰かが泣いている・・・・・・・・・・
 声を押し殺して、密かに涙を流す声・・・・・・・
 そういえば、ここ最近聞こえるような気がする・・・・・・・





 うっつらうっつら、
 夢うつつに麻衣はそんな事を考える。
 意識の欠片はトロトロと、止めようもなく流れ出ようとしてしまうから、思考は纏まらない。
 だが、それでも押し殺すような鳴き声だけは判る。
 時々、聞こえてくる声・・・・・・・・
 なにを、鳴いているのだろうか。
 なぜ、声を殺して鳴いているのだろうか。
 鳴きたいのならば、涙を流して、声を出して鳴いてしまった方が楽だというのに・・・・・




 ああ、そうか。
 この人は大貴族の姫君なのだ。
 姫君は声を立てて笑わない。それは、恥ずかしい事だから。
 だから、そっと扇で口元を隠しながら、静かに微笑む。
 姫君は、大きな声で怒鳴らない。それは、恥ずかしい事だから。
 だから、姫君は扇で顔を隠して、深く息を吐く。
 姫君は、声を上げて泣かない。
 だから、姫君は衣で顔を覆い、声を押し殺して涙をそっと流す・・・・・・・・
 感情を表立たせる事は、姫君としてあるまじき事・・・・・・・
 どっかで聞いた言葉が脳裏に浮かんでくる。
 だから、この人は声を押し殺して、誰にも気が付かれないように泣いているのだろうか・・・・
 何が哀しくて泣いているのだろうか。
 それとも、腹立たしさのあまり? 憎しみのあまり?
 人が涙を流す理由など数え切れないほどある。
 そっと、声を押し殺して、泣く彼女は何に涙を流すのだろう・・・・・・・・・・・







「なぜ・・・・・・・泣いているの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」







 静寂にポツリと響く言葉に、秋初月は怪訝な顔をする。
 僅かな月明かりさえ届かない暗闇の中でも、式神である秋初月には主の顔がはっきりと見える。
 呼吸はいまだ深く、彼女の意識が目覚めた様子はない。
 譫言か?
 と、思いつつも今の譫言は気になる。
 まるで、誰かに話しかけるような口調・・・・・・・
 起こした方がいいのだろうか。逡巡するが今だ顔色の悪い主を起こすのは忍びなく、魘されている様子もないため、今しばらく様子を見る事にしたのだった。