藤の籠  













「わたくしが望んだことは、本当は何だったのでしょうか・・・・・・・・・・・・」






















 疲れたようなつぶやきが聞こえ、麻衣は目を覚ます。
 女の囁きが聞こえたようにも思えたのだが、あの声は誰の者だったのだろうか。自分の知らない誰かの囁きが夢うつつの状態の時、聞こえてくるように思えるのだが、意識を声に傾ける前に声は霧散し、意識が浮上して掴めないでいた。
 それに、この前見た夢も気になる。
 あれはただの夢だったのだろうか。
 それとも・・・・・・・・・・現実(マコト)だったのだろうか?
 だが、あれが真実だとしたら帝の后が他の男に思慕を寄せていることになる。気持ちは確かに自分ですら思い通りにはならない。
 自分で心を上手く操れるのならば、誰も苦労はしないだろう・・・自分自身でさえままならぬ感情・・・恋情をもったまま、帝の元へあがるのはどれほどの決心とあきらめが必要だったか・・・せめて、帝に大切にされればいずれは気持ちも変わるだろう。大切にされ愛し愛される関係が築ければ。だが、帝が愛しているのは緑子一人。他の女御や更衣もそれなりに大切にし敬っているようではあるが、寵愛は緑子一人に向けられていると言っても過言ではない後宮にいて、果たしてどれほど幸せを見いだせただろうか・・・・
 あの時のあの彼女の様子を見る限りでは、世捨て人同然のその姿に、幸せを見いだせたとは思えなかった。
 幸せを見いだすことも出来ず、また愛されることもなく、忘れ去られた世捨て人同然のような后達は日々をどんな思いで過ごしているのだろうか?
 自分が推察することさえ、おこがましいことなのだが、一人の夫を複数の女達で競い合うことなど想像できない。
 そう思うのはきっと、今の自分がとても幸せな環境にあるからだろう。誰かと夫を共有し合うことなく、いつ捨て置きされるか脅えることなく、その腕は自分だけのものと思えるからこそ、抱いてしまう疑問なのかもしれない。
 ・・・・違う、脅えてはいる。
 鳴瀧の元に届けられる、数々の恋文に脅えないでいられるわけがないのだ。不安に思うことで時折鳴瀧を不機嫌にさせてしまうこともあるが、だからといって平然としていられるほど自分は人間が出来ていない。今がなまじ幸せだとよりいっそうそれが壊れることを脅えるのが人間だが、鳴瀧は起きてもいない仮定のことに思考を巡らし脅えるのはばかばかしいと言ってはばからないのだが。
 自分はまだ仮定の話ですんでいるが、世の大半は違うのだ。
 そう思うと、高貴なる方々は本当に大変だとしみじみ思う。
 身分ある夫はたいがい正室の他に数人の側室を持ち、他の屋敷にも側室や恋人、妾を幾人も持っている・・・その数を競っている人間達の方が多いことも知っていた。
 いったい、毎夜何人の姫君達が涙で袖をぬらしていることか・・・・・人ごとながらいつ我が身に起きることかと思えると、他人事ではすませられないのだ。
 鳴瀧だけではなく皆が考えることもない心配事だと言うが・・・・
 思考の迷宮に陥りかけていると、ようやく几帳の向こう側で鳴瀧と榊が話し合っている声に気が付く。
 眠っている自分に気を遣っているのか、小声のため何を言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。
「榊、夕方までに一つ調べてきて貰いたいものがある」
「なんですか?」
 小さな話し声に麻衣は視線を転じると、すでに陽が高く昇っていた。
 自分はいつの間にか眠ってしまったようだ・・・・鳴瀧が駆けつけてくれた後、鬼は悔しそうに姿を消し、あの後はただあわただしく過ぎていった。
 一度は楽になったのだが、また鬼と対面したことで陰気に当たったのだろう。ひどく身体が重く、身を起こすきになれない。陰気になれている自分でさえこうなのだから、陰気になど慣れていない凉子はもっと具合が悪くなっているかもしれない。
 大丈夫だろうか?
 鳴瀧がなんらかの処置をしてくれてはいるだろうが、今この場にはいない凉子のことが気になってしかたなかった。まだ帰ってはおらず屋敷で休んでいるのならば、様子をうかがいに行ってみようか。
「三条の更衣が産んだ皇子の墓所を念のため調べておくように」
「それはかまいませんが・・・・鬼は三条の更衣では?」
「若宮の墓所にて何らかの術が行われた形跡があるかどうか、荒らされているかどうかだ」
 『三条の更衣』という名称を聞いた瞬間、どくん。と心臓が大きく脈打ったように感じた。
 『更衣』と名が付くのだから、帝の后の一人なのだろう。皇子がどうのこうのと言っていたとなると・・・・昨年帝の子を身ごもった更衣がいたが、若宮は生まれた日に薨去したことを唐突に思い出す。
 緑子も若宮の薨去を聞き、酷く悲しんでいたのだ。
 やっと生まれた帝の皇子が産まれてすぐに死んでしまったことを・・・彼女の悲しみ方を偽善とののしる、女御や更衣が数多いたことは噂で聞いたが、彼女の悲しみはけして偽善ではなかった。純粋に幼い命が儚くなってしまったことを嘆き悲しんでいたのだ。
「・・・・・・・・・・・で、三条の更衣の名前は、『蝶子』だ」
 鳴瀧の声がとぎれとぎれ聞き取れたのだが、その一言で麻衣は一気に飛び起きる。が、ふらつく身体にはまともに力が入らず、カクリと膝が曲がり、何かに捕まろうとして几帳に掴まったものの体重を支えきれず、几帳事倒れる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・お前はおとなしく寝ていることも出来ないのか」
 今まで静かに眠っていたかと思うと、几帳事倒れた麻衣に鳴瀧は白い目を向ける。
「そんなことどうでもいいの! それより今『蝶子』って・・・・蝶子っていった!?」
 麻衣の剣幕に鳴瀧と榊は思わず顔を見合わせる。
「別段珍しい名ではないだろう」
 麻衣を起こし単衣姿の麻衣の肩に袿をかけながら、鳴瀧は素っ気なく応えるが、麻衣はその腕を強く握りしめてまっすぐ鳴瀧を見つめる。
「・・・・・・・・・・・・鬼の名だ」
「鳴瀧殿?」
 ごまかすことをせず応えた鳴瀧に、榊は軽く首をかしげる。
 てっきりと、麻衣には鬼の正体は明かさず片を付けると思ったからだ。
「近いうちに鬼はお前の髪を狙ってやってくるだろう。一気に片を付けるために、お前にも協力して・・・・」
「ダメ!! そんなのダメだよ!!」
「麻衣、お前が何を知っているのかは僕は知らない。
 だが、三条の更衣はすでに異形の物になりはてたんだ」
「だけど・・・・・!!」
「僕は陰陽師だ。異形の物を狩る者だ」
 鳴瀧の言っていることは間違いではない。
 陰陽師である鳴瀧は、鬼を狩るのが仕事だ。
 今都を騒がせ、人々を不安におとしめている鬼を狩ることが役目。
 むろん判っている。だが、麻衣にはなんとしても狩らずに終わらせて欲しかった。
「泣いているの・・・・あの人、ずっとずっと泣いているの・・・・」
「彼女に同情するのはお前の自由だ。
 だが、彼女はすでに幾人もの人の命を奪っている。同情するわけにはいかない。
 榊、先ほど言ったことを」
 鳴瀧はしがみつく麻衣の腕をふりほどくと立ち上がり、事の成り行きを黙ってみていた榊に視線を向ける。鳴瀧は何も言わなかったが、榊はその視線に込められている言葉を違えることなくくみ取る。
「判りました。日が沈む前に戻ってきます」
 完全に鬼となりはてたのならば、今日にでも再びこの屋敷に訪れるだろう。ならば、それまでに調べておかねばならないのだ。榊は軽く頭を下げると、すぐに行動に移す。すでに陽はかなり高くなっている。あまりゆっくりとしている暇はない。
 鳴瀧も準備に映るべく部屋を出て行こうとするが、袴を麻衣が掴んで引き留められる。
「・・・・・・・・・・・・麻衣」
「更衣様だって鬼になりたくてなったんじゃないよ!!」
「鬼になりたくてなるような人間はどこにもいない」
「なら!」
「お前は鬼になりはててしまった者を哀れみ救えと言うが、鬼に殺されてしまった者のことはどうする?
 三条の更衣はすでにそのてで幾人もの命を奪っている。鶴もその一人だ。
 それでも、お前は鬼に責はないというのか?
 鬼になりはてるほどの業を生み出したのならば、その始末を付けるのもまた当人の責。他の誰がおうものではない。まして、殺された者達は被害者だ。そして、これ以上野放しにしておけるものではない」
 淡々と告げられる言葉を否定することは出来ない。
 それは、正論で鳴瀧の方が正しいと誰もが言うだろう。
「判っているよ。だけど、あの人があまりにもかわいそうだよ。
 家族の人たちに道具のように扱われてれ、己の心を殺し続けて・・・ずっと、ずっと・・・・・・・・・・」
 はらはらと涙をこぼしながら訴えてくる麻衣を、鳴瀧は静かな眼差しで見下ろす。
「貴族社会で己の心を殺してない人間がどれほどいると思う。
 どれだけの人間が、己の思う人間と添い遂げていると思っている?」
 鳴瀧の言葉に麻衣は思わず声を詰まらせてしまう。
 身分低い高いを問わず、『姫』と呼ばれる者は己の想うものと添い遂げられることなどそうそうありえないことだ。自由に恋愛をしているように見えても、親や兄弟の掌で踊らされていることもけして珍しくはない。姫の元に通ってくる者は所詮、身内・・・親兄弟、女房達の手引きによるものなのだから。
 内裏につとめている女房達は殿上人と華やかな恋の花を咲かせているだろう。だが、しょせんはひとときに咲く花。実り咲き続けることなど滅多にない。
 緑子とて父の思惑で入内にしたに過ぎず、己の意志で帝の元に上がったわけではない。今は自由に恋愛をしている凉子とて、かつての夫は父が選んだ男だったのだ。
 自分のように、想っている人間と添い遂げること出来ることなど、奇跡といってもいいのかもしれない。だが、それでもと思ってしまうのだ。
「三条の更衣は確かに不遇だっただろう。
 同情する余地はあったかもしれない。だが、それも人であるうちだけだ。異形の物と化してしまったらするべきのことではない。
 己が不幸になったからといって、他人を襲い、命を奪ったことに対しての免罪にはけしてならない」
 鳴瀧の言っていることはけして間違ってはいない。
 彼女はすでに多くの罪を犯しているのだ。それはけして許される問題ではない。
 せめて、ただ髪を奪うだけならば問題は大きくならなかったかもしれない。だが、血がすでに流れてしまっているのだ。それも一人だけではなく大勢の血が・・・・・・・・・まして、女御までおそっているのだ。なかった事にするには事が大きくなりすぎてしまっている。
「秋初月」
 鳴瀧は静かに式神の名を呼ぶ。
「麻衣を塗籠(ぬりごめ)からだすな」
 姿を現した秋初月に指示を残すと、鳴瀧は部屋を後にする。
「鳴瀧!!」
 麻衣の呼び声に、鳴瀧は振り返ることなく出て行ってしまう。その後ろ姿を呆然と見送っていると、秋初月はその背にそっと手を回し、茵の上に座らせる。
「主様は、姫様の御身の心配をなされているのですわ」
「判っている・・・判っているよ。私が鳴瀧の立場でもきっと同じ事を選ぶかもしれない。
 だけど・・・・・・・だけど、あんな切ない声で泣いているのにっっっっっ」
 麻衣はぼろぼろと涙をこぼしながら、唇をぎゅっとかみしめる。
 声が聞こえるのだ。
 今もなお、心の奥底で涙を流し続ける更衣の鳴き声が。
「あの方は髪を望んでいる訳じゃないのに・・・望んでいる物は本当は違うのにっっっ」
 本当に望んでいる物は「髪」という目に見える物ではない。
 手を伸ばすことが出来なかった「ただ一人」だ。
 それさえも見失い、失った物を・・・目に見える形を取り戻そうとしている彼女が哀れでならない。
 いくら、髪を得たとしても乾きはけして癒えない。
 本当に望んだ物を得ない限りは・・・・
「ですが、何をできますか?
 あの鬼が本当に望んでいる物は手に入れることの出来る物なのですか?」
 秋初月の静かな問いに麻衣は、言葉を詰まらせる。
 たとえ、相思相愛の仲だとしても二人の思いが成就されることはまずありえない。
 蝶子は更衣であり帝の后の一人・・・子まで成した仲である。たとえ帝の許しがあろうとも更衣の身内や周りが諾としないだろう。帝の手が着いた者を賜るには、相手の位が低すぎた。
 もしも、蝶子が端女(はしため)ならば可能だったかもしれない。
 その美貌を帝に認められ、一夜の寵を得ただけの者ならば誰も問題にはしないだろう。だが、中納言の姫であり少納言の妹であり、御息所になった者の相手が殿上さえままならぬ身では外聞が悪すぎる。下手に事が明るみに出れば帝を裏切った咎を受けかねないのだ。
「姫様は少しお疲れなのですわ。
 お薬湯をお飲みになられましたら、お休みくださいませ」
 秋初月は用意していた薬湯を麻衣に差し出す。濃緑色をした液体はどろっとしており飲みにくいのだが、麻衣は深くため息をつくとそれを一気にあおる。
 青臭さが口腔内に広がり思わず渋面を作ると、さっと蜜湯が差し出される。
「柚の蜜湯でございます」
 細かく刻んだ柚を貴重な蜜につけ込んだ物を、白湯で溶いた蜜湯だ。
 ほのかな香りと甘みが口の中に残った青臭さを消し去ってくれる。
「姫様はまだ回復されていらっしゃらないのですわ。
 今少しお休みくださいませ。次にお目が覚めたときにはすべてが終わっておりますわ」
 秋初月の声が優しい子守歌のように聞こえる。
 眠るつもりはないのに瞼が次第に重くなっていき、意識がだんだん霞んでいく。
「・・・・・・・・・・ゆっくりとお休みなさいませ」
 最後に微笑んだ秋初月に向かって口を開くが、声が出ることなくコトリ・・・と手に持っていた器が音を立てて床の上に落ちる。
 脇息にもたれそこに顔を伏せるように眠ってしまった麻衣を秋初月は、抱え上げると塗籠へと運び込む。そこにはすでに寝台の用意が調っており、褥(しとね)の上にそっとその身体を横たえると、袿をかけたのだった。














 榊が戻ってきた頃のはだいぶ陽は傾き、陰が長く伸びる頃になってからだった。
 陽の温もりによって暖められた大気は、刻一刻と冷たい物へと変わってゆき、通りを歩く物達は背を丸め陽が沈みきる前に家路へと急ぐ姿が目につく中、榊は土御門にある安部家へと足を運ぶ。
「若宮の墓所を見てきましたが、墓所自体には特にこれと行って問題はありませんでした。
 術が行われた形跡もなく、人が踏み行った気配も皆無かと」
 榊の報告に鳴瀧は軽くねぎらいの言葉をかける。
「あの獣からは術の気配を感じることはなかったが、使役されているわけではないとなると、母を慕う想いか?それとも、子を思う更衣が眠っていた御霊を呼び覚ましたか・・・・」
 生まれてすぐ息を引き取った赤子が果たして、人としての心を持っているのかどうかは鳴瀧には判らない。だが、生存本能のみで母を慕う想いはあるかもしれない。少なくとも更衣は生まれてすぐなくした我が子を思わない時はないだろう。
「榊、鬼を呼び込むための結界を張る。
 餌の準備は出来ている。
 鬼が結界の中に踏み込んだら結界を閉じろ」
「了解致しました」
 結界は鬼に罠と気がつかれないように屋敷の中に張り巡らされていた。
 鶴によってほころびた結界と一重、二重と絡みつき、蜘蛛の巣のごとく鬼を捕まえるための結界が織りなされているのだが、見鬼の能力が弱い榊には気配程度にしかさっする事が出来ない。
 見ることが叶えば・・・・・・と思わないときはない。
 さぞかし芸術的に美しい結界が張り巡らされているのだろう。
「鬼がくるまで今しばらくの時間があるだろう。
 それまで、休んでいて構わない」
 鳴瀧はそれだけを言い残すと、すっと身を翻し北の対へと足を向けたのだった。
























 弓張り月の夜。
 袿を風にたなびかせた女が塀の上にふわりと降り立つ。
 手入れのされていないバラバラに伸びきっただけのように見える白い髪が冷たい風に舞う。
 赤々と光双眸を一点に向けながら女はニヤリと笑みを浮かべた。
 昨日流れた血によってこの屋敷を守る結界は解けたのだろう。女を拒絶する壁は存在せず、腕を伸ばせばそれは何の抵抗もなく屋敷内へと入る。
 けして狭くはない・・・だが、広くもない屋敷を見渡し、見つける。
 彼女は階(きざはし)で下欄に凭れるようにして、居眠りをしていた。
 惰眠をむさぼるにはすでに空気が冷たくなり適しているとは言い難いというのに、健やかな寝息を漏らしていた。
 その長い髪は下欄に絡み、階から地へと流れるように零れ落ちている。
 月の光を受け不思議な光沢を放ちながら、風にたなびくその様は、黒髪にはない美しさだった。
 その髪をうっとりと見つめながら彼女は呟く。





 「あの髪を手に入れることが叶えば、妾はあの方を得ることが叶うかのう?」