藤の籠  


















  女はふわりと舞い降りる。
 足音一つ立てることなく階(きざはし)に降り立つと、ヒタヒタとわざと足音を立てて麻衣のもとへと近づくが、麻衣は目を覚ます気配もなく瞼を閉ざし、薄く開いた唇からは心地よさげな寝息を漏らしていた。
 何か夢でも見ているのか、口元にはかすかな笑みが浮かびあがり、穏やかで平和な…なんの悩みも無さそうな寝顔に、訳もなく腹がたってくる。
「ほんに、よう寝ておる。これからどのような目に遭うかも知らずに暢気な者よのう」
 女は口元を歪めると、はき捨てるように言い放つ。
 重い身分を持つことなく、煩く口を挟む身内のいない姫。
 いや、姫というほどの身分でもないだろう。たかだか受領の娘。父親が誰なのかどんな身分なのか誰も知らないという。
 相手はならず者だとか、妖だとかさまざまな憶測が流れているが、今現在の彼女を見る限り平穏な人生を歩んできたとしか女には思えなかった。
 父はおらずとも、祖父母に愛され大事にされ、母に慈しまれてのびのびと育まれてきただろう様が自然と脳裏に浮かんでくる。
 筒井筒の仲の鳴瀧と出会い、惹かれあい・・・求婚され幸せな時を過ごせている姫。
 夫には他に通うところなく、北の方一筋だという噂。月もかくやという美しく、帝の覚えもめでたい公達を夫に持ちながら、他の女と夫を分かち合うことのない姫が羨ましい。
 自分が望んでも望んでも手に入れることの出来なかった幸せを、その手に握り締めている姫が、なぜか憎らしい。
 艶やかな光沢を放つ美しい髪を持っていることも、憎らしかった。
 たかだか受領の娘ごときが持てるモノが、帝の妻となりえた自分がもてないという事実が、たまらなく腹立たしく感じた。
 女は憎しみ、ねたましさに突き動かされるように、無造作に腕を伸ばして長い爪を持つ指で髪を掴む。
 それでも、麻衣は目を覚ます気配はない。
「愚かな者よ」
 そう呟くと、女は長い爪でその豊かな髪を根元から切り落とす。
 肩口からではない。頭皮に近い場所から刈られた髪は十分すぎるほどの長さを保ち、逆に麻衣は髪のほとんどを失い醜い様をさらすことになる。そのような無様な姿を夫に見られ捨てられればいいのだ。
 歪んだ心はすべてを歪ませる。
 その彼女の手から逃れようとするかのように、髪が風に舞いひらひらと庭へと舞い落ちてゆく。
「これで妾はあの方の心を得ることが出来る・・・・」
 うっとりと呟きながら、女はその髪に頬をすりよせるが、不意に目が見開かれる。
 握り締めていた豊かな髪がまるで意思を持っているかのように大きくうねり始めると、突如それは細い髪ではなく幾本もより集い一本の太い綱になり、女の身体にいきなり巻きついたのだった。
 そして、その直後に空気が高くすんだ音を立てたかと思うと、女は指一本自分の意思で動かすことが出来ず、その場に硬直し立ち尽くす。
 真っ赤な瞳が爛々と輝きを放ち、自由になろうと身体に力を入れるが、己の身体を動かすことを忘れてしまったかのように、動かすことが出来ない。
 さらに空気が高く澄んだ音を響かせたとたん、聞こえていたはずの虫の鳴き声や、屋敷の中にいるはずの住人の気配といったたぐいのいっさいがすべてかき消えてしまう。
 これでは、まるで・・・・・
「自分の意思で動けないとはどんな感じですか?」
 ふいに聞こえてきた玲瓏たる声に、女は憎憎しげに視線だけを動かす。
 いつからいたのか、柱にもたれるようにして鳴瀧が立っていた。
 先ほどまでそこには確かに誰もいなかったはずだ。人気がないことを確認してこの場に近寄り、その髪を奪ったというのに、鳴瀧はまるで最初からその場にいたかのようにたたずんでいる。
 そして、今まで穏やかな寝息を漏らしていた麻衣は、ふっと姿が薄らいだかと思うとその輪郭がぶれ瞬きをするまもなく消えてしまう。まるで初めから何もいなかったかのように消えてしまった麻衣に変わって、スノコの上には白い人の形をした紙切れが一枚落ちていた。
 それが何なのか、専門の知識を持っていなくても女には判った。
「人形(ヒトガタ)か!」
 こぼれ落ちんばかりに手で握りしめていた髪は、いつの間にか消えたった一本の髪のみが残っていた。それを媒体に鳴瀧は麻衣の人形を作ったのであろう。
「おのれぇ・・・・・・・・・」
 地の底から聞こえてきそうな声音がその唇から漏れるが、鳴瀧はその声に恐怖を抱くことなく口元に薄い笑みを浮かべて、女を見つめる。
「おまえが来ると判っていて、麻衣を野放しにすると思うか?」
「昇殿もままならぬ陰陽師ごときが、妾に罠をはったというのか!」
 自由のまったく効かない身体に力を込めるが、思うとおりに動かせられず、獣の咆吼のような叫び声がその口から漏れる。
「無理ですよ。鳴瀧殿の禁縛の術は解けませんよ。陰陽の頭でさえ舌を巻くほどの方なんですから、無駄な事はやめた方が身のためですよ。
 下手をされると御身の存在が根本から消滅しかねないので、やめられることをお勧め致します」
 庭の木の陰から現れた榊は軽く肩をすくめながら、近づいてくる。
「鳴瀧殿、結界はこんな感じでいかがですか? 広範囲の結界は初めて実行するのでいささか不安なんですけど」
 不安だと言いながらも笑みを絶やさない榊を見る限りでは、本当に不安に思っているのかどうか逆に聞きたくなるほどだ。
 鳴瀧はちらりと視線を周囲に巡らせる。
 傍目にはなにも変わらないが、屋敷を囲むように、さらに屋敷内の一定区画を包み込むように結界が織りなされているのが鳴瀧には判る。堅牢強固と言えるほどではないが、今現在必要な力は織りなされている。
「問題はないだろう」
 褒めるわけでもなく、労うわけでもなく、簡単な一言に対し榊は爽やかな笑みを浮かべる。
 問題があれば耳を覆いたくなるほどの罵詈雑言が、冷笑付きで絶える事がないことを知っているからだ。それから比べれば十分な褒め言葉である。そのことに表情には出さないが榊は内心安堵のため息を漏らす。
 広範囲の結界を結ぶのは初めてだったのだが、その事が言い訳になるような相手ではなく、さらに基礎は鳴瀧がすでに組んでいたのだ。女が結界内奥に足を踏み込んだのを見極めたら即座に結界を結び上げ閉じればいいだけのことを失敗すれば、一から修行のやり直しと言われ陰陽生の地位さえ取り上げられていたに違いない。
 経験と言えば人一人や二人を包み込む範囲だけで、ほぼ知識のみのぶっつけ本番といっても差し支えない状況には、さしもの榊も内心ヒヤヒヤとしたのだが、そんなことはいっさい表情に出さず、爽やかな笑顔を鬼へと向ける。
「おとなしく諦めた方がいいですよ?
 鳴瀧殿の奥方に目をつけたのが、運の尽きなんですよ。
 この世にはうかつに傍に寄らない方が良い物とか、手を出さない方が良い物とかが実にあるんですよ。
 特にこの方が絡みますと、この人とことん、容赦なくなってしまいますからねぇ。いや過去いったい何人の方が醜い悲鳴をあげられたことか」
「榊」
「何でしょう?」
 不機嫌そうな声にも榊はさらりと笑みを浮かべたまま聞き返す。
「黙っていろ」
「おや、しゃべりすぎましたか?」
 判っているだろうに、この狸のような性格にはさすがの鳴瀧もため息を漏らす。
「妾が誰としっての事か!?」
 視線だけで人を殺せるのならば、十分に射殺せるだけの眼差しを鳴瀧に向けるが、鳴瀧は非常に煩わしそうに視線を女へと戻す。
「三条の更衣様・・・それとも、三条の御息所様と申しましょうか?」
 慇懃無礼なその態度に女の眉が激しくつり上がる。
「今上帝の初の御子をお産みになられた方。めでたきことに男皇子(おのみこ)であられたが、お生まれになられた日に薨去され、それ以降帝の元に戻られることなく、三条のご実家にてお過ごしになられていた蝶子姫でございましょう」
 なにもそこまで言わなくても良いのにと誰もが思うだろうが、鳴瀧の言葉を止める者はこの場には誰もいなかった。
「そこまで判っていながら、妾をいかがするつもりか?
 妾は帝の更衣ぞ。そなたらが手を出せるほど下賤の者ではないわ!!」
「調伏の許可はいただいておりますが?」
 その言葉に更衣は目を微かに見開く。
 もともと、鳴瀧は相手の身分に頓着をしない。まして、鬼に墜ちた者に官位がいかほどの効力を持つというのだろうか。その事を未だに察することの出来ない鬼を下げすさむように見上げる。
「貴方はもう、更衣でもなければ御息所でもないんですよ。
 ただの鬼。
 鬼を調伏するのは我ら陰陽師の役目」
 わなわなと唇を震わせる更衣を・・・鬼をまっすぐ見ながら鳴瀧は唇のみで笑みを刻む。
「鬼に身を窶(やつ)しても内裏にいられるほど、甘くはないということだ。
 内裏とは・・・後宮とはそう言うところだと言うことは、我々よりも貴方の方がご存じだろう」
 口調をがらりと変え、鳴瀧は口元から笑みを消し、凍てつく氷のような眼差しを鬼に向けたのだった。
「帝はそこまで・・・そこまで妾を厭うのかっっっっ」
 口惜しそうに唇を強くかみしめるため、そこからは赤い血がしたたり落ちるが、鬼は一切構わず絶叫したのだった。
































 穏やかな時間。
 ゆっくりと、暖かな温もりに包まれてたゆたう眠り。
 不安になるものなど何一つない世界で微睡んでいると、ふいに何かが聞こえてくる。
 何の声だろうか?
 意識を凝らそうとするのだが、思考が端からとろとろと溶けていってしまい、声をはっきりと認識することが出来ない。冷ややかな響きを宿す声が、微かな甘さを含んで耳元で囁き続けるから。
 「このまま眠っていろ」
 と意識が起きることを静かに、だが何よりも強い意志となって遮る。
 自分が起こすその時まで、このまま眠っていろと。
 あらがいがたいその声音に、心は揺れ再び眠りの世界へ戻ろうとするが、麻衣はまるで逆らうかのように目をゆっくりと開く。心の中で謝罪の言葉を述べながら。
 だが、しかし起きたはずだというのにぼんやりとした視界は何も映さない。
 目の前に広がるのは乳白色の世界。
 音もなく。誰もいない静かな世界。
 見覚えのない世界をどれほど見渡そうと、ここがどこなのかなど麻衣にはまったく判らなかった。
 なぜ、ここにいるのかも。
 いつの間に来てしまったのかも。
 伏せていた脇息から身を起こす。
 いつも傍にいる式神の気配も、女房達の気配もなければ、鳴瀧の気配もまったくいない。
 自分一人だけが世界から取り残されてしまったかのように、この何もない乳白色の世界にいた。だが、不安を感じることもなく麻衣は立ち上がると、何かに導かれるかのように薄もやの中をまっすぐと進んでいく。
 どれほど歩いたのか。
 自分一人しかいなかった場所に、薄ぼんやりともう一人の誰かが姿を現す。
 喪に服した衣を着てうずくまる女性。
 髪は長いものの白く、黒い衣と対照的なまでにその背に流れていた。
 彼女が誰かなど麻衣は知らない。逢ったこともなければ文を交わしたこともない。縁もゆかりもない人。だが、彼女が誰か何となくだが判った。
 そして、感は間違いないはずだ。
「・・・・・・・・・・・・・・三条の更衣様?」
 麻衣はその女性の背に向かって声をそっとかける。
 その呼び声に、女は身をびくりと震わせた。
「三条の更衣様ですね?」
 その反応に確信を持って麻衣が問いかけると、女は諦めたようにゆっくりと頷き返す。
「なぜ、更衣様がこのような所におられるのですか?」
 ここは人がいては行けない場所。
 なぜそう思ったのかは判らない。だが何となくだが、麻衣には判った。
「わたくしは、もう何も考えたくはないのです。どうか、わたくしの事はお捨て置き下さいませ」
 か細くふるえた声で答える蝶子に、麻衣は何を言えばいいのかが判らなかった。
 なぜ、ここに来てしまったのか、どうして来てしまったのかなどは判らない。だが、このまま何も見なかった事にして戻る訳にはいかないとそう思った。
 すべてを終わらせるには、彼女の意志が必要なのだ。
 でないと、誰にとっても悲しいだけの結末になってしまう。
 それに、鬼として調伏されてしまえば、彼女にはもう安らかな眠りは訪れないだろう。
 身体は滅ぼされ、埋葬されることなくうち捨てられる。そして、魂は永久に封印され輪廻の渦から切り離され、薄暗い闇の中をさまようことになってしまうのだ。
 恨みと憎しみだけを抱いたまま・・・未来永劫に救われなくなってしまうのだ。
「更衣様、悲しいことはおっしゃられないでください。
 帝も更衣様のことをたいそう心配されているそうです。一緒に戻りましょう?」
 手を伸ばした麻衣を見上げることなく、更衣は首を激しく左右に振って拒絶をする。
「わたくしのことは捨て置き下さいませ! 主上は慈悲溢れる御方ですが、あの方が望まれている方はわたくしではありません。今更わたくしが主上の元に戻っても、主上がわたくしの処遇に困られるだけでしょう。
 ましてこのように、老婆のようにやつれ醜くなったわたくしが、内裏に戻れるわけありませんもの」
 確かに更衣は三十を幾ばくか過ぎ、もうじき四十にも届くという年だ。女の盛りは過ぎ、華やかさや瑞々しさが衰えているだろうが、落ち着いた年相応の匂い立つ美しさがあっただろう。だが、今の彼女にとって老婆のごとくというのは比喩ではすまなかった。
 ありとあらゆる物を競い合う内裏に戻っても、辛い思いをするだけのことは見えており、そんな彼女を支えられるほど帝は更衣に思いを寄せてはいなかった。
 そして、更衣も周りの冷たい処遇に耐えられるほど、帝のことを想っているわけではなかった。彼女が思いを寄せている相手は帝ではなく・・・・麻衣は夢で見た男の姿を思い浮かべるが、そのことを口にして良いのか躊躇するが、この世界は閉ざされた世界。現(うつつ)とはへだたれた世界なのだから、これ以上更衣の立場が危うくなることはない。
「ですが、このままここに居続けることは、更衣様にとって取り返しの付かないことになるだけです。一緒に戻りましょう? あちらには更衣様の思われる方も更衣様が無事に戻られることを待っていらっしゃいますし」
「もう、いやなのです!
 人の情など煩わしいもの。わたくしはただ、ここで静かにしていたい・・・静かに過ごしていきたいだけなのに、なぜ、皆わたくしのささやかな望みをかなえては下さらないのです!!
 わたくしは、一度も多くを望んだことはありませんわ! ただ、静かに・・・穏やかに生きていきたいだけですのに・・・なぜ、父君も兄君も判ってくださらないのです・・・・・・なぜ・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ポロポロと涙をこぼしながら漏らす、更衣に麻衣は言葉を詰まらせる。
 榊から話を聞いて、更衣の境遇はだいたい大まかな範囲で麻衣も知っていた。
 現在の宮廷は藤原の北家の勢力が占めており、蝶子の実家である藤原南家は落ちぶれかけていた。いやはっきり言ってしまえば同じ藤原姓を保っていても雲泥の差だろう。政界の中心部に携わることはなく、中流の貴族となんら変わらないの現状の中で、蝶子の父親は再び台頭することを夢見た。そのために手っ取り早い手法は、天皇家の外戚となることだ。外戚となり摂取となれば権力は思うがまま。それを夢見た中納言はいやがる娘の意見など聞きもせず、一回りも年下の帝の元へと入内させた。それが今から十数年前の話だ。当時蝶子は二十を少しすぎた頃で、主上はようやく十をすぎたばかり。大人と子供と言っていいほどの年の差で、良縁が築けるわけがなかった。
 まして、蝶子は一度たりとも帝の寵愛を望むことなく、心の中にひっそりと帝以外の人間を住まわせていたのだから・・・・・
 中納言の夢はそんな娘の思いなど知らず、果てることなく夢想を膨らませていった。娘が帝の寵を得て、日継ぎの御子を産み落とすことを夢見たその姿は、周りの失笑を買うほどだったという。殿上人の誰もがそのようなことはあり得ないと思っていたからだ。だが、周りの思惑をよそにようやっとその夢が叶い、日に日に膨らんでくるその腹を見つめながら、中納言は鬼気迫る勢いで、安産祈願を施したらしい。
 だが、結局は中納言の思いは叶わず、命は実ることなく散ってしまい、そのショックからか中納言もそれから一月と経つことなくこの世を後に去った。
 これで、悪夢から解放されるように思えたが、父の遺志を継いだ兄が、父と同じように夢想を膨らませ、望むことを忘れ、生きることを捨て、尼になりたいと願う妹に内裏に戻り、再び陽継ぎの御子を身ごもれと脅迫まがいに言い続けていたという。
 周りの更衣や女御達が哀れに思うほど、その剣幕はすごかったようだ。
 ライバルである彼女たちにまで哀まれてしまうことが、どれほどいたたまれなくなっただろうか・・・
 麻衣には判らない。
 親身に心配してくれる者達に囲まれ、一人の人間の愛情を一身に受けることが出来、何も不安もなく過ごして来た自分には、彼女の苦しみなど少しも判る事は出来ない。
 だが、それでも想像することは出来る。
 そして、実感できなくても、今まで鳴瀧を誰かと競い合わなくて済んでいるこの状況が、どれほど恵まれていることぐらいは、貴族の端くれにしか過ぎない自分でも良くわかっている。
 凉子の離婚理由は、夫の浮気が許せなかったからだ。
 凉子の母親が・・・いや、数多の姫君が夫の不実に袖を濡らし眠れぬ夜を遅れないで居ることを麻衣は知っている。
 そして、自分の母親もきっとその一人だったのだ。
 父の事は判らない。
 幼い頃、他界した父のことは薄ぼんやりとしか覚えてないが、時折どこからか尋ねてきたのを覚えている。
 きっと、母は数多いる恋人の一人だったのだろう・・・たとえ、大勢の中の一人にしか過ぎなくても、母は確かに父に愛され、その思いが合ったからこそ、穏やかに過ごしていた。
 少なくとも表面上は・・・時々しかあえない父を恋い慕いこそしても、恨みや憎しみを、妬みを口にすることはなかった。胸中は判らない。だが、娘の自分に察するような振る舞いだけはけしてしなかった。
 母がそう過ごせたのは、たとえ短い時間でも・・・時折しか尋ねてこない相手でも、真実思いを寄せてくれたからだろう。それだけは嘘ではないと麻衣は信じている。
 父の手はとても温かく、かの人はとても優しく微笑んでくれたから。
 そして、いつもとても切なそうに・・・済まなそうに、母に一番最初に謝っていたことを覚えているから、だから父の事を好きでいることが出来た。母は父のことを愛して居続けることが出来た。
 だが、その確かな物がなかったら?
 ただ、ひっそりと誰にも知られてはいけない思いを十数年抱え続けているのはどんな想いだろうか。一回りも年下の男に抱かれなければいけない我が身がなんと情けないことだろうか・・・たとえ相手が至高の存在であったとしても、他に想いを寄せる者がいながら、別の男に抱かれるというのはどんな気持ちだろうか。
 真実判ることは出来ない。
 自分は経験したことがないから。
 彼女を打ちのめす全ての環境を、麻衣は知らないから。
 だから、判ります。とは言えなかった。
 でも、だからといってこの状況が良いとは言えない。
 今頃鳴瀧が鬼を狩るべく罠を張り巡らし、その身を滅し、魂が御霊にならないように封じてしまうだろうから・・・
 だから、そうなる前に・・・・・・・・・・
「蝶子様」
 麻衣はあえて更衣の名を呼ぶ。
 許されていない身で更衣の名など呼ぶのはもってのほかだ。だが、彼女はきっと位階で呼ばれることを好んでは居ないはずだ。
「蝶子様・・・このまま全てに蓋を閉じてしまって良いんですか?
 立遠様のことを忘れることが出来るんですか?」
 思いにもよらない名を麻衣から聞かされ、蝶子の両目がこれ以上ないほど見開かれる。
「安心して下さい。
 蝶子様と立遠様のことは私以外誰も知りません」
 なぜ、二人の中のことを偶然知ってしまったのか麻衣は言わない。言っても理解して貰えないだろうということと、ここに蝶子以外の人間が居ると言うことで、きっと何かを察して貰えるだろうという憶測もあった。
「貴方が何を知っているのかは、わたくしは存じ上げません。
 立遠様の事をおっしゃっているのでしたら、過ぎた幼き日の事ですわ。
 それにあの方も今では、奥・・・奥方を・・・・・・・・・・奥方を迎え入れられ、四人のお子さんがいらっしゃると伺っております。
 今更、わたくしが何を言えるというのです? あの方にとってわたくしという存在は迷惑になっても、喜ばしいことなど何一つありません・・・そもそも、あの幼き日ですら何も始まっては居なかったのですから・・・・・・」
 恋いこがれた。
 まだ、内裏に上がる前の遠い昔。
 精悍なその顔立ちに、実直でまっすぐなその心根に・・・・
 互いに引かれあい、文のやりとりをする内に夢を見た。
 いつの日か、父の許しを得て晴れて夫婦となれる日が来ることを・・・その日を夢見ていた。
 何も知らない幼い頃の自分。
 だが、あれから十数年の月日が経て、幼かった自分はもういないのだ。
 あの日に決別するように蝶子は目を閉じ、ゆっくりと目を見開いて、不思議な色彩を纏う少女を見上げる。
「姫君、貴方こそ戻りなさい。
 ここは、貴方にとって良いところではないのでしょう? 貴方にも大切な方がいらっしゃるのならば、もう戻りなさい」
 蝶子は優しく諭すように麻衣に告げるが、麻衣は首を激しく振る。
「わたくしのことはもういいの・・・わたくしには何の救いもない。
 わたくしが居ることで迷惑に思う方達が居るのならば、わたくしは消えた方が良いのよ」
 そんなことはない。
 帝は最初鳴瀧に助けることは出来ないのかと聞いた。
 けして、彼女が消えることを願っているわけではない。
「あなたはとても幸せな方・・・一人の殿方に愛されて、大切にされて・・・その方を大切になさい」
 蝶子はゆっくりと立ち上がると、麻衣の両肩を軽く押した。
 その力はけして強い物ではない。
 だが、その場にいることを蝶子はもう認めなかった。
「蝶子様!!」
 麻衣の必死な声に蝶子は微笑む。
 最後の最後で、自分のことを本気で案じてくれる人がいたのだ。
 この何もない、空虚な世界まで足を伸ばしてくれたのだ。
 それでもう十分だった・・・
 名前も、氏も素性も何も知らない姫が自分のために一生懸命になってくれることが不思議に思いながらも、その必死さが心地よくて、彼女の言葉に一瞬ふらついたけれど・・・・・・・・・
「わたくしは、もうあの世界に戻りたくないの・・・・・・・・・・・・・」
 冷たく、無情で、ただ泣くことしか出来ない世界には・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


















「・・・・・・・・・・・・・・・さま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ひ・・・さま、姫様」
 心配げに呼ぶ声に麻衣はゆっくりと瞼をあげる。
 すると心配そうな顔で菊月と秋初月が覗いていた。
「どうかなさいましたか?」
 秋月がそっと目尻をぬぐってくれた。
 どうやら眠っている間に涙を流していたようだ。
 ここがどこで、自分がいったいどんな状況に居るのか判らず、ぼんやりと当たりを見渡す。
「・・・・・ここどこ・・・・・・・・・・・・・・・・」
 いまだ夢の中に居るような声音に、二人の顔が一瞬強ばる。
「姫様、あたし達のこと・・・判る?」
 恐る恐る聞いてくる菊月に焦点を結ぶと、しばらく間をおいてこくりと頷き返す。
「菊月と秋初月・・・・ここ、塗籠・・・私・・・・・・・・・・・・・」
 何かを飲まされて、気が付いたら・・・・・・・・・・・眠ってしまったのだ。
 おそらく眠気を誘う何かを飲まされたに違いない。
 なぜ、そんな物を飲ませるのだろうか?
 問いかけるように二人を見るが二人は麻衣の視線など最初から無視をして、麻衣を再び寝かせようとするが、その時空気が大きく響き渡る。
 まるで弓を思いっきり引いた物を時はなったように、高く澄んだ音・・・・・・・・・・そして、屋敷の空気がいつもと違うことに気が付く。
 すでに鳴瀧達が動いていることに・・・・・・・・・・
「秋初お願いがあるの! 立遠様を・・・立遠様を呼んで!!」
 いきなりの麻衣の言葉に、秋初月も菊月もとまどいを隠せない。
「立遠様ならきっと蝶子様を助けてくれる!! だから・・・だから、お願い・・・」
 力の入らないはずだというのに秋初の腕を握る力は強く、その必死さに秋初は息をのむ。
 なぜ、自分の主が見も知らない更衣のためにここまで出来るのか判らず、問いかける。
 なにが主をここまで追いつめるのかを。
「蝶子様のことはけして人ごとじゃないよ。
 誰の上にも降りかかってもおかしくないことだから。
 私はたまたま恵まれた・・・鳴瀧という人を背の君に持つことが出来て、私は多くの姫君が味わう苦しさを味あわなくて済んでいる。だから、私には蝶子様が抱く悲しみも苦しみも切なさも寂しさも本当に理解することは出来ない。
 だって、私には知らない感情だから・・・・・・・・・」
 鳴瀧は不器用だけれど、判りにくいけれど、言葉にもしてくれないけれど、だけれど触れる指先から、見つめる双眸から、名を呼ぶ声音から、その思いの深さを察する事が出来る。
 とても、優しく甘く包み込んでくれる・・・そして、今も全力で守ってくれている。
「判らない・・・だけれど、泣いているの。
 ずっと、ずっと・・・蝶子様泣いているの・・・・・・・・・・・・・・あんな切ない声で泣いているのを無視する事なんて、私には出来ないっっっっ」
 秋初にも菊月にも麻衣が聞こえて居るであろう声は聞こえた試しはない。
 だが、麻衣は確かにここ数日の間良く口にしていた。
 誰かが泣いていると
 酷く切ない声で泣いていると・・・その事を告げる時、麻衣自身酷く泣きそうな、心細そうな顔をしていた・・・だから、鳴瀧は仕事を休んでまで麻衣の傍にいたのだ。
 気が乱れ平常とは違った状態で、精神的にも不安定になることは良くないからと・・・・
「判りました。その三条の更衣様の思い人を連れて来れば宜しいのですね?」
「秋初月!?」
 菊月がぎょっとした表情で秋初月を見つめる。
「菊月。わたくしの主は姫様です。姫様のご命令とあら場聞くのがわたくしの努め」
「確かにそうだけれど、主様の命は?」
「わたくしにとって、一番大切な方は姫様です」
 秋初月は鳴瀧の式神だ。だが、麻衣を守るように麻衣に付けられ、麻衣が名を与えた。だから、今は麻衣が主だ。間違いない・・・・・・・・・・
「判った。姫様のことはあたしに任せて」
 下手に反対して麻衣自身が飛び出すことを考えたら、秋初一人が抜ける方がよほど安全だ。
 この塗籠の中は厳重に結界が引かれており、臘月も守りについているのだから・・・・
「姫様、お探しの方はわたくしがつれて参りますので、姫様はこちらにてお休み下さいますね?」
 それが条件だと言下に告げると、麻衣は一瞬躊躇するがコクリと頷き返す。
「あの方は・・・・・・・・・・・・・・・・」
 夢の中で見た胞の色と身なりから推察される官位と役職を告げると、秋初月はするりと姿を消したのだった。




 どうか・・・間に合いますように。





 麻衣は神にも祈る思いで、秋初月の消えた空間を凝視していた。