藤の籠  



















『皇子を産み参らせるのじゃ!』
 年老いた男の執念にもにた声が聞こえてくるようだ。
『初の男の子(おのこ)を産み参らせ、我らの悲願を達成するのじゃ!!』
『え〜い! なぜ主上は我が娘の所へ足を運んではくださらぬ!
 そなたも、もっと主上に好まれるよう振る舞えぬのか!!』
『でかしたぞ蝶子。主上にとて初の御子じゃ。
 これで我らが一門は末永う安泰じゃ。これでもう藤原北家にばかにされずすむというもの。でかしたぞ。
 後は皇子を産み参らせるのじゃ』
 喜んでいるのか脅迫しているのか、判らない圧力がかかってくる。
 腹の子が男の子でなければ、どうするのであろうか・・・・
 いや、たとえこの腹の子が男の子であったからといって、父が望むような結果になるというのだろうか?
 たとえ第一子とはいえ、母の身分が低ければ源の姓を賜り、臣籍に下ることもあるというのに。
 日に日に膨れつつある己の腹を見て、彼女はため息をつく。
 この腹の子はこの世に生まれ出でて、本当に幸せな人生を歩めるのだろうか?
 尊き方の血を引いているがゆえに、大人の醜い思惑に振り回され、傷つかなくていいことで傷ついていくようにしか思えてならない。
 父の身分よりも高き者達から睨まれ、疎まれ、嫉まれ・・・・・・男の子皇子でなければいい。
 姫皇女ならば母と二人静かに生きてゆける・・・


 だが、年月を経て実際に生まれたのは、小さな小さな男皇子。
 あまりにも小さすぎて泣く力がなかったほど、弱々しい存在。
 愛しいはずの我が子を、腕に抱くことはかなわなかった。
 名を戴く前に、旅立ってしまった我が子。愛してあげたかった。父や兄たちから守ってあげたかった。だが・・・その温もりを感じることも出来ず、母として声をかけてやることもできないままさってしまったその子に、自分は何をしてやれたというのだろうか・・・まともに産み参らせることも出来なかった自分に。
『蝶子、良いな。
 身体が癒えたらすぐに内裏へと戻るのじゃ。
 今宵も主上は藤壺の女御の元に足をお運びじゃ。
 これ以上、主上の寵を他の女御に向けさせることはならん。
 内裏に舞い戻り、再び主上の寵を得て、皇子を授かるのじゃ。
 良いな。今度はこのように身体の弱き皇子ではならんぞ。
 すくすくと育つ、お体のお健やかな皇子を産み参らせるのじゃ。
 まぁ、ある意味生まれてすぐ薨去されたのは我が一門にとっても良きことであったかもしれぬ。
 たとえ生き永らえたとしても、このように身体の弱きお方では、東宮として身を律することはかなわず、宮として政治の中心から外されてわみしく生きながらえるか、臣籍に下されたかもしれぬ。それでは意味がないのだ』
『父君!? 帝の皇子に対して何という暴言を!』
 生まれて一日ともたず息を引き取った御子は、父にとっては孫にも当たる子だったにもかかわらず、父は薄汚い者を見るかのような視線を蝶子に向ける。そこには孫を亡くし悲しむ祖父の姿は欠片もなかった。
『わしは可愛がる孫が欲しいんではない。
 我が一門の未来を担ってくださる、皇子が欲しいのじゃ!
 そなたは、唯一帝の御子を授かった后。内裏に戻りすぐに帝の寵を得、継ぎの御子を得るのじゃ!
 良いな!!』
『父君! わたくしはこの16年の間一度たりとも主上の寵を得たことなどございません!! わたくしはもう御子を授かるような年の者ではございません。わたくしは帝に願い出、尼になりとうございます。
 御名を主上から拝すことなく、身罷れた皇子様の安らかなる眠りを御仏に願いとうございます』
 蝶子の言葉に中納言は激怒し、手を振り上げその白き頬を殴りつける。
 乾いた音に、蝶子は床に倒れ伏し、中納言は荒々しく肩で息を繰り返す。あまりのことに、控えていた女房達も腰を浮かし、蝶子をかばうように動き出したほどだ。
 いくら父親とはいえ、帝の后である蝶子の方がすでに位は高い。このような暴挙は本来ならば許されるものではなかった。
『バカを申すでない! わしの姫は皆婿がねを迎えておる!
 少納言には息子はおれど姫はひとりもおらんのだ! そなたが出家したのち、誰が帝の皇子を産み参らせるのじゃ!! そなたは、この中納言の娘として生まれたからにはその努めがあると言うことを忘れるな!!
 帝の御心を掴めぬのならば、なんとしてでも掴め!』
『父君、判ってください!
 此度の懐妊は帝の情けを賜っただけのこと・・・・・・・・・父君・・・父君!!』
 父中納言はそれ以上蝶子の言葉に耳を傾けることなく、部屋を出て行く。
 蝶子はその後ろ姿を追いかけようとするが、産後間もない身体に力は入らず、その場に手をついてしまう。
 出来ることならば、元気な産声をあげる皇子を産みたかった。
 思いを寄せる者と添い遂げることが出来ないのならば、せめて父や兄の願いを叶えてやりたいと思ってはいた。だが、もう無理なのだ・・・・自分にはもう、そんなことは出来ない。
 声を上げて泣き叫ぶ蝶子の声が、真っ白な布に覆われた穢れなき部屋に響き渡る。頬を流れ伝い落ちる涙は、真白き一点のどす黒いシミを残して消えてゆく・・・・・・・・・・・














「生まれた御子が今も生きていてくれたのならば、わたくしの人生も少しは変わったのでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・」
 蝶子は白み始めた空を見つめながらぽつりと呟く。
 いつの間にか眠ってしまったのだろう。脇息にもたれた身体を起こす。
 久し振りに見た夢に、涙は出なかった・・・・・・
 内裏にあがり、主上の后・・・更衣に収まって16年の月日が過ぎていた。三十路を越えもう女としての自分は何もなく、ただ静かに主上の渡りを待つだけの后として、長い年月を内裏で過ごしてきた。
 その間、いったいどれほど主上の渡りがあっただろうか?
 美姫が集められた後宮の中で一人、ぬきんでて年のいった自分の元へ、年若い主上が足を頻繁に運ぶことはなかった。初めて渡りが会ったのはそう・・・内裏にあがり4年ほどたった頃だろうか。主上は16になり、自分は28になっていた。
 お優しい主上だったが、足を運んでくれたのは2〜3ヶ月に一度ばかり。
 それでありながら、子を授かることが出来たのは1年ほど前になろうか。
 お若き帝でありながら、長き間どの女御、更衣にも子が宿る気配がなく、やっと授かったかたおもえば高齢出産になってしまう更衣。だが、それでも内裏中がにぎわいを見せた。
 この時ばかりは主上も頻繁に足を運んでくれ、優しい言葉を何度もかけてくれた。
 だが、実際に世に誕生したのは一日と生き延びることの出来なかった、皇子。
 もう、年齢的にも自分は出産は無理な年代。にもかかわらず、父は・・・父が死去した後は後を次いだ兄が、内裏に戻るように責め立てる。
 内裏にはあまたの美姫が潜めている。己よりもやんごとない生まれの姫君はたくさんおり、中納言の娘・・・少納言の妹姫にすぎない自分がどれほどの存在だというのだろうか。
 大臣や宮家の姫君達と競い合えるようなものは何もないというのに。
 生まれた赤子とひっそりと静かに生きていきたかった夢は費え、また新たな欲望を押しつけられる日々に、心が悲鳴を上げた。
 いっそう、内裏にいられない姿になってしまえば良いのに・・・・・・・・・・・・
 その願いを仏が聞き入れたのか、己の容貌の変わり果てたその姿に、こみ上げてくる笑いを抑えることは出来なかった。
「自ら望んで、このような姿になったというのに・・・・・・・・・まだ、かなわぬ夢を見ているのかしら・・・・」
 蝶子はゆっくりと立ち上がると、庇へと足を運ぶ。
 早朝の凛とした空気が頬を優しくなでていく。
「立遠様・・・・・・・・・・・・・・」
 宝玉の名を呟くように、そっと吐息に乗せた声で呼ぶことさえ許されない名を呟く。
「わたくしは、帝の御子などではなく貴方の御子を産みたかった・・・・・・・・・・・・・・」
 あの方の妻になれるのならば、何も望まないのに・・・・・・・・・・・・・


  本当に、望まぬのか?


 どこからか、低い声が聞こえてくる。


  年若き女御や更衣達にすら授からなかった、その御子を唯一宿すことが出来たのはただ一人・・・その事に自負は得なかったのか?  
  寵姫よ次期中宮よともてはやされている、藤壺の女御すら懐妊の兆しは今だないというのに、諦めきれるのか?
  国母という地位を、一門の繁栄を・・・
  落ちぶれた一族の、哀れな后よとさげすさまれない立場を諦めきれるのか? いや、更衣なぞは所詮側室のような者、后と形容されることもなかろう。ときめいているのならばともかく、女御のように華やかな身分とは言えまい。


 声はどこから聞こえるのだろうか?
 蝶子はせわしなく目を動かし声の主を探ろうとするが、いっこうに声の主は見つからない。


  ドコをさがしておる。
  妾はここにおる。そなたの中におる
  鏡を見てみよ


 声に誘われるがままに、蝶子はふらふらと危なげな足取りで室内に戻ると、片づけられている鏡を取り出しのぞき込む。
「ひぃっっっ!!」
 そこには白いざんばら髪の隙間から、ランランと赤く輝く目と、獣のようにのびた乱杭歯をもった女の顔が映っていた。


  驚くことはあるまい。妾はそなた自身じゃ。


「わたくし自身・・・・」


  主の願望が妾じゃ

 
「わたくしの願望? わたくしは何も望んではおりません」


  ほっほっほっほ
  今だ認めるのが嫌かえ? 妾はそなたの醜き欲望。
  けして潤うことのない、そなたの渇望。
  望んではないと言ってもそなたは、望んでいるであろう?
  どの、女御にも劣りはしない美しさを・・・下げすさまれることのない立場を、諦めきれぬのであろう?
  一度は手に入れかけた、御息所という立場を。


 鏡の中の鬼が手を伸ばしてくる。
 それに応じるかのように、蝶子も無意識のうちに手を伸ばす。
 自分はいったい本当は何を望んでいたのだろうか?
 16年前はただ、心から愛してくれる人と家庭を築きたいと思っていた。
 貴族の男として当然のごとく、正室である母以外にも側室や、妾を大勢持っていた父に、泣かされていた母をずっと見ていたから、蝶子は夢を見ていた。
 自分一人だけを愛してくれる者の存在を・・・その人と、生きていくことを。
 立遠という身分は低いが誠実で優しい人との未来を。
 だが、後宮にあがるという事を課せられ、途絶えてしまったささやかな未来・・・あのときから、16年・・・自分は何を夢見て生きてきたのだろうか。
 内裏にあがり帝の后にならざるえなかったならば、帝に愛されたい・・・たとえ不可能と思っても帝に愛され愛したい・・・子を産み、育み、穏やかに生きていきたいと思った。
 そして、あまたの女御達に負けぬように美しくありたいと・・・高貴でありたいと、いかほど願ってきたであろうか。年でかなわぬのならば、せめて美しさと教養では負けたくないと・・・・・・・・・・・・
 だが、今の自分はこの鏡に映る鬼とたいして変わらぬ醜い女になりはてていた。
「わたくしは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わたくしは・・・・・・・・・・・」
 乾いてひび割れた唇を舐めて、呟く。
「わたくしは、あの方に愛されたい・・・・・・・・・・・・・・・・」
 あの方とは誰を指しているのか。
 年若い帝か。
 それとも、40を超えてしまった立遠の事か・・・・・・・
 蝶子は手を伸ばし鏡面にふれる。
 冷たい鏡は蝶子の手をうけいれ、ずぶずぶとまるで泥の中に手を入れたかのように蝶子の指が、手が腕がその中に引きずり込んでいく。肩に達し頭部まで飲み込まれ・・・・そして、変わりに長い爪が鏡のかから出てくる。
 鏡面が水面のように波打ち、小さな円の中から一人が飲み込まれ、一人がはい出てくるとその視線を辺りへと向ける。と同時に控えめに女房が姿を現した。
「蝶子様・・・?今お声が聞こえましたが、お呼びになりましたか?」
「呼んではおらぬ」
「蝶子様・・・・・・・・・?」
 今まで、覇気が欠け弱々しかっただけの主に、覇気が戻ったように感じ女房は驚いたように目を瞬く。『蝶子』は、しばし間をおいた後声の抑揚を変え女房に問いかけた。
「一つ聞きたいことが」
「なんでございますか?」
「土御門大路に暮らしている陰陽師の事を聞いたことがありますか?」
 今まで気にもかけたことのない陰陽師という者に興味を抱いた様子の主を不思議に思いつつ、女房は知っている限りの事を主に話す。
「土御門大路の陰陽師と申されますと、かの安倍晴明の曾孫に当たられる安部鳴瀧殿のことでございましょうか? 
 陰陽師という立場上官位はさほどではありませんが、太政大臣の庇護を受けられ、主上より昇殿の許可も直々拝されたほど信任厚い陰陽師と伺っております。かの安倍晴明を上回るほどの能力の持ち主ではないかともっぱらの噂もございます。
 艶やかな漆黒の御髪に、闇如き深い色を称えた瞳、白い肌の顔(かんばせ)は数多の姫君がうっとりと見とれてしまうほどの美しさとか・・・・
 内裏では新月の君や麗月の君とも呼ばれていらっしゃるようです」
「その陰陽師に奥がいたであろう?」
「ええ、確かにいらっしゃいますわ。
 長き間どのような美姫からのお文にもなびかず、いかような美姫ならばあの方の心を射止められるだろうかという噂が立ったほどのお方なのですが、射止められたのは麗月の君の筒井筒の姫君とか。
 どこぞの受領の娘御という話でありますが、狐姫とも齋の姫とも面妖な噂のある姫君とか噂もありますが、麗月の君がたいそう慈しみ愛されているともっぱらの噂。
 そのような方と添い遂げられた姫をうらやむ者は、身分問わずいらっしゃるという話です」
「狐姫に齋姫?」
「言う者がまちまちなのでしょう。
 生まれつきこの世にあらずもの達の姿や声を聞くことが出来るとか・・・さすが、陰陽師の妻になられる方と申せばよろしいのでしょうか? 御髪が金色(こんじき)如き明るい色で、瞳も宝玉の如き淡い色という噂。それを聞いた姫君が『狐』と蔑称をつけているのではないかと思いますが・・・・蝶子様、どうかなされましたか?」
 女房の話を聞いていた蝶子が不意に笑みを深めたのだ。
「いえ、どうにもいたしませぬ・・・
 今宵はもう、休もうと思います。そなたも下がりなさい」
「・・・・・ご用がありますれば、お呼びくださいませ」
 今までうってかわったように感じる主を不思議に思いつつ、女房は頭を下げるとその場から下がろうとした女房に、もう一度蝶子は声をかけた。
「その奥方の名を、そなたは存じておるか?」
 なぜ、主が急に陰陽師の妻如きを気にかけるのか判らないが、女房は首をひねる。
 確か、風の噂で名を耳にしたことがある。特別高貴な名前とも思えぬ、ありふれた普通の名前の姫君・・・なんであっただろうか?
「確か・・・・・マコ・・・いえ違いますわね。マリ・・・・マキ・・・・・マ、マ、マ・・・・そう、マイ。麻衣姫ですわ」
「ありがとう、もう下がっていいわ」
 酷く満足そうな様子の主に対して内心首をかしげまくりだが、出来た女房はここでよけいな口は開かないものである。女房は深く頭を垂れてしずしずと退室していったのだった。
 その気配が完全に絶えると蝶子は咽の奥で笑みを漏らす。
「名を盗む事が出来れば妾の望みは叶ったも同然・・・・のう、吾子様」
 蝶子が何かに声をかけると、どこから現れたのか虎にも似た獣が姿を現す。
 蝶子は獣を愛しげな眼差しで見つめると、膝をつきその太い首に腕を回し、どう猛な顔に頬づりをして囁く。
「吾子様、妾と参ろうぞ。
 美しさを取り戻し、お父上に会いに参ろうぞ」
 獣の頭を一撫ですると蝶子・・・鬼と獣は姿を忽然とかき消えたのだった。

 















































「生形(なまなり)になったか・・・・・・・・・・・・」
 鳴瀧の言葉に榊が目を細める。
 生形になったということは、生き霊に過ぎなかった鬼が、本物の鬼になりはててしまったということになる。
「確か、更衣の一人が今上の皇子を産んだな」
「はい、半年ほどまえになりましょうか。三条にお住まいの故中納言の姫君であらされる、更衣様が男皇子を産み参らせましたが、ご誕生の日に薨去されてますね。
 主上の初の御子になりましたので、たいそう主上が落ち込まれたという話を伺いましたが?」
「確か、後宮に住まっている后全員の厄払いを、あの後言いつかったな」
 身ごもった更衣はすでに高齢だったため、腹の子の発育が悪かったのであろう。十分に育つことなく生まれた皇子は、産声を上げることなくほんの数刻で息を引き取ったという。
 その事を深く嘆いた帝は、なにやら悪しき者が運びよっているのかもしれないといい、鳴瀧に大々的な厄払いを命じたのだった。帝自身の子がなかなか誕生しないことがまた、后達だけではなく帝自身をも蝕んでいるのだろう。
「その更衣は、内裏に戻っていたか?」
「三条の更衣様ですか?
 いえ、確か内裏には戻られていらっしゃらないはずです。産後の肥立ちが悪かったのが原因で、身体を壊されてしまったという話を伺っております。現在は三条にあるお屋敷にて、ご静養されているような噂をお聞きしましたが」
「鬼の正体は、その三条の更衣だろう」
 唐突な鳴瀧の言葉に、一瞬榊は言葉を続けられず黙り込んでしまう。
「三条の更衣様がですか?
 ですが、あの方はやんごとなきお生まれの方で、たいそうお美しいお方という話を耳に挟んだことがあります。亡き中納言様が目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようで、婚期を過ぎても婿がねをとらなかったのは、あまりの可愛さからだとか。帝ならば愛娘を差し出しても悔いはないと言い放ったほどの可愛がりようと聞き及んでおります。
 帝とのご年齢差がもう少しなければ、きっと宮中で藤壺の女御様と変わらぬほどに、ときめいたかもしれぬとの評判があったほどの美姫らしいですよ?そのような方が、なぜ今更他の姫君の髪を望まれるんでしょうか?
 まして、やんごとなきお方ばかり」
「式の目を通して見た限りでは、細かな委細は判らないが、その三条の更衣が生形を経た。
 理由が必要ならば、仮定の話をしても意味はない。
 あの帝が寵愛しているのは藤壺の女御一人で、三条の更衣は内裏に住まうだけの后の一人。たまたま、寵を得た時に子を授かったものの、それは実をなすことがなかった・・・それだけのことだが、あの内裏にいながらそれだけのことを、唯々諾々と飲んでいられるものがいるかどうか・・・長年の鬱憤が、ここにきて吹き出したとしても何らおかしくはない。
 なにより、榊は美姫という噂を聞いているらしいが、式が見た者は老婆のような姫であった」
「老婆のような姫・・・?」
 鳴瀧のあまりの言葉に榊は呆れも隠すことなくため息をつく。
「鳴瀧殿、貴方が女性として見なしているのは北の方様である麻衣姫お一人ということは存じておりますが、いくらなんでも帝の后であられる更衣様を、老婆のごとくたとえるのはいささか行き過ぎではないですか?
 あの方は、確かにお年をいささかお召しですが、老婆とたとえるほどではございませんよ? 確か御年37ほどではなかったでしょうか? 花の盛りとは申せませんが、大人のお美しさを称えたお方という噂ですよ」
「実年齢の話をしているのではない。
 外見の話だ。三条の更衣は老婆のごとく白髪をし、肌の色も悪く血色が乏しいく、やせこけ目だけが浮き出ているような有様だ」
「白髪・・・・・・・・・・・」
 鳴瀧の言葉に榊は思わず息をのむ。その特徴はあの鬼とそっくりであった。
「それに、生形をしたと言ったはずだ。
 鬼だろうという仮定の話をしたんじゃない。三条の更衣は鬼になったんだ」
 鳴瀧の断言に榊は思わず音を立てて唾液を飲み込む。
「では・・・・・」
「祓いしかないな。鬼は三条の屋敷を出た。
 おそらくここへ来る」
「この屋敷にですか・・・?」
「今あの鬼が目をつけているのは、麻衣の髪のようだからな、今宵の夜陰に紛れてまた来るだろう。
 それまでに、一度帝に拝謁してくる。
 榊は、屋敷に残り備えておくように」
「判りました」




















 鳴瀧から話を聞いた帝はしばらくの間言葉をなくしていた。
 まさか、ここ数ヶ月の間都を騒がし、内裏に出没した鬼が更衣の一人とは思いにもよらなかったことだ。
 三条の更衣・・・蝶子は、自分よりも12も年上であるためか、それほど親しい仲ではなかったが、更衣の一人として后の一人として、大切にはしてきたつもりだ。
 たおやかで美しい人だとは確かに思う。実際の年よりも若く見える人だ。まだ、若い緑子には備わりきれていない、熟成された美しさをもつ人だとは思ってはいたが、哀愁を帯びた眼差しも覇気のないおとなしいだけの性質も苦手で、それほど頻繁に足を向けたことはない。時折・・・そう、時折足を向けていただけの更衣の顔を思い出す。
 はかなげな風情しか思い浮かばない蝶子が、鬼になりはててしまったと言うことがどうしても結びつかなかった。
「何かの間違えではないのか?
 朕にはあの更衣が鬼になるとは思えぬ・・・」
「主上、鬼になる条件は私にも判りかねます。
 私の乏しき経験でも、幾たびか鬼に転じてしまった者を見て参りましたが、おのおのの理由があり鬼に転じております。誰一人とてまったく同じ条件で鬼に転じた者はおりませんでしたが、三条の更衣様が生霊ではなく、鬼と化してしまったことは間違いございません」
 きっぱりと言い切った鳴瀧の言葉に、救いの余地を見いだせなかった、帝は深くため息をつく。
「あの鬼は今私の奥を次の獲物としてとらえてあります」
 呼称を『三条の更衣』から『鬼』と変わったことに、帝は顔をこわばらせる。
「鳴瀧の北の方がか?」
「あの者の髪の色が珍しかったのでしょう・・・奥の髪をほしがり、昨夜屋敷に姿を現しました」
「して、姫の様子は?」
 あの鬼が現れた異なるのならば、無事に済んだとは帝には思えなかった。
 あの気の強い梨壺の女御ですら、いまだ気が高ぶったままであり、落ち着きを取り戻してはいなかったのだ。その事を考えると、心の優しいあの姫が鬼と対面したとなれば、気が触れてしまったとしてもおかしくはないと思ったほどだ。
「他の屋敷同様に下女が一人おそわれましたが、被害はさほどありません」
 下女一人被害にあったからといって、それをわざわざ帝に「被害」として報告することはなかった。また、帝も下女が被害にあったということを聞いても意に止めることなく、安堵のため息をつく。
「そうか・・・いや、姫が無事でなにより。
 あの姫に何かがあれば緑子が悲しむのでな・・・・・して、鳴瀧。いかがするつもりで参ったのだ?」
 鳴瀧は姿勢をよりいっそう正すと、すっと床の上に手をつき頭を垂れる。
「調伏の許可を戴きたくまかりこしました」
 歪曲な言葉ではなくまっすぐ告げられた言葉に、息をのんだ帝はすぐには次の言葉を発することは出来なかった。
 早る呼吸を宥めるように幾度か深呼吸を繰り返すと、すっと立ち上がり御簾を己の手でめくり、どこまでも澄み切った広い空へと視線を向ける。
 どうにか助けてやって欲しい・・・そう言う資格がはたして自分にあるのだろうか?
 更衣が鬼と化してしまった理由は、きっと自分自身にあるのだろう・・・好意を持つことが出来ず、長い間特別意にかけることがなかった罰だというのだろうか。
 一門の復興のために寄こされた姫を哀れと思えども、愛しいと思ったことは一度もない。
 そして、今も哀れとは思えても、愛しいとは思えなかった・・・・・・・・
 すまぬ。と口の中で呟く。
「委細判った・・・・都と内裏を騒がせる鬼の調伏を命じる」
 ふるえる声で告げられた言葉に、鳴瀧は短く返事を返すと、辞するべく立ち上がる。
「鳴瀧・・・・この旨女御や他の更衣達・・・いや、誰にも知られぬように、内密に行っておくれ。
 三条の少納言には気の毒だが、真相は知らぬ方が良いこともある・・・・・・・・・・・・・・・」
 












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