百名山最後の山、幌尻岳

(2006年7月)

幌尻山頂部 幌尻岳山頂標識
幌尻岳山頂は雲の中 幌尻岳山頂

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幌尻岳は懐かしき想い出の山

 奇しくも「百名山」の最後の山は幌尻岳となった。私にとって幌尻岳は想い出の山だった。1962年のワンゲル夏合宿ですぐ近くを通っているのだ。トッタベツ川を遡って天上の楽園七ツ沼にはいり、七ツ沼カールを登って幌尻岳とトッタベツ岳の稜線に出た。そこから2キロ程のところに幌尻岳があった。しかし幌尻岳は我々の隊の計画には含まれていなかったので反対側のトッタベツ岳に登り、ポンチロロ川に下った。そこで台風に遭遇し2日間停滞して命からがら脱出した。ようやく麓の村に出ると、30年振りという洪水で農地は冠水し、通信、交通が途絶していた。最も印象に残る山旅だったので、幌尻岳も忘れられない山であった。トッタベツ岳から見た黒々とした幌尻岳の偉容は目に焼き付いている。
(「想い出の山旅」ー「北海道合宿、七ツ沼とポンチロロ川」
七ツ沼とトッタベツ岳(1962年) 幌尻岳を望む(1962年)

 いよいよ幌尻岳に挑戦することになったが、幌尻岳は簡単には登れない山だった。理由はいくつかある。1 北海道の夏は観光客で一杯で飛行機の予約を取るのが大変。2 幌尻山荘は予約がないと泊まれない。3 アプローチが長い。4 沢を遡行するので増水時には徒渉不可能となる。5 熊が出没するので単独行は避けたい。6 食料、炊事用具、寝具持参で、さらに沢用の靴、着替えなど重装備になる、等々である。このため、私はトムラウシに続いてツアー登山を利用することにした。昨年8月、朝日旅行のツアーに参加して現地まではいったが、折からの雨で額平川は濁流となり、引き返すことになった。今回、ワンゲル同期O君が同行してくれることになったのは僥倖であった。

ガスカートリッジの入手方法に頭を捻る

7月9日(日) 自宅 5:15 → 6:30 羽田空港 8:00(JAL) → 9:30 新千歳空港 10:00(レンタカー) → 16:00 振内町 松永旅館
 アメリカ同時多発テロ事件以来、日本の空港でもテロ警戒が厳しくなり、携帯用ガスバーナーのガスボンベが持ち込めなくなった。どうしようかと思案していたらイワタニガスのホームページで千歳空港の土産物屋で購入できると書いてあったので予約しておいた。
 千歳空港到着後、出口のすぐ横にあったの売店でガスカートリッジを入手した。レンタカーを借りて日高に向かって出発した。今日は泊まるだけなので、途中の「レ・コード館」なるレコードの博物館を見学。ついでに名馬ナリタブライアントの記念館も見学。その後二風谷のアイヌ資料館を見学して、振内の松永旅館に着いた。国道沿いの旅籠風の宿だった。
 宿の親爺さんがタクシーに乗れば北電取水口まではいれるかもしれないというので、手配を頼んだ。明朝3時出発ということになった。
 料理、値段とも満足な良心的な宿だった。

幌尻は大きな山だった

7月10日(月) 松永旅館 3:00 → 4:10 北電取水口 4:50 → 6:50 幌尻山荘 7:30 → 9:50 命の泉 → 11:25 幌尻岳 11:40 → 14:20 幌尻山荘
 2時半に起き、今日は水の中をじゃぶじゃぶ歩くので、トレーナーズボンを穿いた。3時にレンタカーに乗って待っているとタクシーがやってきた。O君がタクシーに移り、タクシーに先導されて国道から幌尻岳方面の側道にはいる。深夜の道をタクシーは猛スピードで走る。ワールドカップ決勝戦フランス対イタリアの実況放送が切れ切れに聞こえてくる。随分走ってから林道にはいった。タクシーは曲がりくねった砂利道を50〜60キロで飛ばす。私は必死に付いてゆく。先導がなければ道を探すのに苦労しただろう。ようやく駐車場に着いた。大分明るくなってきた。駐車場には10数台の車があった。私は急いで登山靴に履き替え、タクシーに乗り換えた。ここから先は一般車ははいれない。タクシー運転手はゲートの鍵を開け、さらに20分近く走って取水ダム入り口に到着した。高いタクシー料金を払ったが2時間の林道歩きをカットすることができた。
 旅館で作ってもらった弁当を食べた。2段重ねで、ご飯は一合近くあり、サケに卵焼き、揚げ物まであった。
 いよいよ登山を開始した。取水口の近くで、滑り落ちそうな高捲き道があったが無視して沢通しに進むと一枚岩のヘツリあった。足掛かりが見えずたじろいだ。水面からの高さ3〜4メートルで滑り落ちたらただで済みそうもない。意を決して取り付く。僅かに手のホールドがあり、慎重に足を運び渡った。出だしから危ういヘツリとは手強い沢だ。
 しばらく右岸を歩いて、第一徒渉点に出た。思ったより川幅は狭く、水量も多くはない。ワンゲル時代のように登山靴のまま無造作に沢にはいった。膝の上くらいで快調に渡る。その後、第2、第3の徒渉も同じような感じだった。40分くらい行ったところで、左岸のヘツリがあった。淵の上4〜5メートルのところをヘツる。岩や沢をやらない一般登山者は緊張するだろう。上流から下ってくるパーティに次々に出会う。1ピッチで休憩。晴れてきたのが何よりもうれしい。
 その後も基本的には同じような渓相で、一番深いところで股下程度だった。滝がないので楽だ。20回ほど徒渉を繰り返し、右岸の森林帯の道をしばらく歩くと、ひょっこり対岸に幌尻小屋が見えた。最後の徒渉をして、水を滴らせながら小屋の前の広場に着いた。
 小屋には留守番の外国人青年がいた。一番乗りなので2階の一番奥に毛布で場所を取ってくれた。濡れたトレーナー、下着を脱ぎ、着替える。靴下も履き替え、濡れ物を針金に吊してから、手早くサブザックに昼飯を詰めて、幌尻岳往復に向かった。
 急な登りが続き、2ピッチ歩いても「命の泉」にでない。大きなシラネアオイの花が数輪咲いているところで休憩した。
 3ピッチ目を歩き出したらすぐ先が「命の泉」だった。ぶよが群がっていて水場まで降りてゆく気も起こらないのでそのまま通過。森林限界を超えて見晴らしはよくなるが、痩尾根の天辺に付けられたはい松を潜るような道は結構消耗する。左右から枝が伸びていてヤブに近い。そこを通り抜けるとなだらかなお花畑の中の道となった。チングルマ、ツガザクラ、ミヤマアズマギク、ハクサンイチゲ、イワギキョウなどが咲き誇っている。ここで休憩。眼下に北カールの底に広がる草原、雪渓、小川が見えた。見上げればトッタベツ岳の三角形の頂稜が佇立している。ここで弁当の残りを平らげた。
 最後の登りに掛かる。本当に大きな山だ。9合目あたりから上はガスで覆われている。小ピークが次々に現れ、なかなか頂上に着かない。それでも、霧の中にパイプの支柱が見えてきた。何だろうと思いながら近付くと、あの特徴ある山名表示板だった。11時25分、念願の幌尻岳に到着した。百名山の最後を飾るにふさわしい堂々たる山だった。
 桃の缶詰を開け、ゆっくり休憩した。ガスに覆われて展望がないのが残念だった。七ツ沼の近くまで行ってみたかったが諦めた。
 満足して山を下る。登山靴がやたらに滑った。ビブラム底が磨り減ってきたせいだろう。一度尻餅を付き、かばった右肩を少し痛めた。用心しなければと思ったが、痩せ尾根の急下降で何度か滑った。「命の泉」まできてやれやれと休憩した。
 沢音がしてきてからが長かった。それでも天気はいいし、まだ陽も高いので気分的には楽だった。幌尻岳に登った喜びを味わいながらゆっくり下った。
 小屋の前には多くの登山者がたむろしていた。さすが幌尻岳、百名山ハンターが続々とやってくる。ヘルメットを被り、腰ベルトにカラビナを付けた数人のおばさん軍団が2名の中高年男性に引き連れられてやってきた。沢靴に防水スパッツの完全装備。その完璧な装備に驚かされた。登山者の7割方がツアー登山のようで、殆どが中高年で、圧倒的に女性が多かった。
 小屋の前の沢に出て、岩の上に腰を下ろし、O君持参のウィスキーで乾杯。黒、茶、白、色取り取りの底石の上を透明な水が嘗めるように流れてゆく。沢の流れはいつ見ても飽きない。何とも贅沢な時間だった。
 4時に小屋の前に敷かれた青いシートの上で食事の支度をした。温めるだけの米飯パックにレトルトのカレーをかける。混雑する幌尻山荘ではこれが正解だった。50人近い客で小屋は満員だった。5時過ぎにはみなシュラフに潜っている。仕方なく私たちもシュラフにはいった。ぎゅう詰めで幅60センチ位のスペースしかなく閉所恐怖症になりそうだ。トイレに行く通路もないのが気懸かりだった。久し振りに利用したシュラフは足を開けない。こんな不自由なものだったかと驚いた。7時に「自家発電を止めるので、トイレのご用は今のうちに」と案内があった。真夜中のトイレは他の人の迷惑になるので、私もぎゅう詰めのシュラフの間を慎重に足を運び、1階トイレの行列に並んだ。10人近い女性が並んでいたので、外に出て用を足した。
 消灯になった。部屋の中は蒸し暑い。山小屋は眠れないものと割り切っているが、それでも長い夜だった。
幌尻山頂部 幌尻岳山頂標識
トッタベツ岳を望む 幌尻岳北カール
幌尻山頂部 幌尻岳山頂標識
エサオマントッタベツ岳 幌尻岳山頂よりトッタベツ岳を望む

油断大敵、沢で転んでずぶ濡れ

7月11日(火) 幌尻山荘 5:00 → 7:00 取水ダム 7:25 → 9:25 駐車場 10:00 → 11:20 松永旅館 11:30 → 13:00 ファーム富田 → 15:00 元湯白銀温泉
 3時前に最初の一人が起き出して懐中電灯の光線が飛んできた。ごそごそパッキングする音がやかましい。僕らは幌尻岳登頂を果たしているので、4時頃おもむろに起き出してゆっくりと朝食の支度をした。今日はかゆのパックにしたが少々物足りなかった。
 吊しておいた下着とトレーナーに着替え、5時に出発した。難なく1ピッチ沢を下って休憩した。
 難場の左岸のヘツリも通過して、次の徒渉点の速い流れも順調に渡り、対岸の岩まで後1mくらいに所に差し掛かった。岩を回り込む所が一段と深くなっていたが、後一歩で渡れると左足を無造作に踏み出したら、つるっと滑って横倒しになった。胸の辺りまで水に浸かりながら慌てて右手で目の前の岩角を掴んだ。立ち上がろうと右手に力をいれたが意外に水流が強くて、しばらく腕の力と流れの力が拮抗していたが、何とか岩を引き寄せ、身体を起こして対岸に渡ることができた。岩から右手を離したら大分流されたろう。胸までびしょ濡れになり、登ってくる登山者とすれ違うときはちょっと恥ずかしかった。
 それからがやたらに長く感じられた。下りだから楽だろうと高を括っていたのが大間違い。それほど高低差はないのだから登りも下りも大して変わらないのだ。最後の徒渉を終えて右岸通しに歩いて行くと、右に捲道の表示があったので、その道を選んだ。草付きの急斜面に細い踏跡が30メートルくらい登っている。そこからトラバース気味に小さな尾根を超えると、滑りやすい赤土の急斜面に細道が一直線に下っていた。左側にロープが付けられていたので、ロープを頼りに下ってゆくと、途中でずるっと滑り身体が半回転した。足掛かりを失ってズルズル滑ったが必死にロープに縋り付いてかろうじて止まった。ズボンとザックが泥だらけになり、右肘の内側に5センチほどの擦り傷を作った。体制を立て直してから、後ろ向きになってそろりそろりと降りた。ロープを強く握ったので手のひらが擦りむけそうだった。河原に下ると、すぐにダムの取水口に着いた。今日は2度も醜態をさらして格好悪かった。
 取水口の広場で濡れた衣類を着替えてさっぱりしたが、その分ザックが重くなった。それから林道をテクテク歩いた。登ってくる人が多い。幌尻小屋は昨日より混み合うだろう。日差しが強く汗が滲んできた。丁度2時間で駐車場に着いた。
 濡れ物を車の屋根に広げ、登山靴には新聞紙を詰めた。それから木陰で紅茶を沸かして昼食にした。
 松永旅館に荷物を預けているので来た道を戻ったが、途中で道を間違えて貫気別に出てしまった。大分遠回りをして松永旅館に戻った。北海道は広いから分岐では慎重に道を選ばなければならない。

 松永旅館で荷物を受け取り、次の目的地である十勝岳山麓の白金温泉に向かった。翌日十勝岳に登る予定だった。私は1998年に望岳台から十勝岳山頂を目指したが山頂間近で濃霧のため引き返していたのでもう一度チャレンジしようと思ったのだ。O君も十勝岳に登ったことないので異存はなかった。2人で運転を交代しながら富良野に着いた。時間があるので「ファーム富田」に寄ってみた。なだらかに起伏する丘陵に紫や白、黄色、桃色の帯を拡げたような畑は見事なものだった。しかしそれは観光用の人工的な美しさであり、私は半世紀近く前の夏合宿で来たときの麓郷辺りの広大無辺の草原を忘れ難く想い出すのである。
 富良野から白金温泉に向かって車を走らせていると雨が降り出してきた。元湯白金観光ホテルの駐車場に着いたときはどしゃ降りになっていた。
幌尻山頂部 幌尻岳山頂標識
ファーム富田 ファーム富田
幌尻山頂部 幌尻岳山頂標識
ファーム富田 ファーム富田より十勝岳連峰を望む

十勝岳は雨で登れず、観光に

 7月12日、朝起きたらまだ雨が降り続いていた。私もO君も雨を押してまで十勝岳に登る意欲はなかった。私にとって十勝岳はついていない山だった。あっさり方向転換して小樽に行ってみることにした。ゆっくり朝食を取り、8時に宿を出た。
 小樽では三角市場や運河をブラブラし、日本銀行旧小樽支店を見学して、寿司屋通りで美味い寿司を食べて、定山渓グランドホテルに泊まった。
 7月13日、若い頃に札幌支店のスキー仲間とスキーをしたことがある中山峠を通って洞爺湖に向かい、西山火山散策路を回った。2000年の有珠山噴火は毎日テレビで放映されたから既視感があった。普通に人々が住んでいる所で噴火が起こるという事実に暗然とした。支笏湖では水中遊覧船に乗り、ヒメマスの群や湖底の柱状節理を見ることができた。北海道は羨ましいくらいに道路が整備されているからドライブも楽しい。
 千歳空港に戻って2時過ぎの飛行機に乗り、7時半には自宅に戻っていた。学生時代に始めて北海道に行ったときは列車と青函連絡船に乗って28時間かけて帯広に着いた。まさに隔世の感である。

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