藤の籠  
















 主の思い人から見れば、その男は何の取り柄もない普通の男にしか見えなかった。
 武官だけあってがたいは確かに良いが見目麗しいとは言えない。顔の下半分を覆う黒々とした髭は、まるで源氏物語に登場する髭黒の右大将のような容貌で、雅を解すような人間にはとても見えないが、実直で素朴な雰囲気から頼りがいがありそうにも感じる。しかし、深窓の姫として育った更衣が思いを寄せるような相手には見えなかった。
 官位は四十を過ぎても低く、おそらくこれ以上の昇級は望めないであろう。だが、現在の官位に不満を持っている風情もなく、与えられた役目を黙々とこなしていく。可もなく不可もないそんな男となぜ、貴族の姫が知り合う機会があったのかは判らないが、この男が鍵を握ると主は言い切り、その望みを叶えるべく秋初月は男の目の前に姿を現した。
「従七位上 兵衛大尉殿でございますね」
 何の前触れもなく目の前に現れた異国の衣服を身に纏った女を目の当たりにし、男は身体を強ばらせるが、すぐさま腰に帯びていた刀に手をかける。
「物の怪か? ここは帝を初め尊き方々がおわす内裏。即刻立ち去るのならば見逃そう。だが、内裏に・・・帝に仇成すのであれば、見逃すことはできん」
 緊張によって僅かに掠れた声が、男の口から漏れるが、肝は据わっている方であろう。妖しとしか思えぬ者が目の前に唐突に現れたにもかかわらず、驚きはしたものの醜態をさらすことなく、すぐさま己の役目を思いだし、刀をすぐに抜けるように柄に手をかけている所を見れば、かなり肝が据わっていると見えた。
「わたくしが言い使った役目は、あなた様をお連れすること」
「私を? 私は物の怪なんぞに呼ばれるような覚えはない」
 眉をしかめ、秋初月の目的を見定めようとするかのようにじろじろと凝視する。その眼光は鋭く、生半可な女人(にょにん)では居すくむだろうが、秋初月は表情を一つも変えることなくまっすぐと男を見据える。
「三条の更衣様・・・御息所様」
 その名を秋初月が呟いた時、男の顔からは明らかに血の気が引いた。
「かの姫君が、あなた様にお話ししたいことがあると申しておりました」
 淡々と告げられた名だが、男は激しく頭(かぶり)を振ってそんな尊き方に知り合いはいないと言い張る。
「お人違いでございましょう。
 私には御息所様となられるような尊き方と知り合う機会などありません。
 別の者をお探し下さい。今現在内裏は鬼が出現し妖しの者に対して過敏になっています。貴方がどのような方の使役かは存じませんが、他の者に見咎められる前に内裏を去られた方がよろしいでしょう。貴方にとっても貴方の主にとっても良き状況にはなりません」
 「三条の更衣」と口にしただけで、秋初月が誰かに使役されている妖しと思ったのだろうが、その洞察力の良さに秋初月は僅かに感心する。ただの木訥な人間だけではないようだ。
 男はそれだけを言い残すと背を向けるが、秋初月はその背に向かって、告げる。
「その鬼が『三条の御息所』だと言ったらどうなさいます?」
 男は背を向けたまま立ち止まる。
「帝の勅命により、隠密に調伏の命が下りました。
 我が主は、御息所様の心に同調し、御息所様を救って差し上げたいと思っています。そのためにも貴方のお力をお借りしたいと」
「私如きが御息所様の元に参じた所で何ができましょう」
「何が出来るかはわたくしは存じません。が、我が主があなた様のご助力が必要だと申しております。
 わたくしと共に来て頂けますか?」
「否と申せば?」
 男の問いに秋初月は表情一つ変えず事実を口にする。
「御息所様の御身は千々となり、御霊は永劫の闇に封じられることかと」
「・・・・あの方は更衣の身位にあり、今上帝の御子を身ごもられた、御息所であられるぞ」
「帝より命を拝しておりますれば、御息所様のご身分などなんら問題はございません」
 確かに帝より勅命が下っているのならば、『鬼』が何者であれ調伏することに問題はない。まして、内裏を荒らし女御の一人を襲っているのだ。野放しなど出来るような状況ではないことぐらい、男とて判っている。
 この事実が明らかになれば、御息所は確実に死を賜ることになり、一族郎党官位を剥奪され、領地を召し捕られ、流罪となりはてる。帝の后に害を与えることはすなわち、帝自身に害を加えたことになる。まして、内裏だけではなく京の都内でも幾人もの犠牲者が出たのだ。情状酌量の余地など皆無に等しい。
 御息所の心と、立場を考え、帝は極秘に命を下したという。
 それが帝に出来るせめてもの温情なのだ。これ以上の情をかけることは幾ら帝て許される問題ではない。まして、害を振りまくだけの存在を野放しにしておけるわけはいかなかった。
 あの方を救おうとする者は、もうこの世のどこにもいないのだ。
 瞼を閉じれば、今も色鮮やかに記憶が蘇る。
 色あせることなく・・・より、鮮やかさをまして。
 寂しげな可憐な姫の姿が・・・けして、直に接することは出来なかったが、あの方の人となりは文を通じて知ることが出来た。
 とても、繊細な心を持っていた姫で、何かを望むこともなく、ただ穏やかに・・・静かに過ごしていくことだけを望んでいた姫。その姫が内裏に・・・帝の元に上がることが決まったと聞いた時、仕方ないと思った。
 思いを寄せるには・・・妻問いを請うには自分の身分はあまりにも低く、許される者ではなかったから、苦しかったが諦めることは出来た。そもそも、望むことさえなかったのだから・・・せめて、彼女の心が安らぐような相手ならばいいのにと思っていたのだ。
 だが、内裏に上がるとなれば彼女の望んだ未来とは遠くかけ離れてしまうことは、たやすく想像出来た。
 あの、繊細な姫が耐えられるとは思えなかったのだ。案の定、風の噂で聞こえてくる姫の暮らしぶりは、とうてい幸せになっているとは思えるものではなかった。
 それでも、すでに手の届かない貴人となってしまった人に何が出来ただろうか。昇殿さえゆるされていない、幾多もいる下人の一人にしかすぎないこの身で・・・そう思い目を背け続けていたが、目の前の不思議な衣装を身に纏った女人は、手を貸して欲しいとはっきりと言い切った。
 迷いがないわけではない。
 物の数の内にも昇らぬ自分が、参じたところで救えるとはとうてい思えない。
 だが、今度もまた見て見ぬふりをすることは出来なかった。
 この場で背を向ければ、かの姫は二度と幸せにはなれない・・・いや、人としての存在すらなくなってしまうのだ。
「私が行くことによって、御息所様を救うことが出来るのか?」
「おそらくは」
 秋初月には目の前のさえない男が御息所を救うことができるかどうかなど、本当のところは判らない。
 だが、主である麻衣が言うのならば可能性がないわけではないのだろう。
   あの方は、おそらく自分たちが知らない何かを感じ取っているのだ。
 感情豊かで、思いやり深く、感が人一倍優れているがゆえに。
「私にいかほどの事ができるか判りかねるが、この身で救えることがあるのならば、貴方と共に参ろう」
 男は何かを決意したかのように、迷いを捨てたように言い切った。
「では、土御門にある、安部の屋敷へ」
 その名によって、かの姫が本当に身体極まりないところまできていることを、察する。


「調伏の命を拝したのは、安部様か」


 ごくり。と音を立てて唾液を飲み込む音が響き渡る。
「さようでございます」
「では、貴方は安部様の式神?」
「わたくしの主は北の方様。さぁ、もう時間はありません。参りましょう」
 秋初月に促され、男は意を決して走り出す。
 調伏に動いているのが安部の陰陽師なら彼女の言うとおり残されている時間はもう、いくばくもないのだろう。
 帝の懐刀としても名高い、安部鳴瀧。若い身であり身分もさほど高位ではないのだが、帝と太政大臣の絶大の信を受けていると名高い天才陰陽師。かの陰陽師に狙われて逃げられた者など誰一人いないと噂で伝え聞くほどの者。
 男は顔色を変えて内裏を飛び出していく。
























「おのれぇ・・・この程度の戒めで妾の身を封じられるとおもうておるのか!」
 ギリギリと唇を噛みしめ、完全に鬼と化した三条の更衣は、己の身体を戒める細い糸を引きちぎるために全身に力を入れるが、更衣が思ったように糸は簡単に引きちぎれることはなかった。力を入れれば入れるほど糸はギリギリと音を立てて締まるため、皮膚に食い込み細い線上に皮膚が切れ血が滴り落ちてゆく。
 死者ではないのだから、その身を巡る血はあるのだろう。糸がきつく締まれば締まるほど、更衣の顔が真っ赤にふくれあがってゆく。
「無駄な足掻きは諦めることだ。
 その糸は切れない」
 鳴瀧の意志がその糸を織りなしているため、鳴瀧の意志を上回らない限り、その糸が切れることはなかった。
「先に、御霊(ごりょう)を鎮める。 榊、準備を」
 鳴瀧の言葉に更衣は目を見開き、口角から泡を吹き出しながら叫ぶ。
「ならぬ! 御子に触れることは何人たりとも妾が許さぬ!!」
 だが、鳴瀧は更衣の叫びなど意に返すことなく、更衣と同じく糸にその身をがんじがらめにされ、身動き一つ取れないで居る獣の前に立つ。
 更衣同様もがきあばれ、全身から血を滲ませながらも、獣は戦意をなくす気配はなく、鳴瀧を目の前にして低いうなり声を漏らす。
「更衣様、亡き御子を慕う思いは判るが、蘇らせるべきではなかった。
 たとえ、この世にあった時間は僅かな時間であろうとも、皇家の血を受け継ぐ者・・・天照大御神に連なる御子は御霊(ごりょう)と化し、神となす。
 己が欲望のままに、赤子である御霊(みたまう)を呼び戻せば、現世の邪気を吸いこみ荒ぶる御霊(ごりょう)と化す。
 御霊と化せばありとあらゆるものを呪い、破壊し、この世に暗雲をもたらす者」
「おのれぇ、我が御子を荒ぶる御霊(ごりょう)と申すか!」
「今は更衣様の言を聞こうとも、いずれ貴方様のことも判断つかなくなるのも時間の問題。
 御子はこの世の何者にも染まらず世を離れた方。
 ゆえに存在が希薄すぎるため、存在が変貌することは容易いこと。
 その御霊はこの世にあってありとあらゆる邪念、邪気を吸い尽くし、やがて幼き御霊(みたま)は完全に邪念に取り込まれることになる。
 『己』と言うものを培う前の白き御霊(みたま)で、混沌とした黒きものに打ち勝てるわけがなかろう。
 私には御子ともうされる御霊(みたま)はすでにただの荒ぶる御霊(ごりょう)にしか見えませんが、貴方にはどう見えるとおっしゃられる?」
 更衣は鳴瀧の言葉などに耳を貸すつもりはないのだろう。
 御子は御子だと強い語調で言い切る。だが、誰の目から見ても、瞳孔を見開き低いうなり声を上げ、戒めから解き放たれようともがくその姿は、ただの獣のようにしか見えない。
 そこには人としての知性も、理性も、感情さえも伺うことは出来ない。
 ただ、本能がままにもがく一匹の獣だ。
「あなたがされたことは呪詛  いかなる理由があろうとも人を対象に呪詛を行うことはゆるされることではない。
 その事は重々承知の上でおこなってきたのでしょう。
 当然、縛すれば永劫に封じられることも覚悟の上。
 まして、私情に突き動かされ呪詛を行う者に、情けをかける余地はない」
「妾は呪詛などおこなってはおらぬ!
 愛しき我が子を呪詛の道具になどするものか!
 我は愛しき御子を腕に抱きたかっただけじゃ! 今一度見えたかっただけじゃ!
 母が子に抱く思いを呪詛と申すか!」
「母が子に抱く思いで終われば呪詛とは言いません。
 が、鎮まりし御霊を呼び覚まし、人を襲わせてしまえば呪詛いがいなにものでもない。
 子に対する思いを隠れ蓑に、己が欲望を振り回しているにしかすぎぬ」
「主は我が思いを隠れ蓑と申すか! ただ我が欲望を振り回しているというのか!
 下級貴族に過ぎぬ下賤の者が、妾を愚弄するか!
 帝の御子に手上げし罪、けして許されるものではないぞ!!」
 唾を飛ばしながら叫ぶ、更衣に鳴瀧は深くため息をつき、一度瞼を閉ざす。
 そして、ゆっくりと瞼を開いた時その両目は、漆黒でありながら金色の色を放っていた。
「まだおわかりになられぬご様子。
 御子はすでに帝の御子ではない。ただの荒ぶる御霊にすぎぬ。
 故に、陰陽師である我らが鎮める」
 口調もがらりと変わりその口元に冷笑が浮かぶ。そして、更衣に背を向け獣にその視線を向ける。
 静かな言葉が張りつめた空気をよりいっそう張りつめる。
「己が意志を持たぬ、真白き御霊の名を常安(つねやす)親王」
 鳴瀧が口にした名に、獣は不意にもがくのを止め、鳴瀧を初めて認識したかのようにまっすぐ見つめる。そして、それは獣だけではなく、更衣さえもだった。
「その名は・・・・」
「今上帝が、御子にと考えていた名だ」
 その腕に抱くこともなく、まみえることもなく、この世を去ってしまった己の子に付けることが叶わなかった名。御子に与えられた名は諡(おくりな)のみ。現世で使われる名が人の口にのぼることもなければ、誰に知られることもなく帝の中で眠っていた名。
 それを、鳴瀧は告げて欲しいと言付けを頼まれていたのだ。
「常安親王様、心安らかになられよ。
 この世は貴方のおわす所ではない。世の道理に従い、常しえに安らかなる眠りにつかれませよ」
 帝は「常しえに安らかな人生を歩んで欲しい・・・」藤原の思惑に振り回されることが読めていたからこそ、初めてこの世に誕生した我が子に付けたかった名。それが、別の・・・哀しい意味を持って、子に伝えられる。
「高天の原に神留りまして、事始めたまひし神ろき、神ろみの命をもちて」
 鳴瀧は蕩々と祝詞を詠唱する。
 韻を含みまるで唄うかのように響き渡る。
「八百万神等を、神集集賜、神議議賜て」
 獣となりはてた親王は、一度は大人しくなった物の再び狂ったように暴れ出すが、鳴瀧が閉じていた扇を一降り軽く振っただけで、親王の動きがぴたりと止まる。鳴瀧は親王をまっすぐ見つめたまま、表情一つ動かすことなく緩やかに祝詞を詠唱する。
 足を引きずるようにして歩きながら、獣を中心に悪星を打ち破り吉意を呼び込む歩行術である反閇(へんぱい)と呼ばれる術をしていく。清浄な気が反閇によって閉ざされた空間に満ちあふれ、獣の姿と化した親王の姿を徐々に変えてゆく。
 巨体がみるみる縮小していき、四つ足の獣姿が霞んでいく。
 一巡りをしおえると、鳴瀧はパン!っと勢いよく扇を開くと獣の姿が赤子の姿へと変わり始める。
「幼き御霊(みたま)よ。あるべき姿を戻し給え」
 パンと閉じていた扇を閉ざすと、獣の姿は完全に赤子の姿になり、母を求めるように小さな紅葉のような手を伸ばす。
「吾子さま!」
 更衣は幼き赤子に手を伸ばすが、その手はけして親王の元まで届かない。
 親王は不思議そうに、母を見上げる。
 人外の姿をしているがけして脅える様子はない。ジッと何かを見定めるかのように見つめていると、母を慕うように笑い声を上げる。
「吾子さま!・・・妾の吾子さまを返すのじゃ!
 吾子さまは妾の子じゃ。妾と共におるのじゃ!!」
 皮膚が切れ血が滲もうとも、更衣は暴れるのをやめない。
 その想いが鳴瀧の意志を上回ったのだろうか、糸が数本甲高い音を立てて切れる。それと同時に鳴瀧の頬と右腕が鋭い刃で切ったかのようにすぱっと裂け血が溢れ出てくる。
「鳴瀧どの!」
 榊の声が響くが、鳴瀧は眉を軽く潜める程度で、体勢を崩すことはなかった。
「返り風だ。たいしたことはない」
 二本ほどの糸が切れたため、更衣は右腕の自由を取り戻し、腕を振り上げて伸ばした爪で鳴瀧に襲いかかるが、鳴瀧はふわりと体重を感じさせない動作で、更衣の爪をよける。
「自分の都合で、親王を迷わせるのはいい加減になされよ」
「だまりゃ! だまりゃだまりゃ! 陰陽師如きが妾に命じるなんぞもってのほかぞ!!
 吾子さまは陽継ぎの皇子となられる御方、主如きが手を出して良い方ではないわ!!」
 鳴瀧を串刺しにせんとばかりに、細く長い爪が勢いよく伸びるが、鳴瀧はそれをかるく扇で打ち払いながら交わしながらも、鳴瀧は柏手を打つように両手をパンと重ね合わせる。
「謹請。八百万の神々よ、眷属たる天照大御神末裔幼き親王を鎮め、再び静かなる眠りへ誘い給へ」
 静かな・・・だが厳かな声が響くと同時に、親王は金色の光に包まれその輪郭を徐々になくしていく。
「なぜじゃ! 吾子さま!母と共に父上の元へ参ろうぞ!!」
 更衣の必死の声も、親王の元に届くことはなかった。
 目を射らんばかりの強い光がすべてを包み隠してしまう。
「おのれ・・・・・おのれ・・どこまで、妾から全てを奪えばすむのじゃ!!!!」
 目はこれ以上ないほど血走り、口角からは泡を吹きながら声を張り上げる。全身を締め付ける糸によって切り刻まれ朱に染まりながらも、更衣からは憎悪の念が障気となって辺りに漂い、障気に触れた草木がみるみるうちに枯れ果てていく。
「許さぬ・・・・許さぬぞぉぉぉ!!!!」
 血の涙を流しながら、更衣は己の身体を戒めていた全ての糸を切り裂く。
「鳴瀧どの!?」
 糸を切り裂かれたことによって、返り風が再び鳴瀧を襲い、足や腕に新たな裂傷が出来そこから血が噴き出すが、鳴瀧は頓着することはなかった。
「騒ぐことはないと言ったはずだ。皮一枚が裂けただけでは死なない」
 死なないが、だからといって痛みがないわけではないだろう。だが、まるで衣一枚が裂けたかのごとく鳴瀧は表情を変化させることはなかった。
「吾子さまは、妾が再び呼び戻すまでじゃ! お前を倒した後は主の妻も道連れにしてやる! すべての者を妾の前に膝ま付かせて見せようぞ!!」
 高笑いを響かせながら、更衣は言い放つ。
 そこにはすでに元の願いはなにもなかった。
 ただ、己の願望に狂わされた女のなれの果てがいるだけだった。
 目玉が飛び出さんばかりに見開かれ、唇は乾涸らびてめくれ上がり、全身を切り裂かれ朱に染め、切れはてた衣からは乳房が丸見えになり、ここまで来てしまえば高貴な生まれがみすぼらしく感じてしまうほどの落ちぶれ方だ。
 黄色く濁った爪をふたたび閃かせ、大振りに・・・だが女とは思えないほどの勢いで振り飾れるが、それは鳴瀧がよける前に銀色に輝く刃によって防がれる。
「蝶子姫、目を覚まされよ」
 鳴瀧の前に、見知らぬ男が立ちふさがり、己の剣でもって更衣の爪を受け止めたのだった。
 唐突に現れた男の姿に、更衣だけではなく鳴瀧も驚きを隠せない。
 屋敷は今は結界に閉ざされており、外部から入れる者は誰もいない。にも関わらず、なぜ身も知らない男が屋敷内に入って来れたのか。
 答はすぐにわかった。
 塗籠に隔離されているはずの麻衣が階にいつの間にか来ていたのだ。血まみれと化している鳴瀧を見て顔面から血の気をなくし、今にも駆け寄って来んばかりの表情だが、その両肩を秋初月に押さえ込まれる形でその場に止まっていた。
「・・・・・・・・・蝶子姫、目を覚まされよ」
 男を更衣は凝視する。
「私を覚えておいでですか」
 重ねて問いかけると、更衣は男の正体がわかったのだろう。信じられない者を見るかのように目を見開き、男を凝視した後、切り裂かんばかりの甲高い悲鳴を上げる。
「何故、立遠様がここにおられるのじゃ!?」
 爪を瞬時に隠すと、己の姿を立遠からかくさんばかりに両手をあげ、ボロボロの袖で己の顔を隠すがすでに遅い。醜く様変わりした姿を目の前にし、立遠は愕然とする。
「なぜ、このようなことに・・・・・・・」
 立遠の記憶にある更衣の姿は、儚げでたおやかな姫だ。一人で立ってあるくことさえ滅多にないような、深窓の姫君。そのように育てられた姫がなぜ、「鬼」となりはててしまったのか。
 鬼が数歩後ずさると、麻衣は秋初月の手をはねのけて素足のまま庭に降りると、血を滴らせている鳴瀧の元へ駆け寄る。
「麻衣、どういう事だ」
 麻衣の介入は鳴瀧の計算外の出来事だ。その事に怒りを隠す様子もなく、苛立った声をかけるが今の麻衣に鳴瀧の怒気は通じない。
「怪我の手当をしないと!」
 全身数カ所まるで刃で切り裂かれたかのように、衣だけではなく皮膚も裂け、未だに血がしたたり落ちている。麻衣は躊躇することなく自分の衣の袖を引きちぎると、それで止血をしようとするが鳴瀧が手でそれを止める。
「僕には触れるな」
「だけど!」
「鬼によって傷つけられた疵だ。触れればまた陰気に汚されるだけではない、血の穢れにも合う」
「そんなことどうでもいいよ! せめて止血ぐらいさせてよ!!」
 鳴瀧の制止の声を振り払い、特に出血の酷い右腕に己の衣を巻き付ける。が、それだけはすぐには血が止まりそうにはなかった。今にも泣き出しそうに顔をしかめながら、麻衣は秋初月に布をたくさん持ってくるように指示を出すが、それを鳴瀧が制す。
「疵の手当は、この件が終わってからで良い。
 それよりも麻衣、これはどういう事なんだ。
 あの男は誰だ。そして、なぜ屋敷内にいる」
 鳴瀧と鬼の間に立つ、壮年の男をまっすぐ見据えて麻衣に問いかけると、麻衣は秋初月に頼み込んで連れてきて貰ったと告げた。
「蝶子様の、初恋の君だよ・・・15年前に思いを寄せていた人・・・
 告げることさえ出来なかったけれど、忘れることなくずっと15年間思いを秘めていた人・・・」
 あの人なら更衣を助けることが出来るかもしれない。
 その言葉を麻衣は飲み込んだ。
 それでは、他力本願なのだ。彼が助けるのではない。鳴瀧が助けるのでも、自分が助けるのでもない。
 蝶子が、自らの意思であの暗い世界からはい出てこない限り、救いはないのだ。
 ただ、彼がきっかけになってくれれば・・・と思ったのだ。
 そして、15年間くすぶり続けてきたものを・・・しがらみをなくした、今だからこそ出来ることがあるはずだ。
「蝶子様・・・貴方様の本当の願いはなんですか?」
 麻衣は、鳴瀧が屋敷に戻っていろという言葉を無視して、動転している更衣へと話しかける。
「美しさを取り戻したいだけですか?
 それとも、内裏の女御様方を見返したいだけですか?
 主上の寵を得たいのですか? 覇者となり後宮に君臨したいのですか?
 それが、蝶子様の本当の願いなのですか?」
 静かな問いかけに、更衣は背けていた視線を麻衣へと定める。
「小娘に、妾のなにが判るのじゃ!
 気ままな身分で、一人の君の寵をえて恙なく過ごしているそなたに、妾の何が判るというのじゃ!」
「判りません・・・私には、蝶子様の苦しみを判るなんてできません」
 15年間も実らない思いを、告げることの叶わないほどの思いを知ることは出来ない。
 それは、どんなに重いものなのだろうか。
 胸の奥にどれほどの重石を落としていただろうか。
「蝶子様、もうご自分を抑えるのはやめましょう」
 抑えて、抑えて15年間ただひたすらないものとして扱われてきた「想い」が出口を求めて拭きだしてきた。それが「鬼」の本性。それを、認めればきっと鬼はいなくなるはず。麻衣はそう思っていた。
 核心はない。だが「蝶子」は滅んだわけではない。
 いまも、あの世界にいるのだ。
「小娘が判ったような事をぬかすなぁぁぁ!!!」
 再び狂乱した更衣は爪を伸ばし、麻衣へと襲いかかるが鳴瀧が動く前にを立遠が阻む。
「蝶子姫! もう止められよ!!」
 耳障りなほど甲高い音を響かせて爪と刃が重なりある。
「もう止められよ・・・蝶子姫」
 立遠は間近から蝶子の顔をじっと見据える。
「幾多の姫君を襲おうとも、過ぎ去った時はもどらぬのです」
「そのようなこと・・・言われずとも存じております。それでも、やらねばならぬのです。
 たとえ、この身が悪鬼に落ちようとも、姿を取り戻し、内裏に戻らねばならぬのです。それが、妾に定められた業。
 どかれよ。妾は立遠様を傷つける気は毛頭ございません」
 蝶子は立遠の言葉にも耳を貸す様子はなく、心を頑なに閉ざしていた。
 これ以上立遠が何を言っても無意味だろう。鳴瀧は二人のやりとりを見てそう思い、懐に手を伸ばすが麻衣がその上から手を押さえつけて、ゆっくりと首を左右に振ると、視線を更衣へと向けた。
「蝶子様・・・欲しい者は自分から望まないと手に入らないんです」
 麻衣の言葉に更衣の眉が激しくつり上がる。
「苦労を何も知らない小娘が偉そうなことを言うものじゃ」
 嘲笑を浮かべながら麻衣を見下ろすが、麻衣は鳴瀧をちらりと見上げ、再び視線を蝶子へと向けた。
「私に用意された背の君は始め鳴瀧ではなかったんです」
 麻衣はほんの数ヶ月前のことを思い出す。
 まだ、鳴瀧と契りを交わしてほんの数ヶ月しか経っていないにもかかわらず、数年前のようにも思えてしまうほど、この数ヶ月はとても幸せだった。
「私の元に殿方が通われると聞いた夜、私は当時お世話になっていた屋敷を抜け出して、ここへ来ました。
 鳴瀧へ想いを告げるために。そして、別れを告げるために・・・・」
 誰にも祝福され、羨ましがられる生活を送っていたとしか思っていなかった麻衣の話を、更衣は黙って聞く。
「あの夜・・・鳴瀧に全てを告げて、この恋を終わらせよう・・・そう思って、屋敷を抜け出しました」
 恋は終わるどころか実り、今では穏やかで幸せな日々を送ることが出来ている。
 その事実がどれほどの人々の善意によって成り立っているか、麻衣は誰よりも判っている。
 我が儘を笑顔で許してくれた、凉子と凉子の父親には一生感謝してもしたりない。
「鳴瀧が私の思いを受け止めてくれた時、私は全てを捨てても構わなかったんです。
 一生、後ろめたい想いを抱くことになっても構わないとさえ思いました。たとえこの先どんな事になろうとも、自分が選んだ道を後悔したくなかったんです。だから、親身になってくれた人達のことを裏切ることになろうとも、鳴瀧の手を取ることに何の躊躇もありませんでした。
 蝶子様、貴方様は何をなさいましたか?」
 麻衣の言葉に更衣は応えない。
「蝶子様と私とでは身分が違います。蝶子様ほどの身分になられると、自由に動けないのは存じております。
 それでも、出来ることはあったと思うんです。
 後悔しないために、何かをなされましたか?」
「妾は・・・妾は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 己の気持ちなどわかるわけがないと決めつけていた更衣だが、麻衣の話を聞いて言葉を詰まらせる。
 用意された夫は、己が想いを寄せる相手とは別の人間。
 身分は違えど境遇は同じだったというのに、その差は明暗を分けた。
「あの時・・・15年前、私は今よりも身分が低く、妻問いなど出来ようもなかった・・・いや、貴方を妻にと望むことさえなかった・・・」
 話を聞いていた立遠はぽつりと口を開いた。
「諦めなければ良かったのでしょうか。
 貴方に妻問いをし、叶わぬのならばさらう覚悟で、想いを告げれば、貴方様はこのような身にならなかったのでしょうか」
 仮定をいくら口にしたからといって、今が変わるわけはない。
 ただ、虚しさがよりいっそう募るだけだ。
 それが判っていながらも思ってしまうのだ。
 あの時こうしていれば良かったのだろうか・・・と。
「今更何を言うても遅いのじゃ! 妾はもう戻ることは出来ぬ!!」
 帝からの調伏命令が下っている現状で、後戻りが出来るわけがなかった。
「そんなことないです!!
 蝶子様! 更衣とか身分とか忘れて、ご自分に素直になって下さい!!
 貴方様が、本当に望まれていることはなんなんですか!
 もう、秘めている必要はないんです。
 貴方様は、もう自由なんです。勇気を出して一歩を踏み出して下さい」
 更衣という身分を解かれた今、彼女を縛る者はもう何もないのだ。
「妾は・・・・妾は・・・・・・・・・・・・」
 この身を鬼に変えてまで、なにを望んでいたのだろうか。
 掠れた幽鬼のような声で呟く。
 己を支えていた何かが、根本から崩れていく。
 たった、一歩・・・自分から歩き出していれば、何か変わったのだろうか?
 15年前諦めなければ、今頃は穏やかに・・・己が望んだものが得られたのだろうか?
 穏やかで平和な一時・・屋敷を抜け出し、立遠の元に逃げ出していれば得られたのだろうか。
 それとも、想いに区切りをうち、帝につくせば得られたのだろうか・・・
 判らない。
 ただ、言えることは
「もう遅い、妾は狩られる者となってしまったのじゃ。
 もう、後戻りは出来ぬ」
 真実望んだものは判らない。
 だが、欲望は潰えることなく奥深くからわき起こる。
 『美しさを取り戻したい』『失ったものを取り戻したい』
 こみ上げてくるそれらに、意識が絡め取られてゆく。
 低く囁く内なる声は、甘美な響きを宿して囁く。
『もう遅いのだ。立遠は妻をめとり、四人の子もいる。今更何が出来るというのだ』
 欲望に意識が絡め取られ瞳の赤さが増していく。立遠事さえ認識が曖昧になってゆく中、立遠が意を決したように口を開いた。
「蝶子姫、貴方が望むのならば共に参りましょう。
 妻も子も捨て、都も捨て、貴方と共に行きましょう」
 思いにもよらない立遠の言葉に、赤みを増し焦点が拡散していた瞳に意思が戻る。
「15年前、私は逃げたことによってしこりを抱えました。
 姫のことが忘れられず、ずっと心残りのまま過ごして来ました。
 貴方の幸せを祈りながら・・・幸せであろうと、自分に言い聞かせながら・・・時折耳にする貴方様の話が幸せとはかけ離れたものであることを知っていても、時折お見かけした貴方様の姿が酷く辛そうに見えても・・・目を背けてきました。
 ですが、貴方が望むのならば私はもう逃げません。
 私の手を取って下さるのならば、もう何も望みません」
 覚悟を決意し、はっきりと言い切った立遠を蝶子はまじまじと見つめる。
「妾は鬼ぞ?」
「お姿は鬼になろうとも、貴方様は蝶子姫です」
「妾は幾人も傷つけ、帝より調伏の命を下された者ぞ?」
「都を下り、野を下り、帝の手の届かぬ地の果てまで、共に参りましょう」
 打てば響くように帰ってくる言葉に、蝶子の目が潤み始め、唇がわななく。
「このように、醜き忌み嫌われる姿であろうとも、妾の手を取って下さるのか?」
「私にとって、貴方様は昔のままでございます」
「北の方や御子がおるのでありましょう・・・」
 言葉遣いが、声音が徐々に変わり始める。肩から力がぬけ険しかった表情が和らぎ始めてくると、緊張に強ばっていた立遠の表情もしだいに和らぎ始める。
「妻や子には、私は死んだ者とします。たとえなじられようとも、恨まれようとも、後悔はいたしません」
 躊躇なく言い切られた言葉に、とうとう耐えきれず蝶子は涙を流し始めた。
 透明の滴が頬を濡らし、鬼の形相はなりを潜め、本来の表情を取り戻していく。
 声もなくただ、静かに涙を流していた蝶子からは気が付けば、黒く澱んだ念は消え去り禍々しさが徐々に薄れてゆく。
「ありがとう・・・ございます」
 震える声が漏れる。
「立遠様のお気持ち、とても嬉しゅうございます・・・」
 いまだ、犬歯はするどく伸び、爪は刃のように伸びていたが、彼女の身を覆う気配は人の物へと変わりつつあった。
「ですが、わたくしは立遠様とともに参ることはできません・・・・」
 涙を流しながら、儚げに微笑む姿は鬼ものであっても、美しく見えた。
「姫!」
「わたくしは罪を犯した身・・・立遠様と共に参ることは出来ません。
 何より、北の方様とお子様から立遠様を奪うことは出来ません。
 そのようなことをして得られたとしても、新たな苦しみを産むだけですもの・・・・・・・・・・・」
「姫!!」
「立遠様・・・15年も前のことを負い目と思わないで下さいませ。
 今回起こした事件は、わたくしが己の弱い心に負けてしまったために起こした事。
 わたくしの罪に貴方様を巻き込むわけには参りません・・・巻き込めば、きっとまた同じ事が繰り返されるでしょう・・・」
 時を変え、場所を変え、人を変え・・・ねじ曲がったまま進めば、ねじれは大きくなり、後戻りが出来なくなってしまうのだ。
「わたくしの夢は潰えました・・・もう、何も望みません  
 蝶子は微笑みを浮かべながら呟くと、己の真っ白い髪を無造作に掴んで、肩の上から勢いよく髪を切り落とした。掌からこぼれた白い髪が、風に乗って辺りに漂う。
 それが、答え。
 女としての幸せを望むことを止めた決意の表れ。
「蝶子姫・・・・」
「立遠様・・・ありがとうございます。
 貴方様がいらっしゃられなかったら、わたくしは弱い自分を認めることが出来ず、未だに暴挙をし続けていたことでしょう・・・わたくしが望んだことは、穏やかに・・・静かに生きることでしたのに・・・・」
 弱さが目をくらませ、偽物の強さを望ませた。
 虚構はもろく、あっけなく崩れ去るとも知らずに。
「鳴瀧殿・・・わたくしの身の上は貴方様にお任せ致します」
 思いにもよらない展開に鳴瀧は深くため息をつく。
 調伏の命が下された以上、蝶子を本来ならば野放しにするわけにはいかない。
「僕は陰陽師であって検非違使ではありません。
 悪霊や鬼を狩る方法は知っていても、咎人を裁く権利は持ち合わせておりません」
 確かに鳴瀧は陰陽師であって検非違使ではないため、人に戻った蝶子を裁く権利はない。本来ならば検非違使を呼び、引き渡すのが常だ。そして、罪によって償いが処せられるが蝶子の場合犯した罪があまりにも重すぎる。検非違使の手に渡れば死罪は免れないだろう。
「髪を下ろされたということならば、この世とは離別したも同意。
 どこかの尼寺でもって、亡き親王様の菩提を弔われるのがよろしいでしょう」
 鳴瀧の言葉に蝶子は目を見開く。
「榊」
 鳴瀧は背後に控えていた榊を呼ぶ。
「了解しました。後始末は私に任せて下さい。
 更衣様が穏やかに過ごせることの出来る、尼寺を探して見せましょう。
 内裏には三条の更衣様、調伏終了とお知らせでよろしいですか?」
「構わない」
「では後始末は私がやっておきますから、鳴瀧殿は手当を受けて下さいね。
 先ほどから、北の方様がものすごく心配そうに、鳴瀧殿のことをごらんになってますよ」
「蝶子姫、手配が住むまでは当家に滞在して頂くことになりますがよろしいですか?
 ごらんの通り狭く、人手の足りない屋敷ゆえ、不自由をなさると思いますが」
 鳴瀧の問いに、この屋敷でさえ今の自分には立派すぎると、儚げな微笑みと共に告げると、蝶子はその場に跪き深く頭を下げたのだった。




「皆様の、ご温情・・・深く感謝を申し上げます  








 優雅に下げられた頭は、長くあがることはなかった。